勝利への脱出 | S A L O N

ドイツ軍は、1941年9月19日に首都キエフを含む右岸ウクライナを陥落させ、10月24日にハルキウ(ハリコフ)を含む左岸ウクライナ…翌1942年7月までにはクリミア半島とクバーニ地方を占領下に置いた。

 

死の試合

キエフを本拠地とするサッカーのクラブ・チームである“ディナモ・キエフ(Динамо Київ)”に所属の選手たちも一般の市民同様に強制労働に従事するなか、休憩時間に工場の空地で草サッカーに興じていたようである。

その噂を耳にしたドイツ側の提案により、枢軸国軍側の幾つかのクラブ・チームとの親善試合が行われる事になった。

1942年7月に数試合が組まれたが、ディナモ・キエフの選手たちを中心に編成されたウクライナ・チームの“START”がいずれも勝利を収め、キエフ市民たちの評判を呼んだ。

そこで殿とばかりに、1942年8月9日(日曜日)、キエフのゼニス・スタジアムおいて、ドイツ空軍の強豪クラブ・チーム“FLAKELF(※高射砲部隊のイレブン)”との対戦を組んだ。

 

因みに、観戦チケットの料金は5カルボヴァネツィアだったとのことだある。

占領当初、ドイツの通貨(当時)であるライヒスマルク(RM)とともにウクライナ(当時)の通貨であったカルボヴァネツィアの使用も許可していた。

当時の公式の為替レートによると、10カルボヴァネツィアは1ライヒスマルクとされている。

さて、そのRMを現在の“円”に換算してみるといくらぐらいになるのか?

1940年の為替レートは…一圓=0.581RM(※一圓=0.23437$)とされており…1RMは一圓72銭前後と換算される。

それを日本銀行が算出した、1940年の我が国の物価指数から割り出して、現在の通貨価値(年次により変動あり)に換算した金額にあてはめてみると…

1940年当時の一圓は現在の4051.80円≒4,000円程と思われる。

(※1944年の一圓は現在の286718円≒2,870円程)

つまり、この試合の観戦チケットの価格である5カルボヴァネツィアは、0.5RM≒86銭…現在の3,500円(3,487円)程となるようで、現在の価格帯とも別段変わりはないようにも思える。

 

試合の話に戻して…

ウクライナはドイツの占領下であり、国民はその動向により明日をもわからぬ不安や恐怖のなかで暮らさねばならず、それは選手たちも同様であり、ドイツ・チームに勝つことは身に危険が降りかかることにもつながりかねない状況にあった。

そのようななかでも、STARTは5-1と勝利を収め、FLAKELFが汚名挽回とばかりに臨んだ再試合でも5-3と勝利した。

 

その後、選手たちは逮捕、スィレーツィ強制収容所へ移送され、バビ・ヤール(峡谷)で処刑されたとされ、この試合は後に「死の試合(ウクライナ語: Матч смерті / 英語: The Death Match)」として実しやかに伝えられてきたが、近年の調査の結果、選手が殺害されたという話には信憑性がなく、当時のソ連がウクライナ人の親ソ・反独感情を助長させるためのプロパガンダとして、「ドイツに最後まで抵抗して、八百長に手を染めることはなく死んでいった」という美談を捏ち上げたという説が主流である。

 

 

勝利への脱出(Escape to Victory/“VICTORY”)』(1981年)

 

この“死の試合”にヒントを得て、製作されたのがジョン・ヒューストン監督映画の『勝利への脱出』である。

(原題は“Escape to Victory”となっているが、プロローグの表記タイトルは“VICTORY”のみ)

 

1943年8月15日、占領下パリで、プロパガンダの目的のために行われることとなったドイツ代表チームとドイツ南部のゲンズドルフ捕虜収容所の連合国軍捕虜チームのサッカーの試合。
試合会場となるコロンブ競技場の真下には、セーヌ川へと繋がる下水道が走っており、レジスタンスによる協力を得て、選手控室の浴槽床に穴をあければ、そこから脱出できることが分かった。
決行は、ハーフタイムの時。
試合は、審判による不当な判定を受けたり、相手のファールによりルイスが負傷させられるなど、1-4と3点ビハインドで前半を終える。
脱走へと気持ちがはやるハッチだが、他の選手たちは試合続行を望む。
後半に入り、反撃に転じた捕虜チームは1点差にまで詰め寄る。
そして、ついに同点…かと思いきや、反則を取られノーゴールとなる。
残り4分、ベンチに下がっていたルイスは居ても立っても居られず、痛みを押して再出場する。
そして、ルイスによるバイシクルシュートで遂に同点。
このプレーに感動したシュタイナーも思わず席を立ち拍手を送る。
スタンドの観客たちからも「victoire(勝利を)!」の大合唱が起こる。
残り1分、捕虜チームはペナルティエリア内での反則を取られ、ドイツにペナルティーキックが与えられる。
この判定に対して観客からはブーイングが起こり、それはラ・マルセイエーズの大合唱へとかわる。
いよいよバウマンによるペナルティーキック。
ゴールキーパーのハッチは止められるのか…
そして選手たちの運命は…
 

 

ヒントとはいっても、ドイツ・チームと親善試合を行うという設定以外は、ほとんどが新たに加えられた展開で…スポ魂的要素に加えて、ハラハラド・キドキの“脱出・脱走・脱獄”に纏わる“脱”要素を加え、これでもかと言わんばかりの痛快娯楽作品的な内容となっていて、サッカーのあまりよくわからない私でも十分に楽しめる作品となっている。

 

主演は、ロッキー・バルボア役で出演したロッキー(1976年)、ロッキー2(1979年)が立て続けに世界的な大ヒットとなり、スターダムにのし上がっている真っ最中のシルヴェスター・スタローンと、2000年には長年の活動を称えられてナイトに叙され、サー(Sir)の称号を受けたイギリスの名優のマイケル・ケイン

 

ケインといえば…私的にはどうしても、以前にも紹介した映画『空軍大戦略』(1969年)におけるキャンフィールド少佐役、『鷲は舞いおりた』(1976年)におけるクルト・シュタイナー大佐役、そして『遠すぎた橋』(1977年)におけるJ.O.E.ヴァンデリュア中佐役などの戦争映画での印象が強い。

 

物語のキーパーソンともいえる、情報将校カール・フォン・シュタイナー役のマックス・フォン・シドーも、元全ドイツ・チームの選手でもあっただけに、スポーツマンシップを持った好人物として描かれ、なかなかに良い味を出している。

 

因みに、こちらも以前に紹介した『暁の7人』(1975年)においてラインハルト・ハイドリヒ役を演じたアントン・ディフリングが、試合の実況アナウンサー役として出演している。


ルイス・フェルナンデス役の「最も偉大な選手」と称される“サッカーの王様(O Rei do Futebol)”ペレ(伯)をはじめ、テリー・ブレイディ役のボビー・ムーア(英)、カルロス・レイ役のオズワルド・アルディレス(亜)、パウル・ヴォウチェク役のカジミエシュ・デイナ(波)、ガンナール・ヒルソン役のハルヴァール・トーレセン(諾)、エリック・バル役のソレン・リンドステット(丹)、またドイツ代表チームのキャプテン・バウマン役のウェルナー・ロス(米)など、錚々たる名選手たちに加え、連合国軍捕虜チームにはイプスウィッチ・タウンFCから、ドイツ代表チームにはニューヨーク・コスモスの2軍選手たちがエキストラとして出演し、見所の迫力あるサッカー・シーンを盛り上げている。

 

この映画の重要なの舞台の一つとなる“コロンブ競技場”だが、1980年のスタジアム周辺には現代的なビルがそびえ立ち、ロケ地には使えなかった。
そこで当時、ブダペスト(ハンガリー)のサッカー・チームであるMTK(Magyar Testgyakorlók Köre)=ヴェレシュ・メテオルSK(当時)のホーム・スタジアムであったMKT競技場(MKT pálya bontás)が1940年代当時のコロンブ競技場を彷沸とさせるとしてロケ地に選ばれたということである。

残念ながら、2015年に取り壊され、現在は同地に、選手、監督として活躍したブダペスト出身の…“オレグ”の愛称でも親しまれたヒデクチ・ナーンドルの名を冠したヒデクチ・ナーンドル・スタジアム(Hidegkuti Nándor Stadionに建て替えられ、MTKブダペストFCのホーム・スタジアムとなっている。

 

MKT競技場で撮影されたシーン。

 

実際の“コロンブ競技場”は、パリの西北に位置するコロンブ(Colombes)にあり、1924年の第8回オリンピック競技大会(パリ大会)のメイン会場、そして1938年のFIFAワールドカップでは決勝戦の会場にもなった。

正式名称は、コロンブ・オリンピック・スタジアム(Stade Olympique de Colombes)であったが、現在は、イヴ・ドゥ・マノワール・オリンピック・スタジアム(Stade Olympique Yves-du-Manoir)と、その名称を変えている。

 

Silvester feiern!!
今日は12月31日“大晦日”…そこで、「シルヴェスター」つながりということで…

ドイツ、オーストリア、スイス、ボスニア、ヘルツェゴビナ、クロアチア、チェコ共和国、ハンガリー、リヒテンシュタイン、ルクセンブルク、ポーランド、スロバキア、スロベニア、フランス、イタリアなどでは、グレゴリオ暦の一年の最後の日…つまり“大晦日”を、“Saint Sylvester’s Day(聖シルベスターの日)”として祝日または少なくとも半休日としてるそうで…

日本では、“大晦日”は祝日ではありませんが、ほとんどの人が休日期間中だとは思います。

この“Silvester”とは、ローマ帝国の皇帝コンスタンティヌスⅠ世がキリスト教を公認した直後の314年に選任した第33代のローマ教皇シルウェステルⅠ世(PaPa(もしくはSan) Silvestro I)のことで…独語綴りだと“Heilige Silvester I”となる。

(在位期間は314年1月31日~335年12月31日の21年11か月1日で、歴代教皇中で8番目に長い)
このシルウェステルⅠ世の亡くなった335年12月31日にちなんでこう呼ぶようになり…「Silvester feiern!!(大晦日を祝す)」と言って一年納の日を祝うのだそうです。

 


因みに、325年5月20日に皇帝コンスタンティヌスが召集した“第一回ニカイア公会議”を主宰したのも、このシルウェステルⅠ世で、キリスト教における教義としては結構重要な“三位一体”を教理(アリウス派の唯一神教論を異端と退けた)とすることが決定されたことで有名な会議なのだそうである。
この他の重要決定事項としては…こちらの方が私たちにとってはある意味、重要?な…つまり、これ以前にはキリストが生まれた日というものが聖書に記されていなかったためいくつかの誕生日説があり…これを当時のローマで信仰されていた太陽神ミトラの誕生を祝う祭りが冬至の日にあたる12月25日でもあったことから、“12月25日”と定めたのもこの会議だったそうである…(^ ^;テキト~

 

いよいよ2021年も残すところ、あと僅か…

それでは皆さま、よいお年を!