中国の磁器が品質的にも優れ、国際的な商品として広く流通していましたが、わが国では中世までは磁器は出来ず、主に中国から輸入していました。
わが国では、16世紀に磁器需要が高まり、後半の秀吉時代には茶の湯が武将や豪商の間で流行します。
即ち、武将として信長、秀吉、茶人として利休、綾部、画家に狩野派、その他僧侶や文人、歌人が活躍した安土・桃山時代に数多くの焼き物が作られ発達して行きました。
志野、綾部、黄瀬戸、伊賀、信楽、備前。。。桃山時代の陶器は、茶道という日本文化が生んだだけに日本的な特質を備えていました。
(この本と主にウイキペディアを参考に、色々調べながら記載しております)
そして同時に、高麗茶碗など朝鮮の陶器への評価が高まって来ます。
当時、肥前松浦党の豪族波多氏が、朝鮮陶工を連れて来て城下で陶器を焼かせていました。
この波多氏が朝鮮出兵の際、秀吉の逆りんにに触れ文禄3年(1594)に取り潰されると、保護者を失った陶工は離散します。
そして、伊万里や武雄など佐賀県南部に陶器窯が拡大します。
(高麗茶碗:井戸茶碗)
さらに、慶長の役の後、多くの朝鮮陶工が連れて来られた事により「唐津」と呼ばれる陶器生産量は急増し、広く全国に流通します。
肥前が日本の陶器生産の中心に躍り出たのです。
連れて来られた陶工の中に磁器の技術を持つ者が居ました。
李参平(り・さんぺい)という陶工です。
彼は1592ー1598の文禄・慶長の役の末期に、有田を含む肥前国の藩主鍋島直茂により20代半ば頃に連れて来られました。
鍋島は、李参平が朝鮮半島で窯業に従事していた事を知り、1599年(慶長4年)から陶器を始めました。
しかし、その当時の日本国内の需要が高かった中国景徳鎮窯の白い磁器には及ばず、李参平は生産に適した白磁石を求めて鍋島領内の唐津焼を作っている窯を転々とします。
最後に有田西部地区の乱橋(現三代橋)に辿り着き、上り窯を築窯しました。
そこには陶器と磁器を同時に焼いた形跡が残っており、陶工たちが研究を重ねていた事が発見されています。
その後、良質で大量の白磁石「泉山磁石」を発見し、1616年(元和2年)に天狗谷(白川)の地で日本初の白磁器を産業としました。
これが有田焼きの起こりである、と言われています。
(古伊万里:白磁陽刻銀杏文皿 1655ー1670 縁取りの銀飾は、ヨーロッパで取り付けられている。このような事は当時は結構行われていた模様。李参平が最初に作った白磁は、このような感じだったと想像される。)
(古マイセンの白磁:ベットガー磁器 1712年頃。有田で焼かれた白磁を真似て成型していると考えられるので、やはり、李参平の作った最初の白磁もこうしたものではないか。。と想像する。ベットがーはアウグスト大王の膨大な古伊万里のコレクションを精査して白磁を発明している。)
(同じく、古マイセンの白磁:ベットガー磁器。1715年頃。1731年に造型師ケンドラーがマイセンに来る前の造型。マイセンは、造型に非常に苦労していたと言われる。)
※天狗谷窯遺跡(有田観光協会ウェブサイトより拝借)
日本で初めて磁器が焼かれた窯の一つとされていて、有田が磁器生産を本格的に展開していく初期の窯です。
ここは陶祖李参平ゆかりの窯でもあり、「泉山で陶石を発見した後、水と薪に便利だったので最初は白川天狗谷に窯を築き、絵描き、細工の技術を教え、しだいに繁盛した」と李参平の子孫金ヶ江家の文書に記されています。窯は山の斜面を利用した登り窯で、幅が3~8m、長さは50メートル以上もあったものと思われます。
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