マイセン(13) 1723年、マイセンの「双剣マーク」の刻印が義務付けられる。 | 気ままな日常を綴っています。

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1719年3月13日にベトガーが亡くなって以来、行き当たりばったりだったマイセン工場の経営は劇的に改善されました。

財政難を解決する為新たに任命された顧問委員会が、それまでの経営組織の大々的な見直しを行ったのでした。

委員会は、打ちつづく損失の原因が、主として頭でっかちで不正な経営陣にあり、そのメンバーの多くをお払い箱にしたのです。

こうして効率化と合理化をはかった事で、工場の士気はたちまち上がり、生産量は増えて行きました。

 

そしてそれ以上に重要な事は、ヘロルトが第1級の才能を持つ絵付け師であり、それに加えてプロの絵付け師を育成することの必要性を理解し、実践した事です。

彼は1722年以降、絵付け工房の見習い達を対象にデッサンの授業を始め、後進の育成に尽力しました。

 

また、1723年からは、現在もマイセンのマークとして名高い「双剣マーク」を作品の裏面に書くことが義務付けられました。

それ以前までは、王立磁器製作所を意味する「KPM」や「凧マーク」などが記されていましたが、全くマークを伴わない作品が多かったのです。

「双剣マーク」はザクセン侯国の紋章に由来します。(※この紋章を検索してみましたが、❓あんまり似てないのですよね。

それは最初、釉上に青いエナメル彩で施されていましたが、エナメル彩のマークはマイセンの手を離れた後にも加筆する事が出来る点が問題でした。

 

その為、だんだん釉の下にマークを染付で描く方式に変わって行きました。

染付で描く事によって、「双剣マーク」のある作品は確かにマイセンの製品である事を証明する意味を持つ事になりました。

なぜなら、染付の絵付けは、素焼きの素地に直接描き、その上に釉薬を掛けて本焼成するので、本焼成した後に加筆する事が出来ないからです。

 

こうした染付のマークが徹底される前に製造された1720年代の作品については、マークを伴わない作品も多かったのですが、マークの有無は作品の質や真贋を決める根拠にはなりません。(後述:1729ー1731年、1729年よりマイセンと販売契約を結びドレスデンに居たパリの商人ルドルフ・ルメーアと、当時のザクセンの第一大臣で製作所のフォン・ホイム伯爵との密約によりヘロルトを巻き込んだマイセンによる柿右衛門様式の陶磁器の偽造事件。

主として有田の柿右衛門様式の絵付けの作品に「無マーク」のものが多く作成(「柿右衛門」が作ったとする為に、マイセンの双剣マークは記入されていない。)され、その多くは現在ドレスデン国立美術館の所蔵となっています。

15年ほど前、東京の骨董店「ロムドシン」さんも所蔵されているらしい。。。と聞いた事があります。

一部は、世界に分散している様子ですね。

このような「無マーク」の、マイセンがこの時代に作成した柿右衛門様式の写しは、今では「価格がつけられない」秘宝です。

なぜなら、本物のマイセンの絵付け師が柿右衛門様式を真似て描いた、という事自体と、ありえないマイセンの偽造事件の証拠品というプレミアが付くからです。

 

(ザクセン選帝侯の紋章:ウイキペディアより)・・これがモデルっぽい感じがします。

 

(ザクセン侯国の国章:ウイキペディアより)

(ドイツ、ザクセン1628年発行、1ターレルコイン)

今日はここまでです。

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