エースをねらえ!『紅の男爵』編 | S A L O N

『跳ね馬』をイタリア語訳すると、“カヴァッリーノ・ランパンテ(Cavallino Rampante)”となり…この“カヴァッリーノ・ランパンテ”のデザインを冠したエンブレムと言われて先ず思い付くのは…おそらく多くの方々も、言わずと知れたイタリアの超高級スポーツカー・メーカーのフェラーリ(Ferrari)ではないだろうか。

今回は先ず、フェラーリが、このカヴァッリーノ・ランパンテをエンブレムとするに至るエピソードを…

 


話は、レーシングカーやスポーツカーのドライバーなど、車に纏わる逸話からではなく、飛行機…それも複葉機型の戦闘機が主流だった時代…第一次世界大戦中のパイロットにまで遡る。

そのなかでもエース・パイロットともなると、その愛機にエンブレム(部隊マークやパーソナル・マークなど)が誇らしげに描き込まれてあったりするのだが…

34機撃墜という…イタリア王立陸軍航空部隊におけるトップ・スコアを残したエース・パイロット…第91戦闘航空隊(91ª Squadriglia)のフランチェスコ・バラッカ少佐の愛機に描かれていたのが、この“カヴァッリーノ・ランパンテ”であった。





 

この『跳ね馬』のデザインは、ドイツ南西部に位置するバーデン=ヴュルテンベルク州の工業都市であるシュトゥットガルトの市の紋章でもあり、バラッカがこのエンブレムをつけたドイツ軍機を撃墜したのを機に、これを自身のエンブレムとして採用したとの逸話もあったが…
1916年4月7日、バラッカは空戦における最初の勝利を挙げ(これはイタリア軍“初”の空戦勝利でもあった)、乗機をニューポール(Nieuport)11から、より強力なエンジンと大きな翼を持ち、洗練された構造に進化したニューポール17に乗り換えた頃から、彼が騎兵科将校時代に所属していた第2騎兵連隊“ピエモンテ・カヴァレリア”の部隊エンブレムのなかにあった“跳ね馬”を、敬意を表してパーソナル・エンブレムとして機体に描くようになったというのが真相のようである。


第91戦闘航空隊は、バラッカの他にも25機撃墜のピエル・ルッゲロ・ピッチオ大佐、20機撃墜のフルコ・ルッフォ・ディ・カラブリア大尉らエース級を擁し“エース戦隊”として名を馳せていた。

 

第91戦闘航空隊のメンバー(左から):マリオ・ドゥルソ軍曹、ガエターノ・アリペルタ軍曹ガストン・ノヴェッリ中尉チェーザレ・マギストリー二中尉バルトロメオ・コスタンチーニ大尉、フルコ・ルッフォ・ディ・カラブリア大尉、ピエル・ルッゲロ・ピッチオ大佐、グイド・ケラー中尉、フランチェスコ・バラッカ少佐、フェルッチオ・ランツァ中尉マリオ・デ・ベルナルディ中尉アドリアーノ・バキュラ中尉グイド・ナルディーニ軍曹エドゥアルド・アルフレード・オリヴェロ少尉

1918年6月19日、バラッカのスパッドS.XIII は、オーストリア゠ハンガリー帝国陸軍による対空重機関銃掃射により撃墜されたものと思われる。
墜落場所のモンテッロ(丘)付近が、その時点では敵支配地域であったため、敵軍の撤退した24日になって、ようやく焼け焦げた乗機の残骸から4m程離れた所に横たわるバラッカの遺体が発見され、公式にその戦死が発表された。
その額には拳銃による弾痕が残っていたとのことである。
法医学的検死が実施されなかったため、それが敵兵から受けたものなのか、コックピット内に回ってきた烈火からの苦しみを避けるための手早い死を選択した挙句のものなのか…はたまた“生きて虜囚の辱を受けず”の精神により自らの発砲による自決だったのかも分からない。(享年30歳)

6月30日に行われたバラッカの葬儀


 

バラッカの死から5年後の1923年6月17日、ラヴェンナ近郊で開催された第1回チルクイト・デル・ムジェッロ(Circuito del Mugello=ムジェロ・サーキット)のレースにおいて、アルファ・ロメオのドライバーとして初優勝した若き日のエンツォ・フェラーリに感銘を受けた彼の両親…エンリコ・バラッカ伯爵とパオリーナ伯爵夫人にエンツォが拝謁した際、伯爵夫人はこう語ったという…
「息子の“カヴァッリーノ・ランパンテ”をあなたの車に描いたらいかが?きっと幸運をもたらしてくれるでしょう。」
さらに、撃墜された息子の愛機から切り取れれたという“カヴァッリーノ・ランパンテ”も贈られたという。
後年、エンツォ自身がその時の模様とエンブレムに関して以下のように語っている。
「私は今、一枚のバラッカの写真を持っている。 それはエンブレムを委ねられた時に彼の両親から贈られたものだ。 馬は黒で描かれ、これはそのまま使用した。 そして私はキャナリーイエローの背景を付け加えた。 それは故郷モデナの色だ。」
こうして“カヴァッリーノ・ランパンテ”は、大空から…大地を疾走するフェラーリのシンボルとして生れ変わったのである。



バラッカの愛機(SPAD S.XIII)に冠された『跳ね馬』は、所属部隊であったピエモンテ・カヴァレリア連隊の紋章にもある“垂れ尾”タイプの跳ね馬であるが、フェラーリのそれは、上昇志向の強いエンツォ故のことかまではわからないが、「そのまま」の使用ではなく、『尾』に関しては、上に“跳ね”上がった…シュトゥットガルトの市の紋章に見られるような“跳ね尾”タイプに…申し訳程度?に“垂れ尾”を組み合わせたフェラーリ独自のデザインとなっている。

 

 

撃墜スコアの目覚ましい者を、英語圏では“Ace”、仏語なら“As”、伊語ならば“Asso”…日本語であれば“撃墜王”などと称するが…
独語であれば“Ass”…“Fliegerass”となるが、「エキスパート・専門家 ・達人・妙手」などを意味する“エクスペルテン(Experten)”とも称される。

今回は、その“エクスペルテン”たちを描いた三作品を二編に分けて紹介させて頂く。

 

レッド・バロン(原題:Von Richthofen and Brown)』(1971年)



第一次世界大戦中、鮮紅色に彩色された愛機を駆って80機という、当時としては驚異的な撃墜スコアを記録し…レッド・バロン(赤い男爵)の異名を誇ったジョン・フィリップ・ロー演じる、若き男爵マンフレート・フォン・リヒトホーフェン大尉の短い生涯を…その彼を撃墜することになる(※後述)、ドン・ストラウド演じる英国空軍所属のカナダ人パイロットのアーサー・ロイ・ブラウン大尉の二人を中心に描いた1971年製作のロジャー・コーマン監督作品。

 

 

既に、かつてのように名誉を重んじ騎士道精神を持って悠長に戦っていられる時代ではなくなってきていた。
非なるようで、勝つことに拘る主人公のリヒトホーフェン、ブラウン、そしてもう一人…バリー・プリマス演じる、若き日のヘルマン・ゲーリングなど…それら登場人物たちの人間模様も見所となる。

リヒトホーフェンの死後、その彼に代わって指揮官に任官したゲーリングに祝杯を上げるエンディングのシーンは、その後の暗雲の時代の幕開けを象徴的に予見させる。
 

 

因みに、この映画の“目玉”ともなる、敵味方乱れ飛ぶ空中戦…

俳優たちを実際に複葉機に乗せて撮影するなど、模型でも…CG(勿論、そんな技術の無い時代だが)でも味わえない、今となっては逆に貴重で、贅沢な、実機(複製機)による空中戦のシーンは迫力があり、なかなかに見応えがある。

 

 

そうした迫真の空中戦の撮影には、それらを操縦するスタント・パイロットたちの曲技飛行の妙技を欠かすことはできない。

 


 

それは正に命がけであり…1970年9月15日、ベテランのスタント・パイロットであったチャールズ・ボディントンの操縦する英軍機“S.E.5”(複製機)は、低空飛行の撮影中に、このショットの5秒後に突然スピンして墜落…帰らぬ人となってしまった。

 

 

 

レッド・バロン(The Red Baron/原題:Der Rote Baron)』(2008年) 

 

シュトゥットガルト出身のニコライ・ミュラーシェーン監督・脚本による2008年製作の『レッド・バロン』。
ドイツで製作され、原題も元々は独語表記の『Der rote Baron』であったようだが、興行的な理由から、タイトルも台詞も全編、英語となっている。

 

 

2008年版の空中戦は、CGやVFXなどといった技法が駆使され、スタントの曲技飛行によるアナログ的なリアルとは別の意味でのデジタル的なリアル風な映像での空中戦という点も含め、1971年版と見比べてみるのも面白いのではないだろうか。

 

 

1971年版が、どちらかというとお堅い描き方となっているのに対し、2008年版は…時代の流れというのもあるのだろうが…

マティアス・シュヴァイクへ―ファー演じるマンフレート・フォン・リヒトホーフェンと、その彼を愛するレナ・ヘディ(リーナ・ヒーディ)演じる看護師のケイト・オテルスドルフとのラブロマンスに加え、フォルカー・ブルッフ演じる弟のロタール・フォン・リヒトホーフェンや、ティル・シュヴァイガー演じるヴェルナー・フォス、マキシム・メメット演じるシュテ二、ハンノ・コフラー演じるレーマン、そしてティーノ・ミューズ演じるクルト・ヴォルフなどの戦友たち…

そして、敵ではあるがお互いにエンパシーを感じ合うジョセフ・ファインズ演じるロイ・ブラウンなどとの青春戦争ドラマ的な色合いの濃い作品となっているように思える。

 

マンフレートの親友の…ハーモニカを手放せない、ユダヤ人パイロットの"シュテニ"ことフリードリヒ・シュテルンベルク少尉と、ヘビースモーカーのレーマン少尉。

ともにイートン・カレッジ出身(イイとこ出のお坊ちゃんとするためかと…)で…そして、ともに最後は撃墜され戦死するという設定になっているが、この両人は架空の登場人物である。

因みに、二人のこの画像は、レーマンとシュテニの同窓でもある英国軍パイロットのウォーカー大尉の葬儀に、マンフレート、フォス、レーマン、シュテニの4機が花輪を手向けるために敵地にある教会まで遠征…

その花輪を空中投下し、追いかけてきた敵と交戦した後に、何とか無事に帰投するも、その無茶な行動に激怒した上官から大目玉を食らうという冒頭のシーンであるが…

 

これは、劇中でマンフレートが“真の撃墜王”として尊敬するベルケの…実際の葬儀(※1916年10月31日にカンブレー大聖堂(仏)で行われた)の際に…「我々の勇敢で騎士的な敵、ベルケ大尉を偲んで (To the memory of Captain Boelcke, our brave and chivalrous opponent)」と書かれた花輪が…こちらはイギリス王立陸軍航空隊(RFC)の許可を得たうえで、有志により空中投下されたというエピソードがあるようなのだが…その逆バージョンとして拝借したのではないかと思われる。

 

 

オスヴァルト・ベルケ大尉
創成期のドイツ陸軍航空隊をトップエースとして牽引し、初代飛行隊長として第2飛行中隊(Jagdstaffel 2=Jasta2)を率いていたオスヴァルト・ベルケ

戦闘機パイロットとして初のプール・ル・メリット勲章(Pour le Mérite)は、1916年1月12日付でベルケとライバルのマックス・インメルマン少尉(のち中尉)の両雄に授与されている。

 

両雄がプール・ル・メリット勲章を受章した一週間後の1916年1月20日に撮影された第62飛行隊のメンバーたち。

前列左から:グスタフ・ザルフナー少尉、メディング、アルベルト・エスターライヒャー少尉、オスヴァルト・ベルケ少尉、指揮官ヘルマン・ケストナー大尉、マックス・インメルマン少尉、フォン・クラウゼ、エルンスト・ヘス少尉

後列左から:マックス・フォン・ムルツァー少尉、フォン・シリング、マクスィミリアン・フォン・コッセル少尉、フォン・グスナール中尉

 

1916年10月28日のRFC第24飛行隊のエアコー DH.2との空戦において、ベルケ機とエルヴィン・ベーメ中尉機はアーサー・ジェラルド・ナイト大尉機を追撃し、マンフレート機はアルフレッド・エドウィン・マッケイ大尉機を追撃していた。
マッケイ機はナイト機の後方を横切り、ベルケ機とベーメ機を分断することで何とかマンフレート機の追撃をかわしたが、この突然の動きに、ベルケ機とベーメ機は、マッケイ機との衝突を避けるために機首を上げ回避するも…この時、互いに翼が死角となり、一瞬、相手の動きが確認できなくなった。

次の瞬間、ベルケ機の左翼にベーメ機の車輪がわずかに接触。
軽微な接触ではあったが、ベルケ機の翼の布地が裂け…これにより翼は揚力を失い、バポーム(仏)の自軍砲台近くに墜落した。
墜落の際の衝撃で、ベルケは頭部を強打したことにより亡くなっている。(享年25歳)

 

ベルケは、40機撃墜という輝かしいスコアを誇るエクスペルテンであったのは勿論であるが、それ以上に、その航空戦闘戦術理論はマンフレートをはじめとする後進たちに受け継がれ、彼の影響力は死して尚、途絶えることがなかった。

同僚や部下たちのみならず、国民的、国際的な英雄となっていたベルケの死は、国民、全兵士の士気にも係わる大問題であり、そのベルケに替わる英雄が求められた。

 

エルヴィン・ベーメ中尉

ベルケの死に関しては致し方の無い不慮の事故であり、ベーメを非難する者は誰一人おらず、それどころか取り乱したベーメの自殺を思いとどまらせねばならなかった。
だが、ベーメ自身はその後も深く悩み、自責の念に苛まれ続けた。

 

1917年11月29日、英軍機(ソッピース キャメル)を撃墜(午後0時55分)し、撃墜スコアを24機に伸ばしたベーメは、午後に再び、イープル敵部隊の偵察任務に出撃し、ジョン・アーサー・パッテンの操縦する英軍の複座偵察機アームストロング・ホイットワースF.K.8を発見し、空戦となった。
急降下してくるベーメ機を確認したパッテンは、縦方向にUターン(スプリットS)をして、同時に観測手のフィリップ・レイ・レイスターが機関銃掃射で応戦…燃料タンクに着弾し、 ベーメ機は炎上、英軍側陣地に墜落した。
英軍により、墜落したアルバトロス D.Vaの機体からベーメの焼死体が運び出され、軍葬の礼により手厚く葬られた。(享年38歳)

亡くなる5日前の1917年11月24日付でプール・ル・メリット勲章を受章したベーメであったが、生前中には手元に届かず、ついに佩用する機会は訪れなかった。

 

 

劇中では、先の冒頭のシーンのすぐ後で、ルカシュ・プジカスキー演じるキルマイヤーが登場し、その後、撃墜されたとの報を受け、その葬儀のシーンとなる。

そのキルマイヤーを撃墜した相手は、おそらくは…リヒャルド・クライチョ演じる…英軍のエースであり、その乗機に“死神”のパーソナルマークを冠した、髭面のラノー・ホーカー 少佐機。

 

マンフレートは、キルマイヤーの仇と、“真のエース”の座と、“名誉勲章(プール・ル・メリット勲章)”を懸け、ホーカーの撃墜を誓い、有言実行してみせる。

 

因みに、ホーカー機に搭載されていたルイス軽機関銃を持ち帰るというシーンがあるが、実際に、勝利の証の“戦利品”として、宿舎のドアの上に吊るしていたとのことである。

ただホーカー乗機のエアコー DH.2は、その機体の構造をご覧頂ければお分かりのように、胴体後部は鉄骨剥き出しの骨組みのみの構造であり、胴体部は勿論、前部にも“死神”のパーソナルマークなど描かれてはいなかった。

 

ステファン・キルマイヤー中尉

ベルケの死後、第2飛行中隊の指揮は、同年10月30日付でステファン・キルマイヤー中尉に任されたが、3週間後の11月22日…英軍の第24飛行隊所属ジョン・オリバー・アンドリュース大尉(※12機撃墜のエース)機とケルビン・クロフォード少尉機のエアコー DH.2との空戦において、頭部に被弾し戦死している。(享年27歳)

同日(22日)付で、ホーエンツォレルン家勲章が死後授与されているが、11機撃墜のエクスペルテンではあったが、残念ながらプール・ル・メリット勲章には届かなかった。

 

キルマイヤーを死に追いやった両機の所属したRFC第24飛行隊の指揮官こそが、マンフレートも“英国のベルケ”と高く評したラノー・ジョージ・ホーカー少佐であった。

撃墜スコアは7機と、“10機以上撃墜”とした英仏軍のエースの資格には該当しなかったが、その指揮能力などが評価され、英連邦における最高かつ最も権威ある勲章とされるヴィクトリアクロスを授与された3番目のパイロットでもある。

マンフレートは翌23日、アルベール=バポームの上空でホーカー乗機のエアコー DH.2と交戦し、ついに撃墜した。

この日も随行したアンドリュース機は、空戦中にエンジンに被弾し、ホーカー機の援護に向かうことが出来なかった。

マンフレートは英軍のエース撃墜という戦功と、計16機+未公認1機(1917年1月時点)の撃墜スコアなどにより、1917年1月12日付でプール・ル・メリット勲章を受章。

 


ホーカーの遺体は、ドイツ軍側の報告によれば、ルイゼンホフ農場(オークール・シュル・アベイ~リニー=ティヨワの間)の東の200m程行った道路脇に埋葬されたとのことであるが、戦時中故に確かなことは分かっておらず、現在はアラスの戦没者墓地(Arras Flying Services Memorial)に墓標のみがある。 (享年26歳)

 

 

マンフレート・フォン・リヒトホーフェン大尉

 

マンフレート・アルブレヒト・フォン・リヒトホーフェンは、1892年5月2日に男爵(Baron)の爵位を持つ家系の父アルブレヒト・フィリップ・カール・ジュリアス・フライヘル・フォン・リヒトホーフェン少佐と母クニグンデ・フォン・シックファス・ノイドルフの長男としてヴロツワフ(波蘭読み、独語読みではブレスラウ)近郊のクラインブルクに生まれている。

乗機を鮮紅色に塗装していたことから、英軍からは“赤い男爵(The Red Baron)”“赤い騎士(The Red Knight)”、仏軍からは“赤い悪魔(le Diable Rouge)”“小さな赤(le Petit Rouge)”などの異名を馳せた…“バロン(Baron(英)、Freiherr(独):男爵)”ことマンフレート・フォン・リヒトホーフェン大尉。

騎士道精神に則った闘いのなかで、一次戦において80機(未公認2機)という最高にして驚異的な撃墜スコアをあげ、敵軍からは恐れ、またそれ以上に尊敬もされた…“真の撃墜王”といっても過言ではない。

 

1917年7月6日、ベルギーのウェルヴィク近郊でRFC第20飛行隊のF.E.2d複座戦闘機の編隊との空戦中において機銃掃射を受け、頭部に重傷を負い、意識が薄れ、一時的に視力を失いそうになるなか、何とか機を立て直し、友好国側領土内の野原に強制着陸させた。

この外傷により、受傷部から骨片を除去するための複数回の手術を受け、19日間の入院を余儀なくされた。

同年7月25日に医師からの忠告を無視して原隊に復帰したものの、その後もしばしば飛行後の吐き気や頭痛のみならず情緒不安定に悩まされ続けることとなる。

 

コルトレイク(ベルギー)の聖ニコラス病院での入院療養中に撮られた看護婦のケーテ・オテルスドルフ(※オルテルスドルフとも)とのツーショット。

 

マンフレートの財布の中にチャーミングな女性の写真が入っていた旨の資料もあるが、その女性がケートの写真だったのかはわからない。

もし戦争によって引き裂かれることがなかったら、二人は結ばれていたのであろうか?

マンフレートが手にしているのは“リヒトホーフェン”航空団杖(Geschwaderstock)。

 

1918年4月21日朝、マンフレートは第11飛行中隊、第5飛行中隊の15~20機編隊とともにカピー(仏ソンム県)の飛行場を飛び立った。
ソンム川周辺上空を飛行中、RAF(英王立空軍)第209飛行隊所属の11機のソッピース・キャメルと遭遇し空中戦となる。
まだパイロットに成り立てだったウィルフリッド・メイ中尉は、元学友でもあった飛行中隊指揮官のロイ・ブラウン大尉から、空中戦の間は戦闘に参加せず、上空から戦況を見守っているようにとの指示を受けていた。
マンフレートの従弟であったヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン少尉(後の空軍元帥)もまた、マンフレートから同様の指示を受け哨戒飛行中であった。
メイは、同様の行動をとるヴォルフラムを発見し、攻撃を仕掛けた。
マンフレートは戦闘開始から直接攻撃には参加せず、全体の戦況を見守るべく旋回援護に着くなかで、ヴォルフラムの窮地に気付き、低空を飛ぶメイ機を追って攻撃に入った。
ブラウンもまた、メイの窮地に気付き、援護するべくマンフレート機の後方に急降下し、機関銃を掃射し、なんとかマンフレートをメイの後方から迂回させた。
ブラウン機はその後、機首を上げ上昇旋回している間にマンフレート機とメイ機を一瞬見失った。

 


この後のマンフレートの行動は今日も論争中ではあるが、おそらくブラウン機からの攻撃を回避した後も、メイ機を低空(120m程)で追尾したものと思われる。
そのため、地上からの機関銃掃射による機体右下方側面から肺と心臓を貫通する致命傷を負い、11時45分(ドイツ時間)頃、ヴォー=シュル=ソンム北側の飼料用ビート(蕪)畑に不時着。
因みに、ジグザグ飛行でマンフレートの追尾を必死にかわし続けいたメイは、赤い機体が畑に着陸するのを確認したが…当時、メイもブラウンすらも、そのドイツ人パイロットの正体を知らなかったということである。
後に、それが“レッド・バロン”であると知らされたメイは、「もし、その時パイロットの正体を知っていたら、おそらく恐怖で死んでいただろう」と語っている。
オーストラリア軍兵士達が駆けつけた時点で既に死亡が確認されたが、胸からはその時点でも流血がみられたとのことである。

その後、遺体は15㎞程離れたプランヴィル飛行場に運ばれ、検案などが行われた。(享年25歳)

 

長らく、マンフレート機はブラウン機により撃墜されたとされ、1971年版でもブラウン機との空中戦の末に最期を迎えるという従来の展開としているが、近年の検証では、地上部隊の重機関銃掃射によりマンフレート機は撃墜されたとする結果を踏まえ、2008年版ではこの両機の空戦は、二人の再会のための切っ掛けとして描かれ、その最期に関してはあえて描かれていない。

但し、実際のマンフレートとブラウンが、どのようなカタチにせよ対面したというようなことはない。


検案で確認されたマンフレートの銃創の状況から、現在では、ソンム川の北岸(アミアンの北東約26 km)のモルランクールに展開していたオーストラリア帝国陸軍第4師団/第4機関銃大隊/第24機関銃中隊のセドリック・ポプキン軍曹によるヴィッカース重機関銃から発射された7.7mm(=0.303インチ)弾が致命的な傷を負わせたものと考えられている。

マンフレート乗機のフォッカー Dr.I(425/17)は、不時着時点では翼、降着装置などが小破している程度の損傷であったが、“記念品漁り”の末に、そのほとんどの部品が持ち去られ、このような見るも無残な姿と化した。

 

 

ロタール・フォン・リヒトホーフェン中尉

 

マンフレートの実弟であるロタール・フォン・リヒトホーフェン中尉は、少々気性が激しく、ドッグファイトを好んだため、怪我で前線を離れる事が多かった。
そのため、撃墜数自体は思った程は伸びなかったが、飛行時間と撃墜数から計算すれば最も効率的にスコアを稼ぎ、40機という堂々たる撃墜スコアを誇るエクスペルテンであり、1917年5月14日付でプール・ル・メリット勲章を受章している。

マンフレートが80勝を上げるのに1年半かかったのに対し、ロタールは僅か3ヶ月で40機中33機の撃墜スコアを記録していることから、もし怪我がなければ、兄マンフレート以上の撃墜スコアを上げたのではないかといわれているが、2008年版のなかでのキーワード的な「臆病と賢さは紙一重」の如く…このままのロタールで戦闘に臨んでいたならば、遅かれ早かれ死に至っていたことであろう。

劇中後半、ロタール自身が従弟のヴォルフラムにこの台詞を語りかけるのであるが、これはロタールが闘いのなかで学び、成長してきたことを端的に表現しており、実際もそうした経験のなかから得たもののお陰で、辛くも大戦(WWI)を生き抜けたものと思う。

戦後は民間機のパイロットなどをしていたが、運命とは皮肉なもので、1922年7月4日、ハンブルクからベルリンへ飛行中に乗機がエンジン・トラブルを起こし亡くなっている。(享年27歳)

 

 

ヴェルナー・フォス少尉

 

ヴェルナー・フォス少尉は、1917年4月8日付でプール・ル・メリット勲章を受章した、48機の撃墜スコアを誇るエクスペルテンであり、またマンフレートの親友であり良きライバルでもあった。

 

1917年9月23日、その日は日曜日ということもあり、ヴェルナーの兄弟たち…マックス(16歳の軍曹:写真左)とオットー(19歳の陸軍少尉:写真右)の訪問を受け、兄弟三人で昼食をとっている。

この写真は、その際に撮られたもので、これがヴェルナーの生前最後の写真となってしまった。
普段、身なりのきちんとしているヴェルナーが、その日は縞模様のグレーのズボンに薄汚れたグレーのセーター姿という、何ともすり切れた印象を弟たちは受けたという。
午前に続き、この日2度目の午後の第10戦闘中隊(Jagdstaffel 10=Jasta 10)の偵察飛行には、エルンスト・ヴァイガント中尉、エーリヒ・レーヴェンハルト少尉(※1918年5月31日付でプール・ル・メリット勲章を受章。)、グスタフ・ベレン少尉、フリードリヒ・ルーデンベルク少尉、アロイス・ヘルドマン少尉、マックス・クーン中尉らと共に出撃。
午後6時30分頃、プールカペッレ(ベルギー/西フランダース)上空でRFC第56飛行隊(ジェームズ・マッカデン少佐、ジェフリー・ボウマン大尉、リチャード・メイベリー大尉、キース・マスプラット大尉、レジナルド・ホイッジ中尉、アーサー・リース=デイヴィッズ中尉)、第60飛行隊(ハロルド・ハマースレイ中尉、ロバート・チドロー=ロバーツ中尉、ヴェルショイル・クローニン中尉)所属のS.E.5aと交戦。
ヴェルナーは2機を撃墜し、47機目と48機目となる撃墜記録を更新している。
因みに、最後の48機目の撃墜となったのは、第60飛行隊所属のハロルド・ハマースレイの機で、負傷はしたものの生命に別状はなかった。
戦闘は10分程続き、ついにリース=デイヴィッズ機からの弾丸によりヴェルナーは致命傷を負い、乗機は墜落、戦死した。(享年20歳)


その英雄の死に対し、自らも57機という撃墜スコアをあげた英国戦闘機隊におけるトップ・エースのマッカデンは、「 彼の飛行技術は素晴らしく、彼の勇気は素晴らしかった。 私がこれまで空中戦を交える特権を得たなかで最も勇敢なドイツの飛行士であると確信する。」と述べている。
そのマッカデンもまた、その約10ヵ月後の1918年7月9日、機体の不調による不慮の事故で亡くなっている。(享年23歳)

 

 

クルト・ヴォルフ中尉

 

クルト・ヴォルフ中尉は、1917年5月4日付でプール・ル・メリット勲章を受章した、33機の撃墜スコアを誇るエクスペルテンである。

 

1917年9月15日、その日は少々曇り空だったようだが、ヴォルフはカール・フォン・シェーネベック少尉のアルバトロスD.V.のみを同行させ、偵察飛行も兼ねた新しいフォッカーF.I(※フォッカーDr.I(V4)のプロトタイプ)の飛行テストを行った。
因みに、編隊による飛行よりも少数機による飛行は発見される可能性も低く、こうした飛行は珍しいことではなかったようだが、運悪く、午後5時30分頃、ウェルヴィク(ベルギー/西フランダース)の北でRFC第10飛行隊所属の3機のソッピース・キャメルと遭遇し、空中戦となり、撃墜された。(享年22歳)

 

ヴォルフ機を撃墜したノーマン・マグレガー少尉によれば、ヴォルフのフォッカーF.Iが突然“制御不能”な状態に陥ったこともあり撃墜できたのだと語っている。

 

その日は、験担ぎであったボンネット(ニット帽)を被って行かなかったとのことである。
ヴォルフは病弱であったようで、また普段…そして空中戦時においても、彼の友好的で物静かで謙虚な性格から、“zarte Blümelein(か弱き花)”の愛称で親しまれていたようである。
またマンフレートはヴォルフを「der liebsten und besten Kameraden(最愛にして最高の(戦)友)」と評している。

 

 

ヘルマン・ゲーリング中尉

 

ナチス政権下において、総統ヒトラーに次ぐ“THEナンバー2”として君臨した悪名高き、若き日のヘルマン・ゲーリング中尉も、一次戦においては22機の撃墜スコアを誇るエクスペルテンでもあった。

その頃のプール・ル・メリット勲章の受章基準は、敵機25機撃墜が目安とされていたが、ゲーリングは特例的に1918年6月2日付で、18機撃墜の功によりプール・ル・メリット勲章の受章が認められている。

 

マンフレートの死後、JG1は1918年4月22日付で“ヴィリー”ことヴィルヘルム・ラインハルト大尉がその指揮を引き継いだ。

 

 

 

そのラインハルトも、同年7月3日のベルリン近郊アドラースホーフでの第二回航空機競技会(新型飛行機の公開コンペ)に参加した際、ツェッペリン・リンダウ社の複葉機“(ドルニエ)D.I”をテスト飛行中、上翼を支えるマスト部分の破損により上翼が空中分解し、墜落死している。(享年27歳)

20機の撃墜スコアを誇るエクスペルテンではあったが、今一歩およばずプール・ル・メリット勲章の受章には届かなかった。

 

そのラインハルトの後任として、急遽、白羽の矢が立ち、同年7月8日付でJG1を引き継いだのがゲーリングであった。
ただ、ゲーリングはそれまでJG1には所属していなかったうえ、この部隊にはゲーリング以上の撃墜スコアを持つエルンスト・ウーデット(※後述)エーリヒ・レーヴェンハルトといったトップエースが在籍してため、これは寝耳に水の人選と言えた。
ウーデットもこの人事を聞いた時、「何てことだ!余所者が指揮官になるのか」と驚愕したという。
ゲーリングが指揮官に抜擢されたのは、先任の中尉ということもあろうが、何よりも、それまでの組織の統率力(根回し能力にも)に優れていることが評価されたためであったといわれており、事実、この一年後には、この人選が正しかったことが証明され、隊員たちの信頼も勝ち得たゲーリングは、マンフレート以上に人望のある指揮官になっていた。

 

愛機の前で“リヒトホーフェン”航空団杖杖を誇らしげに持つ…就任後のゲーリング

 

付記

 

二次戦中に“大将”にまで昇進する…2008年版における“脇役”の二名も紹介させて頂こうと思う。

かつてはマンフレートたちの上官であったが、マンフレートが第1戦闘航空団の指揮官に任命された後…そしてゲーリングがその後を引き継いだ後も、副官(特務将校)として部隊を支えていく…正に“バイプレイヤー”なカール・ボーデンシャッツはシュテフェン・シュローダーが演じている。
また、イジ―・ラシュトゥフカ演じるエルンスト・ウーデットは、本編後半に、台詞は二言、サラッと登場するだけで…ともすると“エキストラ”かと思ってしまう程の登場人物ではあるが、ここではあえて紹介させて頂く。

 

カール・ボーデンシャッツ中尉

この写真はキャプションによると、第2飛行中隊での“1917年6月の集合写真”ということなので…フリッツ・オットー・ベルネール中尉が、同年4月23日付で受章したプール・ル・メリット勲章を襟元に佩用していることから、ベルネールが第2飛行中隊の指揮を執った1917年6月9日~6月28日の間に撮られた写真ではないかとも思われる。
前列左の眼鏡の人物が、27機撃墜のスコアを誇る…そのベルネールで、その右隣の人物はヴェルナー・フォス、後列中央の人物がボーデンシャッツである。
因みに、ボーデンシャッツの両隣の4人…左からオットー・フンジンガー、ゲオルク・ツォイマー、ゲアハルト・バッサンジュ、ヴィルヘルム・プリーンとのことである。


この写真の撮られた経緯はわからないが、フォスが、この少し前の5月20日付で、第5飛行中隊(Jasta5)での一時的な指揮を執るために派遣されたとのことなので、Jasta5の飛行場の置かれていたボワストランクール(仏)から、Jasta2の飛行場のあるプロンヴィル(仏)まで直線距離にして25㎞程ということで、かつて所属していたJasta2を、やはり、かつてベルケの副官としてJasta2にいたボーデンシャッツとともに訪れた際に、記念写真でも撮ろうということになったのかもしれない。

 


二次戦中、ボーデンシャッツは航空兵科大将まで昇進し、総統官邸とドイツ空軍司令部との連絡将校として、1944年7月20日の総統暗殺未遂事件…いわゆる7月20日事件では重傷を負うも、幸運にも生き延び、1945年5月5日にバート・ライヘンハルで逮捕され、ニュルンベルク裁判後2年間服役。
戦後は、故郷(レーアウ)近郊のエルランゲンに移り住み、1979年8月25日に亡くなっている。(享年88歳)

 

 

エルンスト・ウーデット予備役中尉

 

一次戦中のエルンスト・ウーデット予備役中尉は、マンフレートに次ぐ62機という撃墜スコアを誇るトップ中のトップエースであり、1918年4月9日付でプール・ル・メリット勲章を受章している。
 

二次戦に向けた準備を急ぐ旧友のゲーリングに請われ、航空省に入省し、技術局長、航空機総監などを歴任し、最終階級も空軍上級大将まで昇進を果たすも、かつてのトップエースも航空機開発には疎く、その綻びは次第に深まり、航空技術に精通したエアハルト・ミルヒにその座を奪われ、功を焦った結果が、かえって己の無能さを露呈する羽目になる。
ここに至り、ゲーリングも容認しておくわけにはいかず、事実上排斥された。
心身ともに荒廃したウーデットは、1941年11月17日午前9時、拳銃により自らの命を絶った。(享年45歳)

※奇しくも、ラシュトゥフカも2018年11月1日未明に、ウーデットと同様に自ら命を絶って亡くなっている。(享年39歳)

 

●エースをねらえ!『至高の青』編に続く…