復讐するは我が満足にあり | S A L O N

裂けた鉤十字/ローマの最も長い一日【英題:Massacre in Rome / 伊題:Rappresaglia(=報復)』 (1973年)  

 

“映画”という媒体を通しての表現であれば、どうしても作り手の思い入れや作意により脚色が加えられることは致し方のないところではあるが…
そういう意味では、この映画は…“報復”という名のもとに行われる理不尽な“処刑≒虐殺”のためのリスト作りに翻弄されるリチャード・バートン演じるヘルベルト・カプラー中佐(字幕ではなぜか“大佐”)の苦悩と処刑・虐殺を止めさせようと奔走するマルチェロ・マストロヤンニ演じるアントネッリ神父の…立場は違えど、互いに紀元前8世紀末頃の吟遊詩人ホメーロスの詩を読み、制服に身を包み、規律に従わざるを得ない、どこか同じにおいを感じる二人の人間ドラマも含め…ラストシーンは、如何にも映画的な脚色となっているが…それなりにしっかりと描かれている作品といってもよい。
興味を持たれた方は、是非ご覧頂ければと思う。

 

 

因みに、今日…12月19日は、1996年に72歳で亡くなったマストロヤンニの祥月命日となる。

 

 

この映画で、リチャード・バートンが演じたヘルベルト・カプラーSS中佐は、実在の人物である。
1943年9月8日のイタリア無条件降伏後、同月12日にオットー・スコルツェニーSS大尉(当時)らにより救出したベニート・ムッソリーニを首班に据え、ドイツの傀儡政権として樹立された“イタリア社会共和国”下の北イタリアにおいて警察権などを持ち…また、イタリアにおけるユダヤ人強制移送にも重要な役割を持っていた人物である。
カプラーは国家保安本部第6局(SD外国局)に所属しており、ムッソリーニ救出…“Eiche(柏)作戦”にも、その立案・計画・組織化等に深く関わっていた。
この第6局は海外情報部、国防軍情報部など全ての諜報活動を掌握する部署にまで拡大しており、1942年7月から…若干32歳にして、その局長に就いたのが…戦時中、ココ・シャネルと浮名を流したということでも有名なヴァルター・シェレンベルクSS大佐(のちSS少将)である。
因みに、スコルツェニーら特別部隊による準軍事的特殊任務および破壊、諜報活動などには第6局が深く関与していた。

(※第6局は、第4局の秘密国家警察(=ゲスターポ)とは別局である。)



 

さて話を戻し、この映画の題材ともなっているのが…
1944年3月24日、ローマ郊外のフォッセ・アルデアティーネの洞窟内で行われた虐殺…いわゆる“アルデナティーネの虐殺”である。
事の発端は、その前日のファシスト党の記念日でもあった3月23日午後…ローマ市内を定時巡察するSS警察連隊“ボーゼン”第3大隊/第11中隊の156名がラッセラ街に差し掛かった際に、パルチザンによってゴミ運搬車に仕掛けられた12㎏と6㎏の計18kgの爆薬により、32名が即死、重軽傷者77名(うち1名がその後死亡)という惨事が起こった。(※最終的な死亡者数:42名)

 


これに激怒したヒトラーは「24時間以内に死亡したドイツ兵1名に対しイタリア人50名を処刑(処刑対象人数:1,650名)…ラッセラ街全域も焼き払え」という無謀な命令を出す始末。
最終的には、東部戦線における報復処刑者対象比率ともなっていた「1:10」を適用することでアルベルト・ケッセルリンク空軍元帥は、なんとかヒトラーの了承を取り付ける。
拘留中の政治犯、パルチザン、反ナチス・反ファシスト主義者…それでもまだ足りず、ユダヤ人(約70名)からも選別し…330名の“処刑者リスト”を作成した。
この…“シンドラーのリスト”ならぬ“カプラーのリスト”のリストアップ、一連の処刑任務における指揮を執ったのがカプラーであった。
処刑の場となった洞窟に連行されて来たのは…手違いもあり、リストには記載されていない5名も含まれていたが、その335名全員が処刑されている。
劇中ではカプラー自身も洞窟に赴いているが、実際のところは…現場で指揮を執らされたのはエーリヒ・プリーブケSS大尉である。
終戦後の1948年5月3日に行われたローマ軍事法廷において、この虐殺指揮の責任・罪などにより、カプラーには終身刑が言い渡された。
ところが、末期癌であることが告げられた直後の1977年8月15日にナポリ刑務所を脱獄…
その翌年の1978年2月9日…獄中結婚した妻と息子に見守られ、北ドイツのニーダーザクセン州の都市ゾルタウの自宅で亡くなったとのことである。(享年70歳)