マイセン(32) マイセン黄金時代の終焉① | 気ままな日常を綴っています。

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ケンドラーの入所以来、こうしたセルヴィスのデザインでは何よりもフォルム、即ち彫塑性が重視されました。

多くの点で強欲で、自己主張の強い芸術家であったケンドラーは、製作所における絵付に対する彫刻の優位性を証明する事に執念を燃やしました。

絵付けと彫刻の両者を調和させる事で作品の総体としての芸術性を高めようとは考えず、ヘロルトを幾度となく激しく糾弾するようになり、ヘロルトを非難する従業員は次第に数を増しました。

 

こうした批判を受けてか、1739年以降のヘロルトは絵付けの講義もやめてしまいました。

1740年以降、芸術の領域に達するような優れた絵付けが、マイセンにおいて激減した一因にはこうしたヘロルトの立場の揺らぎが有ったのです。

 

一方、ケンドラーは、食器のみならず、フィギュアやフュギリーンと呼ばれる小さな彫像や大型のセンターピースなどの製作において天賦の才能を開花させ、数多くの優品を世に送り出し、マイセンにヨーロッパ一随一の磁器製作所の栄光をもたらしました。

 

しかし、こうした繁栄は長くは続きませんでした。

製作所は、ザクセン侯国が巻き込まれた7年戦争(1756ー1763)のもと、深刻な被害を被ったのです。

特に、第3次シレジア戦争(シュレーシェン戦争)の爪痕は壊滅的で、フリードリヒ大王によって製作所が占領され、大量の在庫品の磁器が没収され、焼成窯も破壊されて一時操業停止にさえなったのでした。

最終的には、フリードリヒ大王の為にマイセンが無償で納入した製品は、およそ28万ターラー分にもなったのです。

 

ヘロルトをはじめとする製作所の要人である秘法保持者たちは、戦時下に磁器製造の秘法を守る為にフランクフルトへ疎開しました。

一方、製法に無縁だったケンドラーは、製作所に残り、生産再開後は再び彼自身のライフワークと念じたアウグスト3性の騎馬像の制作を、事もあろうにフリードリヒ大王の騎馬像だと主張しながら執念深く続行するという奇行を見せました。

 

一方、フリードリヒ大王の注文品である彫像やセンターピース、大型花瓶、セルヴィスなどの制作にも精力的に取り組みました。

しかしながら、戦時中には芸術面でも品質面でも、以前のような成果が達成される事は無かったのでした。。

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今日はここまでです。

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