海を渡った古伊万里  (12) 輸出の終末期に金彩装飾顕著(1740ー1757) | 気ままな日常を綴っています。

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1715年頃から磁器収集をした(※東洋磁器の収集はもっと以前からなされていたと思われます。この収集は日本宮を飾る為の収集と推定。)ザクセン公国のアウグスト強王が1733年に亡くなり、有田磁器の輸出はさらに減少傾向になりました。

  ※ザクセン選帝侯アウグスト強王がドレスデンの「日本宮」を飾るために収集した日本製の磁器コレクションは約1250点。

   今もなお現存する(主に17~18世紀の伊万里焼)。

 

有田磁器の最後の記録は、1757年、オランダ総督官邸用の「金彩平鉢、金彩大皿など300個」の輸出とオランダの記録にある様に、1730年代以降、金彩の装飾が目立つものが多いし、マリア・テレジアのコレクションとされる古伊万里に金属飾りが多いことも、当時の好みを物語るものと言われています。

 

同時にこの時期には、ドイツのマイセンで始まったヨーロッパの磁器生産技術がヨーロッパ大陸のみならずイギリスにも広まって行きます。

 

有田磁器輸出の終焉の理由としては、景徳鎮磁器の価格競争に破れた事と、オランダ東インド会社がイギリスにアジア貿易の首座を奪われて行った事が主因とされていますが、加えてヨーロッパでの磁器生産が広まって行った事も理由として挙げられます。

 

一方、中国景徳鎮磁器の欧州輸出も、有田よりおよそ50年後の18世紀末には終わります。

この主因は、イギリスなどで量産化して行った陶磁器との価格競争に敗れた事です。

19世紀中頃になると、逆に産業革命で量産されたヨーロッパの陶磁器がアジア市場に流通する様になり、中国磁器中心の時代は終わったのでした。

 

(余談)1900年のパリ万国博覧会で金賞を受賞した「染錦金襴手丸紋鳳凰文様大花瓶」

高さ約2メートルで染付のある藍色に上絵の金と赤という古伊万里焼きの典型的な配色です。

惑絵として龍や鳳凰、獅子、松竹梅、菊が表されています。

彫り模様や陽刻も施され「有田の技術を集結した明治期の最高傑作」です。

 

これはろくろで成形されたものですが、手の長さには限度がある為、一気に作る事は出来ませんでした。

口部も別に成形して作りますが、狂い無く積み上げるのには相当な技が必要とされます。

また、焼成により焼きへたらないような強度も必要です。

このような大物作りの技法は、幕末明治がピークであり、今日では再現が不可能に近い状態です。

 

焼き物は、焼成により2割近く縮みます。

この2メートルの大花瓶は、成形時にはさらに大きなものでした。

その素地にまず染付を施します。藍色に、見えている部分です。

そして釉薬をかけて1300度で本焼します。

次は上絵付け(色絵)を行います。

有田では、赤絵と呼び、また、金彩を伴う場合は錦付けとも呼びました。

この作品には赤と金彩が用いられています。

 

今日はここまでです。

いつも読んでいただきまして有難うございます💞

これで「海を渡った古伊万里」シリーズは終了します。

次回から「マイセン」ですね。