マイセン(9) シュテルツェル、デュ・バキエに磁器焼成の成功をもたらす。 | 気ままな日常を綴っています。

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ウィーンに到着したシュテルツェルは、磁器の素地造りと焼成の両方の経験を積んでいた為、ウイーン工房(デュ・パキエ)の失敗の多くは使っている土のせいであることに直ぐに気が付いたのです。

シュテルツェルは、オーストリア地元の土を試験してもうまく行かない事が分かると、マイセン工場が使って成功しているアウエ産のシュノルの土を試して見るよう提案したのです。

 

問題は、シュノルはアウグストとの約束でマイセン以外に土を売らないと言う事でした。

しかし、シュノルはマイセン工場の管理者たちに腹を立てていたのです。

と言うのは、支払いがしばしば数ヶ月も遅れたからで、ザクセンとの約束を破るのに良心の呵責を感じる事も無かったのです。

現金払いという約束はあまりにも魅力的で、シュノルは容易に折れて合意したのです。

 

こうしてシュテルツェルは、マイセンに匹敵する磁器を焼くのに必要なものを全て手に入れたのです。

窯もそっくりなものを作り、同じ材料も揃ったのです。

土が届いてからほんの数週間後、彼は鼻高々でデュ・パキエに作品を手渡したのです。

決して手に入れる事が出来ないかと思われた作品は、シュテルツェルが、フンガーや他のペテン師と違って仕事を理解していた明らかな証拠だったのです。

 

待望の作品は、手が2つ付いた背の高いチョコレート用茶碗と受け皿だったのです。

切り込み細工で飾られた「ただ神のみに栄光あれ」という文字が彫ってあり、1719年5月3日の日付がかすかに見て取れるこの画期的な作品は、マイセン以外で初めて作られた本物のヨーロッパ磁器だったのです。

この茶碗は、現在ハンブルグの美術工芸博物館で光彩を放っているそうです。

 

しかし、この輝かしい成功がシュテルツェルの気分を高揚させる事はありませんでした。

なぜなら、大げさなデュ・パキエは、現実と違うバラ色の絵を描かせていた事(シュテルツェルが勝手に「デュ・パキエの申し出が丸々本当」という薔薇色の夢を描いていたのですね。。)がわかったからです。(要するに偉業を成したシュテルツェルに十分な金銭が支払われなかったのですね。)

工場は狭く、働き手は未熟で、資金繰りはマイセンにも増して苦しかったのです。

このような状態では、腕の良い職人を雇う事も無理だったし、彼に約束された報酬もきちんと支払われる事は無かったのでした。

 

そしてシュテルツェルは、だんだんウイーンに移った事を後悔する事になったのです。

しかしながら、マイセンを裏切って磁器製造の秘密を漏らした事は反逆行為になり、ザクセンに姿を現せば死刑になるかもしれなかったのです。。

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(追記)

さて、ウイーン磁器工房の前身であるデュ・パキエ工房の時代、どのような作品が作られていたのか、一部紹介いたします。

直接ネットの画面をお写真で写しておりますので、画像が良く無いのですがご容赦くださいね(^。^)❣️

 

まず、シュテルツェルが最初に作ったというチョコレート用の碗皿の画像は見つける事が出来ませんでした。

 

(1718年 銀・黒彩花鳥図手付き杯 硬質磁器 ウイーン・オーストリア応用美術館)

シュテルツエルが最初に作った作品よりも前の年になっていて、少し疑問がありますが、同時期くらいに焼成されたものかもしれません。

ややくすんで灰色かかった白磁は初期のウイーン磁器の特徴だそうです。

絵付けは、東洋風の花鳥図を黒一色で描き、花の所々に赤褐色を置いています。

現存するウイーンの磁器でももっとも古いものの一つと言われています。

 

(デュ・パキエ工房 1740年頃。)

2つのハンドルを持つこの碗皿はおそらく珈琲かホットチョコレートを飲むのに使用されたと思われます。

1700年代のヨーロッパ人は通常は、ハンドルの無いティーボウルのようなものでお茶を飲んでいたと思われます。

これは、おそらく日本や中国の陶磁器にハンドルが無かった事の影響だと思われます。

 

(デュ・パキエ工房 1725ー30年頃)

日本で使っている急須のような形状ですね。

 

(デュ・パキエ工房 1730年頃)

絵柄的には日本の柿右衛門風に見えますね。日本の陶磁器の影響はもちろん受けていたでしょうね。

なかなか完成度が高いと思えます。

 

今日はここまでです。

今日も有難うございました💞