マイセン(22) ヘロルトが頂点に立った後のマイセンの課題ーー造形。 | 気ままな日常を綴っています。

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さて、まだ35歳だったヘロルトは、マイセンの頂点に立ち、以後絵筆をとる事はほとんど無くなり、もっぱら経営者として製作所の運営に関わる事になりました。

そして1731年6月1日、ヘロルトは豪華な新居に移り住み、自分の栄華を楽しんだのでした。

 

しかし、マイセンには、一つの問題点が未だ解決されていなかったのです。

その問題点を解決すべく、ヘロルトの新居移転の2週間後の6月15日に、マイセンに新しい働き手が加わったのでした。

その男の事を、ヘロルトは未だ知りませんでした。

 

1730年代以降も、絵付け師達は多くの優れた絵付けデザインを生み出して行きました。

「木版画の花」「ドイツの花」や「様式化した花」、プーシェの版画に基づく「ロココ人物画」、「狩猟図」、「鳥図」などヴァリエーションも豊富でした。

それらは、ロココ時代の流行の求めに応じてヨーロッパ的なデザインに入れ替わって行きます。

シノワズリー様式は、徐々に時代遅れの印象を持たれるようになり、廃れて行きました。

 

1720年代のヘロルト活躍時代の代表的な優品は、高度な絵付け技術や絵画的な意匠の美の芸術性を持った反面、器形は東洋磁器やヨーロッパの金属工芸に基づく単純なものだったのです。

即ち、全ての芸術的追求は、その絵画性に根ざすものであり、それだけに絵付けに芸術的な表現力が求められていたのです。

 

1730年代には、後に述べるように天才彫刻家ケンドラーが活躍し、高度な彫刻による立体の造形性に根ざす美がもっぱら主張されるようになって来ました。

製作所は、絵付けを「立体に従属する装飾」として位置付ける方針を取るようになり、それに伴って残念ながら絵付けの芸術性は低下していくのでした。

 

そして、ケンドラーの出現こそ、不動と思われたヘロルトの権勢を脅かす事になったのでした。。

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今日はここまでです。

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