マイセン(14) ヘロルトの絵付けの技術の向上が、マイセンの上絵付けの絵の具の開発を推し進める。 | 気ままな日常を綴っています。

気ままな日常を綴っています。

いつか静かに消える時まで。。
一人静かに思いのままに生きたい。。

1720年にライピチヒで開かれた感謝祭見本市では、マイセンの磁器が飛ぶように売れ、注文も殺到しました。

収益はまださほど多くはありませんでしたが、工場はやっと経費を自前で賄えるようになり、また、有能なヘロルトが絵付けをする事もあって、マイセンの発展は止まる事を知らぬかのようでした。

 

ヘロルトの絵付けは、次第に独特の様式として確立しつつありました。

彼は、奇抜で精細な中国趣味(シノワズリ)の絵柄を、手の込んだ渦形模様の枠組みの中に描く事に熟達して行ったのです。

ヘロルトの新しい画風の鍵となる要素は色彩であり、多くの色絵の具を開発する必要性がこれまでにも増して高まって来ました。

あの、染付用の青絵の具を作った秘密主義のケーラーは、長年の研究の結果、上絵付けの絵の具の改善にもいささか成功していたのです。

しかし、病的な秘密主義から、それらの製法を委員会の誰にも教えようとはしなかった、即ち、自分の立場が弱まる事を恐れたのでした。

 

人当たりが良く口のうまいヘロルトは、自分の出世にケーラーの協力が不可欠だと気づき、なんとか味方に付けたのでした。

しかし、ヘロルトの作る作品が雪だるま式に増えて行くにつれ、さらに多様な色絵の具が必要となったのです。

が、ケーラーが提供するものだけでは足りなくなっていたのです。

 

マイセンには、ケーラー以外にも、そのような複雑な仕事に長けた調合師が必要だったのです。

そしてヘロルトは、マイセンの秘法をウイーンに洩らした事で謹慎中のシュテルツェルに目を付けたのです。

ヘロルトの口添えもあって、シュテルツェルは許されてマイセンに戻り(シュテルツェルはヘロルトを伴ってマイセンに帰りましたが、まだマイセンで働く事は許されていなかったようですね。)、ヘロルトの為に色を作る仕事に就いたのでした。

 

そしてヘロルトがマイセンに来て1年も経たないうちに、彼の絵付けの仕事は大そう繁盛したのでした。

しかしヘロルトは、この儲けの大きい工房を支配していても、まだ不満だったのです。

彼はどうしてもケーラーが秘密にしている上絵付け絵の具の開発方法を知りたかったのです。

最終的に彼の目標は、マイセン工場で権力ある地位に登って行く事だったのです。

 

今日はここまでです。

いつも読んで頂き有難うございます💞