マイセン(41) 東独時代のマイセン① | 気ままな日常を綴っています。

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東ドイツ時代のマイセンは、かなりレベルが高かったと思われます。

この時代のマイセンの作品は、西側諸国に流れる事はあまり無かったと推定されます。

聞くところによると、日本でも一箇所のみの仲介会社を通じてしかマイセンは買えなかったようです。

冷戦時代下の東ドイツですから、社会主義国家で有り、マイセン工場は国営でした。

 

この当時の事を伝える雑誌があります。

これは1984年に発行された「陶芸の美」と言う雑誌です。

私はこれをヤフオクで500円で見つけました。

当時で定価2500円の雑誌で、写真なども豊富に載っています。

 

この雑誌の、三上次男先生(当時の東大名誉教授)のお書きになられた記事によると、東独時代のマイセンは、工場というよりも工房に近い雰囲気だったようです。

すなわち、18世紀とか19世紀のマイセンさながらの雰囲気で、職人達が自らの能力の全てを賭けて作品作りに打ち込んでいる様子が如実に記載されています。

 

さて、下の写真をご覧ください。

 

これは18世紀のヘロルト時代のモチーフに酷似していますが、おそらく東独時代下のマイセンで作られた作品と推定されます。

(雑誌には、これが作成された年代記載は有りませんが、アンティーク・アーカイヴさんで同じような東独時代の作品が紹介されていたのを見た事がありますから。)

 

現在、この類の作品を未だ作っているかも知れませんが、商品化するのは極めて困難かも知れません。

何故なら、作成するのにかなりの時間と手間と技術を要しますし、技術を同じように再現出来るかも疑問だからです。

もし、作れたとしても、莫大な値段が付けられる為、注文販売とかではない限り「何時売れるのか❓」という問題に直面するからです。

実際、先日ご紹介した「ネーム・ド・ビュー」や「名画シリーズ」のような細密な作品は現在のマイセンでは作られていません。

 

ベルリンの壁崩壊後のマイセンは、「会社組織」なのです。

つまり、営利を追求し自活して行くべき運命に有るのです。

如何に高品質の作品をコストをなるべくかけずに大量に世界中に売り捌くのか、という「視点」が第一に来るのです。

そのような中では、「ネーム・ド・ビュー」のような採算の取れない作品の制作は断念せざるを得ないのです。

 

即ち、ベルリンの壁崩壊の前後のマイセンは、それぞれ「全く別物」と言っても過言では無い、と思います。

東独時代のマイセンは、「国家の保護」の下、厳選された職人達の手によって丁寧に作られ、職人達の芸術的センスの向上にも惜しみなく国家が援助していた時代です。

その作品は、外国の要人達などに贈られた国家の威信を賭けた芸術品だったのです。

だから、東独時代下のマイセンは、王族が保護していた18世紀や19世紀のマイセンのやり方が脈々と引き継がれていたものと思われます。

 

ちなみに、ですが、現在のフランスのSèvresは国営です。

セーヴルは年間6000ピース(カップとソーサーはそれぞれ1ピース、シュガーポットも本体と蓋で各1ピースと数えられます)制限され、職人達の質も向上されるよう、育成に努められています。

そして、出来上がった作品は、おそらく市場に出回る事は稀で、主に国賓への贈答品などに使われていると推定されます。

現在、一般人が「Sèvres」を手にしようと思えば、骨董屋に行ってアンティークのものを購入する以外に手は無いと思われます。

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今日はここまでです。

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