彼らの評価は幻想だった

 

 前回までの解説で、幼少時代に近親者から「まだまだ頑張りが足りない」という評価を受けながら育ち、大人になった人は今でもその評価を自分で現実に投影しているということがわかったと思います。

 

 こういった現実をくり返さないためにはまず、あなたにとって絶対的な存在であった近親者のその絶対的な評価が幻想であったことに気づく必要があります。というのも、彼らも今のあなたと同じように、まだまだわからないことが多いひとりの人間にすぎなかったからです。つまり彼らは完璧な(絶対的な)人間ではなかったし、今もこれからも死ぬまで完璧ではありません。完ぺきな人はこの地球に転生することができないのです。言い方は悪くなってしまいますが、完ぺきではないひとりの人間の独断と偏見によって作られたものさしによって、あなたは良し悪しの判断をされていたにすぎないということです。であれば、あなたはこれからも彼らの過去のメッセージを今の自分にとって絶対的なものだと信じる必要があるのでしょうか?

 

また近親者でなくとも、大人になった今でもあなたの現実にあまり良くない影響を与えている幼少時代の人物がいるかもしれません。小学校や中学校の教師といった存在です。たとえばちょっとした子供の悪戯心でしたことを「お前は人間として失格だ」とか「この学校の恥だ」とか、心のないひと言を言われ、今でも思い出すたびに苦しい思いをしているのなら、そろそろ彼らのその評価を手放すときです。彼らも例外なく、完ぺきではないひとりの人間にすぎません。

 

相手が自分にとって絶対的な存在に思えれば思えるほど、子供はその存在の言動を良くも悪くも盲目に崇拝してしまうものです。とくに相手の職業が人間として立派だというイメージが世俗的に強い場合、彼らの発言はとにかく正しい、という勘違いが大人でもあるぐらいです。

そして実際に大人になった今、隣近所のおじさんやおばさんではなく、どうしてその人物の評価が絶対的だと思うのか、よくよく考えてみればおかしな話に思えてくるはずです。彼らのそのようなひと言によって根づいてしまった、自分=ダメな人間というアイデンティティは実は絶対的なものでもなんでもなく、あなたが作り上げてしまった幻想の物語なのです。

完ぺき主義と低い自己評価

 

今回は幼少時代に近親者から「まだまだ頑張りが足りない」というメッセージを受け取り続けた子供が、大人になって正当に評価されない状況をくり返し創造してしまうということにフォーカスします。

 

まだまだ頑張りが足りないというメッセージを受け取り続けた子供は、自分=ダメな人間、というアイデンティティを無意識に作り上げてしまいます。すると自分はダメな人間なのだから、どうせなにをやってもうまくやれない、という公式をつねに現実に投影し、そのような自分を意識的にも演じることになります。なにかに挑戦するにしても、できないと決めてかかっているほうが、できると決めてかかっているよりも、実際にうまくやれなかったときの失望を最小限に食い止めることができるからです。

 

またあるいは、彼らのようなタイプは自分の能力にしてみれば、物足りないような状況にわざと身を置くことがあります。具体的な例をあげるとすれば、英語がそこそこ話せる能力があるのにそれがまったく必要のない職場、また賃金が低い職業を選ぶということです。そこで得られるメリットというのは、その場でなら自分の価値が高く思える、優越感を得られる、ちやほやされる、つまり愛を得られるというものです。デメリットは、本来の能力を持て余していることや低賃金のために自分の価値観を感じられない、あるいは屈辱感を味わうことになります。自分はほかの人たちとは違うのだ、というプライドや優越感が実際にまわりに伝わってしまい、職場の人間関係に悪影響が出てくることもあると思います。

 

もし、上にあげたような人が英語を流暢に話せることが第一条件の職業に就けば、その環境のなかでは自分の能力がそれほど高くないことを知らしめられるリスクがついてきます。そうなったとき、やっぱり自分はダメな人間だ、という恐ろしい物語が蘇ってしまうでしょう。

 完ぺき主義と過労死の関係

 

前回までは完ぺき主義の人の特徴や幼少時代、人生の選択の仕方について解説してきました。今回は、完ぺき主義の傾向があまりにも強い人がときに自分の命を危険にさらしてしまうケースを取り上げます。

 

たとえば、会社や上司によって過労死に追いこまれるほど従順に働く人というのは、幼少時代の「まだまだ頑張りが足りない」という恐れの物語を大人になっても再現し続けている可能性があります。まだまだ頑張りが足りない、こんな自分では愛されない、だから愛されるためにはもっと頑張らなければいけない、というように、親に代わって自分を追い立てているのです。

 

また、仕事で成果を出したとしても「こんなのたいしたことない、こんなことぐらいでうぬぼれてはいけない」というように、自分自身で正当な評価をくだすことができません。かわりに、次の成果が出せなくなったらどうしよう?と恐れを募らせるばかりです。そうなると寝食も惜しんでろくに休むことなく、とにかくがむしゃらに頑張ってしまいます。それがエスカレートした場合、過労死という結果に繋がることがあります。

 

彼らは基本的に弱音を吐けない家庭環境で育っているので、仕事の悩みをだれかに打ち明けることができません。とくに幼少時代、まだまだ足りないというメッセージとともに、なにかうまくやれないことがあったときに執拗に罵倒されるような近親者に育てられている人は、だれかに仕事のことを打ち明けたとしても、結局、「つらいのはお前だけじゃない。甘えるな」などと言う人をそばに引き寄せてしまっています。そうなると、自分の内側に引きこもり、鬱になり、自殺という結果を招いてしまうこともあります。


ちなみに、生まれ育った環境だけでなく、二次的に、たとえば苛酷な受験戦争や、志望校に入学できなかったという経験が今の人生に影を投げかけている場合が多々あります。「自分は頑張りが足りなかった、だから今の自分は三流なのだ」というようにです。今回のテーマ、まだまだ自分は頑張りが足りない、だから愛されない、愛されるためにはもっともっと頑張らなければいけない、という物語(信念)が根づいていることに心当たりがある人は、このような物語が根づくきっかけになった幼少時代の出来事にたどりつく必要があります。というのも、その信念を手放さないかぎり、大人になっても自分を正当に評価しない人や状況をくり返し創造することになるからです。過労死という状況はそのひとつの可能性だということです。

 


 完ぺき主義者の行動指針

 

前回は完ぺき主義の人たちが幼少時代にどのような家庭環境で育ったのかを解説しました。今回は、そのような幼少時代をすごした子供が大人になって、どのような指針で人生を進んでいくのかを解説します。

 

近親者に自分の頑張りを正当に認められないような幼少時代を過ごした子供は大人になって、心の底から自分がそれをやりたいかどうかではなく、他者に認めてもらえるかどうか(親に認めてもらえるかどうか)、によって人生の選択をする傾向があります。根底にあるのは愛の飢えなので、外側に愛を求めてしまうのです。たとえば、世間的に立派と思われる大学、職業、会社といったようにです。また、褒めてもらえるか、ちやほやされるか、注目を浴びられるか、といったようなことをベースに物事を選択することも多々あります。

 

自分の志望している一流の大学や会社に入れればある程度の満足は得られるとは思いますが、彼らが100パーセント満足することはないでしょう。本人が心の底から望んだものではないからです。「まだまだ頑張りが足りない」というメッセージを受け取り続けながら幼少時代を過ごしているので、他者から見れば申し分ない経歴なのに、「自分なんてたいしたことない」と自己卑下的な言動をすることもあります。正当な評価、褒めるといったことで自分を高めるのではなく、親から教わったように、足りない部分を戒めるようなやり方で自分のモチベーションを高めようとするからです。

 

自分が設定した高すぎるハードルをうまく越えながら生きていけるのであれば、それほど問題はないかもしれません。人間であればだれでも一流というものに憧れることはあると思いますが、彼らの場合は一流の会社に入りたいという願望ではなく、入らなければいけないという執着になることが多く、志望大学に落ちる、希望している会社に内定できないといったことが起きた場合、ひどい失望感や劣等感や自己嫌悪に陥ってしまいます。「自分の人生は終わった」と早くも結論づけ、実際に自殺に走ってしまう人さえいます。うまくいかないのは自分の頑張りが足りないから、こんな自分は愛される価値がない、生きる価値などないという幼少時代の絶望感に潰されてしまうのです。

  


完ぺき主義者の幼少時代

 

前回までは完ぺき主義の人の代表的な特徴をいくつかあげました。今回は彼らの幼少時代にフォーカスし、どうして彼らが完ぺき主義の傾向を持つようになったのかを解説します。

 

まず彼らは弱音を吐けない環境で育っています。たとえば、テストで98点を取ったとしても、「あと2点で100点だった」と言われる、マラソン大会で10位以内に入ったとしても「もっと上位に入れたはずだ」と返すようなタイプの親に育てられています。つまり、彼らの親自体が完ぺき主義なのです。彼らは子供の潜在意識に「まだまだ頑張りが足りない」というメッセージを叩きこみます。

 

ことあるごとに、まだまだ頑張りが足りないというメッセージを受け取り続けた子供は、頑張らないお前は愛される価値がない、欠点がある=自分は愛されない、だから愛されるためには完璧でなければいけないという恐れの物語(信念)を自分のなかに根づかせるようになります。人間にとって愛されないということはとてつもなく恐ろしいことであり、近親者にたいして無条件の愛を持って生まれてきた子供が彼らからの愛情を否定されることは、絶望的なほどに恐ろしい状況です。

 

そのような子供はたとえば、親や他者に褒めてもらおうと躍起になる、自慢話をすることでちやほやされたがる、あるいは作り話をする、嘘をついてでも注目を浴びたがる、といったような言動をくり返すようになります。その根底にあるのは、愛の飢えです。今あげたような行動によって、必死に愛を得ようとしているのです。(もちろん、完ぺき主義の人以外でも愛を得るためにこのような言動はしますが、今回はあくまで例としてあげています。) このようなプロセスに自覚がないまま大人になると、会社といったような場所で同じような言動をくり返すようになり、場合によっては他者を巻き込んで大きな事態を引き起こすこともあります。

 完ぺき主義の人の特徴2

 

前回は完ぺき主義の人の特徴をいくつかあげましたが、今回は残りの特徴をあげます。

 

完ぺき主義の人は自分の決めた順番や形に執着しすぎて物事がなかなか進まない、スタート地点自体にたどり着かないということがあります。たとえばある国家資格に合格しなければひとり暮らしを始めない、現在の交際相手と籍を入れない、という形や順番に執着しすぎると、いつまでも自活できない、交際相手が離れていってしまうというようにどれもスタート地点にたどり着くことができません。

 

 これは逆に、実家を出ない、交際相手と籍を入れない=国家試験に合格しない、という現実を創造してしまうことになります。なので、もし形や順番にたいする執着を手放し、とりあえず実家から出るとか交際相手と籍を入れるということをしてみたとき、公式が崩壊するので現実にも変化が起こります。実家を出る、交際相手と籍を入れる=国家試験に合格するという公式に変化するからです。つまり、順番や形が夢の実現に影響をあたえるかあたえないかを決めるのは本人次第ということです。なにを信じるかで、現実は変わります。

 

完ぺき主義の人はその傾向をうまく活かせれば、その分野の頂点に立って高い評価を得る、ということに繋がります。しかし行き過ぎると、自分の情熱だけでひとりよがりになる、協力者の理解を得られずに孤立する、といったことがあります。完ぺき主義のメリットをどれだけ活かし、デメリットをどれだけ最小限にするか、バランスが必要です。一番良くないのは、完ぺき主義の自分を否定し、完ぺきに完ぺき主義でなくなろうとすることです。完ぺき主義はある意味持って生まれた性質なので、完ぺき主義でなくなろうとするのは、あなたではないほかの誰かになろうするようなものです。そうなると、条件つきの愛になってしまいます。完ぺき主義の自分はダメだ、愛される価値がない、というようにです。


完ぺき主義であろうとなかろうと、とにかくあなたは愛される存在である、というのが無条件の愛です。

 完ぺき主義の人の特徴1

 今回は完ぺき主義の人にフォーカスし、このブログならではの角度で解説していきます。人間であればそのような性質はだれにでもある程度あるとは思います。ただ、彼らの場合はときに体調を崩したり、強迫神経的になったり、最悪の場合、自殺に繋がることもあります。心当たりのある人にとって、今回のテーマがこれから生きていくうえですこしでも役に立てばいいと思います。

完ぺき主義の人の代表的な特徴をいくつかあげます。まず、彼らはただの趣味でも完璧にやろうとします。気楽に楽しむということができません。すてきな絵を描けるようになればいいな、ではなく、うまくならなければならない、という強い義務感を自分に強いてしまいます。なので彼らの口癖には「~するべき、~しなければいけない」が多いのが特徴です。こうなると結婚観などで言えば、結婚したいではなく、しなければいけないとなってしまいます。

 

また、なにか目標を掲げるにしても、結果を急ぎすぎてしまう傾向にあります。過程に集中するのではなく、急いでやってしまおうとします。わかりやすく言えば、近隣のちいさな山ではなく、いきなりエベレストを目指すのです。最初からあまりにも高い目標設定をしてしまうので、挫折しがちで、結果的にうつ状態や自己嫌悪、自信喪失に陥ってしまいます。(この場合は、最終的なゴールのようすをありありとイメージしておくのも大事ですが、目標をこまかく設定していくようにすると、達成感をひんぱんに感じることができ、自信だけでなく実力も確実についてきます。)

 

そして、なにか目標を掲げても自分の思ったように完ぺきに進まないと「道を間違った」などと早合点し、ほかのことに気移りしがちで、器用貧乏に終わってしまうこともあると思います。また、完ぺき主義の人はつねになにかしていないと落ち着かないところがあります。それはなにもしていないと怠けているようで罪悪感を覚えるからです。

 大転機の予兆の数字

 前回は恋愛関係におけるソウルメイトに出会う予兆の数字の話をしましたが、今回は大転機の予兆についての数字の話をします。

 たとえば最近このような数字を目にすることが多いという人がいるかもしれません。0:00、12:00、18:00、というようにジャストな数字です。そしてエンジェルナンバーなどでヒントを得ようとしても納得いかないメッセージしか得られないという場合、これらの数字にたいする自分の直感的なイメージを浮かべてみてほしいと思います。

 上にあげたような数字を見てたとえば、新しい人生が始まる、生まれ変わるというような直感的なイメージを抱いた人はその自分独自のイメージを大事にしてください。ひとりひとり感じることや考えることは違うように、数字にたいする個人のイメージも違ってくるからです。

 ちなみに今回あげたような数字を最近よく目にする、新しい人生が始まる、生まれ変わるというようなイメージを直感的に抱いた人は実際、すでにその予兆のようなものを感じていると思います。運命を感じる異性と出会っているとか、人生を変えるような仕事の転機を迎えているといったことです。つまり、あなたの直感は正しいということです。




 ソウルメイトに出会う予兆の数字

 最近なぜか同じ数字をよく目にするということがあるかもしれません。しかし、エンジェルナンバーといったものからヒントを得ようとしても、なんとなく違和感を覚える、ほかの意味があるような気がするという場合、自分のその直感を大事にしたほうがいいと思います。ひとりひとり、ある特定の数字にたいするイメージは違うからです。

 たとえば、18:18、02:02、15:15、11:11といった数字です。あなたはこの数字にどんなイメージを思い浮かべますか?

 もし、ペアだ!と思うのなら、自分のその直感的なイメージを大事にしてください。ペアだと思った人はこれからもっとそのような数字を目にするようになると思います。親子や同性の親友といった存在もソウルメイトと呼ばれますが、とくに今現在、心惹かれている異性がいる場合、その人は恋愛関係におけるソウルメイトの可能性があります。また、現世を最後の転生としている場合は、ツインフレームの可能性もあると思います。

 その人とメールやLINEや電話などでやり取りをしているときに、着信や受信の時間にそのようなペアの数字が現れるときは、ふたりの関係がソウルメイトやツインフレームであるということを裏づけている可能性があります。ちなみにソウルメイトかツインフレームの違いは、本人と出会ったときにあきらかにわかります。お互いを惹きつける磁力が桁違いです。
 夢のなか、電話で話す

 夢のなかで、だれかから電話がかかってきて話している夢をみることがあるかもしれません。それは文字通り、あなたになにかを伝えたい人がいるということです。とくにその夢が現実のようにありありとしているなら、なおさらです。

 わたし達は夢を見ているあいだ、肉体を離れてエネルギーだけの存在になっているので、夢のなかでは姿が見えなくても、相手がだれかわかります。ひとりひとりの異なるエネルギーを読み取ることができるのです。そして、言葉を発しなくても思っていることは伝わります。テレパシーと呼ばれるものです。

 生きている人同士が夢と呼ばれている次元で会うには、どちらも同じ時間帯に眠っていることが第一の条件になります。しかし自分が眠っていて、相手が起きている場合でも相手の感情を受けとることがあります。この場合は、相手の感情エネルギーが強くないと伝わってこないし、受けとる側もそれなりの感度が強くないとうまくいきません。