すなわち、前回(18)の偽造事件の話はこういう事なのです。
この模造事件は、10年前のシュテルツエルがウイーンに逃亡して以来の、磁器の秘法の安全をもっとも脅かす事件だったのです。
1729年、アウグストは、未だ政務の為にポーランドへ赴くことも多く、時の首相フォン・ホイム伯爵をマイセン工場の特別支配人に任命し、自分の代理を務めさせる事にしました。
フォン・ホイムが外交上の任務でヴェルサイユ宮殿に滞在していた頃、フランス人のルドルフ・ルメーアと知り合います。
ルメーアは、どんないかがわしい話であろうと、商機は見逃さない企業家でした。
フォン・ホイムがザクセンに戻ると、間も無くルメーアは、フォン・ホイムがヨーロッパ一名高い磁器工場を預かっている事を聞き付け、ドレスデンに来て彼の元を訪ねたのです。
二人は、並ぶ者が無い程の金持ちになる事を目指して、マイセン工場を食い物にして色々な策略を練ったのでした。
アウグストはフォン・ホイムにそそのかされて、ルメーアにフランスとオランダの両国でマイセン磁器を独占販売する許可を与えたのでした。
ルメーアは、フランスの最近の流行は熟知していました。
そして、パリの目抜き通りの店に足を運ぶ垢抜けた客の間では、東洋磁器、とりわけ柿右衛門様式への需要が未だ満たされていない事に、ルメーアは気づくのでした。
柿右衛門は、未だ新興の工芸品とみなされていたマイセンよりも、ずっと値が張る美術品だったのです。
フォン・ホイムは、そこで、工場に手配をし、柿右衛門様式をそのまま模倣した作品を、ルメーアの元にたくさん出荷させたのです。
二人は、恐れ多くも、国王の所蔵品のうちで最良の作品のから、図柄と形をそっくり頂戴する事に決めました。
その為、オランダ宮殿になるアウグスト自慢の作品120点以上が念入りに梱包されて、12マイル離れたマイセン工場まで運ばれ、そこで多数の複製品が作られたのです。
こうした作品の値段は安く仲介料ばかりが高いので、誰もが工場を潤してくれると信じていた代理人達によって、マイセンはみるみる搾り取られ、瀕死の状態に陥って行ったのです。
ルメーアは、フォン・ホイムをそそのかして、今やどの作品にも付けられるようになったマイセンの双剣マークの入らないものを作らせたのです。
もし、マイセンの双剣マークさえ入れていれば、その作品は「有田の」柿右衛門様式として売却されたのでは無く、「マイセン作の」柿右衛門様式写しとして売却される事になるので、不正では無くなり、代理人達の着服も明るみに出にくかったでしょう。
しかし、当時は「有田の柿右衛門様式」として売却すれば、大変な高額で作品を売り捌く事が可能だったのでした。。
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今日はここまでです。
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