マイセン(10) デュ・パキエ工房、天才画家ヘロルトを迎える。 | 気ままな日常を綴っています。

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一方、ドレスデンのアウグストは、シュテルツェルの離反に困惑し、彼を取り戻す為の行動を起こしたかったのですが、外交的に厄介な立場に置かれていたのでした。

丁度その頃、アウグストの息子でただ一人の嫡出子アウグスト・フリードリヒ(1696ー1736、後のアウグスト3世)と、神聖ローマ帝国の皇帝の姪マリア・ヨゼファとの縁談を成立させる為に、微妙な交渉が行われていたのです。

この縁談が成立すれば、アウグストは有力なハプスブルグ家の神聖ローマ帝国皇帝と血縁になり、政治的に至極有利な立場を手に入れる事になるのです。

 

そんな事情で、シュテルツエルを捕える事を諦めはしなかったものの、アウグストは彼を取り戻すためにもっと巧妙な方策を用いなければならなかったのです。

 

一方、ウイーンでの磁器製造は、ささやかな成功を収めていたのです。

マイセン工場がこれまで開発したものよりも、はるかに優れた色絵の具をフンガー(彼は磁器焼成には失敗したものの、もともと腕利きのエナメル絵付け師でした。)が開発したのです。

使える色が次第に増えてくると、腕のある画工を工場に雇う事が必要となり、フンガーはウイーンで画家をしていた23歳の美術家と出会います。

後世の、磁器の歴史に大きく刻まれるその男の名前は、ヨハン・グレゴリウス・ヘロルトでした。

 

(ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト)

 

フンガーに紹介された頃、ヘロルトは既に流行に鋭いウイーン子の間で、流行りの中国趣味の壁画を描く画家として知られていたのです。

フンガーは、彼には偉大な芸術的素質があり、ウイーンの磁器工房にとって大きな助けになる人物だと直ぐに感じ取ったのです。

ヘロルトは「見習い加飾工にならないか」と言われて、この仕事に様々な可能性が秘められている事を即座に理解し、承諾をしました。

 

かくも劇的に仕事の方向を変える決意をした事は、ヘロルトが極めて商才に長け、また強い野心の持ち主だった事を示していたのです。

彼がそれまで苦心して描いて来た優美な塔や牡丹の花咲く風景は、上流のどの家庭にもある高価な東洋磁器の背景に過ぎませんでした。

ウイーンに於いても、磁器は富裕層に持て囃されており、そこに財を築くチャンスがあると野心家のへロルトが気付かぬ訳が無かったのです。

 

そして、若いヘロルトが才能を持っている事は初めから確かで、ウイーン工房の絵付けの技術は見る間に進歩したのでした。

生産開始から1年後には、磁器の秘法を手に入れただけではなく、芸術面でもマイセンに追い迫っていたのでした。。。

 

 

今日はここまでです。

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