ウイーン磁器工房(3) 第二期 帝位時代(1744ー84年) | 気ままな日常を綴っています。

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芸術好きなマリア・テレジアは、1744年、この工房をハプスブルグ家の皇室直属窯の勅許を与え「インペリアル ウイーン磁器工房」とし、この工房で作られる製品に対して、ハプスブルグ家の盾型紋章を商標として利用する事を許可しました。

 

 

(現代物:アウガルテン マリア・テレジア)

さて、1744年以降というと、カール6世はすでに他界しており、オーストリアは、ハプスブルグ家領シュレジエンに領土的野望を持つプロシアの餌食となって戦争(オーストリア承継戦争 1740ー48)に巻き込まれ、敗北に終わってしまいました。

その間、窯にとっても困難な時代が続いたのです。

評価の回復を図るべく、セーヴルの強い影響を受けたロココ様式の磁器は薄れ、独自のウイーン様式の完成に近づいていったのでした。

 

帝立になって5年後の1749年、ハンガリーのシュメルニッツで良質のカオリンが発見され、それまでのバッサウ産のカオリンに替えて新たに獲得した磁土を用いた作品が中心になりました。

窯印も、この出来事を機に、従来の刻印から、釉薬下に青の染付で書くように改められました。

 

1760年には、ついに念願の黒字経営が達成し、後世まで偉業を伝えられる多くの名工を集めて、実験を繰り返しつつ、独特の佳作を生み出して行きました。

ところが、ウイーン窯の贅沢な試みは、やがて売り上げと支出の逆転を招き、マリア・テレジアが亡くなる1780年頃には慢性的な赤字・経営難状態に陥って行ったのです。

 

1784年、皇帝ヨーゼフ2世は、窯を競売にかけましたが、誰も買い手が付かず、新たにコンラート・ゾルゲンタールに命じて経営を担当させる事になりました。

そして不安のうちに最終発したウイーン窯は、新体制の下で大輪の花を咲かせる事になったのです。

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(1762〜83年)

第二期後半の真正品。ウイーン画の典型とも言える細密な絵付けで、、中間色を用いて抑制を効かせた画風は、同時期のマイセン窯の水準にも引けを取らないバランス感覚に優れた構図と、落ち着いた情感をたたえている。大底樹木を配した石造りの建築物の絵が多く橋や帆船などを含む水辺の風景をうまく取り入れた作品が見られる。

 

(1765〜71)

ウイーン窯第二期真正品。

かなり図案化された花木は、松、竹、梅、牡丹などを自由に変形して組み合わせ、マイセン窯のように強いトーンを用いずにまとめている。特に薄い青緑色はウイーン窯を特徴付ける物の一つである。

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今日はこれまでです。

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