マイセン(24) アウグスト、磁器の巨大造形をマイセンに求める(絵付けから造形への多様化) | 気ままな日常を綴っています。

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工場が発展するにつれて、アウグストの磁器への思いは一層熱くなり、磁器の宮殿の計画は益々途方も無いものになって行きました。

フォン・ホイムとルメーアの事件が公になった時でさえ、アウグストは自分の計画を一時棚上げすることを拒み、フォン・ホイムとルメーアの家から押収された磁器は、ことごとく王のコレクションの数を膨らませる事になったのです。

 

王は、オランダ宮殿が今のままでは、夢のコレクションを入れるのに広さも異国風の雰囲気も足りないと結論し、大々的な改築工事に取り掛かったのでした。

宮殿はコの字形で、三方を囲まれた中庭がありました。

それが日本風の宮殿に生まれ変わる事になったのです。

そして2階の回廊部分には、壮観な磁器の動物園を作ろうというものだったのです。

 

アウグストがこのような磁器の動物園を求めたことで、マイセン工場は厄介な問題を抱え込む事になったのです。

当時はヘロルトの支配下で、絵付けが全てに優先されていたのです。

小さな茶碗から大きな壺や皿に至るまで、全ての製品の形が絵付けが引き立つように単純化されていたのです。

ヘロルトは、創意に富む型作りや変わった塑像が行われないように、目を光らせていたのです。※(追記)参照

従って、マイセンには自慢できるような瓶の取っ手一つ作れず、たとえ王の命令でも、そのような複雑な仕事が出来る職人は一人も居なかったのです。

 

それまでのアウグストは、ヘロルトの素晴らしい絵付けに満足し、新鮮で面白いデザインの品物が作れない事を咎めませんでした。

しかし、磁器の動物園を作る計画が具体化するにつれ、王は不満を募らせて、王が心に描くような動物を大量に作り、マイセンの商品を多様化する事が出来る熟練した造形師を探すように命じたのでした。

 

マイセンが最初に声をかけたのは、21歳の彫刻師のキルヒナーだったのです。

キルヒナーは石の彫刻を得意としていましたが、磁器の彫刻、しかも実物大の像を作るという課題の複雑さを甘く見ていたのでした。

キルヒナーは、造形工房の一面に作業場を与えられていましたが、たちまち彼の作業場は瓦礫の山に埋もれて行ったのです。

 

彼の苦悩と挫折は、たちまち皆の知る所となったのです。

「塑像の親方」と呼ばれた男は、数週間のうちに、他の造形師や徒弟の侮蔑の的となったのです。

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今日はここまでです。

いつも読んで頂きまして有難うございます💞

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(追記)

これは、レリーフ文様が入った絵皿ですが、最初にこれを買うときに「中心の絵付けが小さい」ので少し物足りなかったのです。

結局、予算の関係などからこのプレートをなんとなく購入したのですが、後から考えれば、マイセンの歴史を考える上では、ちょっと面白い作品であるらしい。。と気づきました。

 

マイセンには、いくつかのレリーフのパターンがあります。
今回の「グリーンワトーセルヴィス」を構成していたと思われるこの作品は、「ノイ・マルセイ
ユパターン(Neu marseille)」という1739年に造形師ケンドラーが考案したレリーフのパター
ンを使用しています。
これは「型抜き」でレリーフの文様を付けることによって造形されています。
型抜きをする事によって同じ文様、同じ大きさのプレートが作る事が出来るのです。
陶磁器に於いてセルヴィス(=揃い?)というものを完成させたのは、マイセンのケンドラーと
言われています。

ノイ・マルセイユ・・・温かい明るい海への憧れなのでしょうか・・・。
貝殻のモチーフも用いられています。

絵付けは、全般的に小さめです。
レリーフにも装飾性が有るため、レリーフの美しさを損なわないよう上品なサイズになってい
るようです。
中心のワトー図がグリーンと肌色のみの色彩で描かれているのも、レリーフとの調和を取る為
ではないか・・と思います。

要するに、ヘロルトは「上記の事」を嫌がったのですね。

磁器に文様が掘られると、どうしても「そこに絵付けをすることは出来ない」のです。

しかも、絵付けの面積は小さくなり、「添え物的」にならざるを得なかったのですね。