ケーニッヒをさがせ! | S A L O N

それまで“ツァリーツィン”という名称であったその都市は、1925年にヨシフ・スターリンにちなんでスターリングラードと改名された。
(※1961年に“ヴォルゴグラード”に改名されているが、年に6回の記念日のみ“スターリングラード”に戻されるとのこと…)
ソビエト連邦の南ロシア地域における重要な重工業都市であったスターリングラードは、1942年夏から翌年の初冬までの半年以上にわたり、両軍合わせて200万にもおよぶ死傷者を出す程の激しい市街戦の舞台となる。

 

スターリングラード(Stalingrad)』(1993年)


 

このスターリングラード攻防戦に送り込まれた将兵たちの苦闘の日々を描いた1993年公開の『スターリングラード(Stalingrad)』。
いわゆる勇猛果敢な戦争映画という類のものではなく…シリアスに、時にシニカルに生死戦殺について描いた映画のように思う。

 

 

映画評などを見ると、映画自体の評価はさておき…“登場する兵士の軍装や髪型がドイツ制作映画ならではの考証の正確さを誇る”旨があったが…少々厳しい見方かもしれないが、その点に関しては些か疑問がないわけでもないのだが…。
私見ではあるが、その“正確な軍装”等も含め、よりリアルに見せるために、スティーヴン・スピルバーグ監督による1993年公開の『シンドラーのリスト』よろしく、全編をカラーではなくモノクロ作品にでもしてしまった方がより説得力があったのではないかなどと思ってしまうのは私だけだろうか?


狂気に馴染めずに苦悩する主人公…ハンス・フォン・ヴィッツラント少尉役を演じているのが、若き日のトーマス・クレッチマンである。
初めて前線に赴く新米将校役…自身にとっても初となる将校役であり、この演技が多くの監督たちの目に留まることとなり、その後の出演作品…そしてドイツ将校・将官ハマリ役者?へと繋がっていくことにもなったのである。

 

 

Enemy at the Gates(邦題:スターリングラード)』(2001年)

 

さて、その『スターリングラード』という邦題同名映画といえば…
2001年公開の『Enemy at the Gates』という“フィクション”映画がある。

 

 

ソ連(赤軍)の狙撃兵として257名に及ぶ狙撃スコアをあげ英雄となった実在の人物…ジュード・ロウ演じるヴァシリ・ザイツェフを主人公にスターリングラード攻防戦を描いた映画で…

そのザイツェフの宿敵とされたエルヴィン・ケーニッヒ少佐との手に汗握る心理戦・銃撃戦が見所といえる。
因みに、その沈着・冷静・冷徹なケーニッヒ少佐役はエド・ハリスが演じているが、単に映画の中でのライバル役として設定された人物ではない…結果的には同じようなことになるのだが…(苦笑)

 

 

“エルヴィン・ケーニッヒ陸軍少佐(一説にはハインツ・ソルバルト陸軍大佐とする説もある)”なる人物は…ソ連側の説明では、“400名以上の敵兵を射殺”したとされる伝説的な狙撃の名手とされているようだが、そのような凄い人物にも拘わらずドイツ軍の公式記録には一切存在せず…当然、受章しているであろう騎士鉄十字章受章者リストにも、どちらの名前も見当たらない。
然るに、ソ連側が自軍の狙撃兵であるザイツェフの仕留めた相手を誇張することで彼の戦果をより誇大化し、英雄として祭り上げる為のプロパガンダとして捏造した架空の人物とする見方が濃厚のようである。
ソ連側はドイツ側が英雄の死を隠蔽して士気低下を防ごうとしたと主張しているようであるが…
以後の逸話はまさに劇中のストーリーとしても使われているが、ザイツェフに手を焼くドイツ側がベルリンの狙撃兵学校教官(※そもそもベルリンに狙撃兵学校自体が無い)でもある伝説の狙撃手ケーニッヒを送り込んだというのである。
これに対しザイツェフは上官からケーニッヒ少佐を射殺するよう命令を受け、数日間の追撃の後にザイツェフはついに波状鉄板の下に隠れているケーニッヒを発見し、狙撃に成功したという。
その際に戦利品としてケーニヒの照準器を持ち帰ったとされ、それがモスクワの戦争博物館に展示されているとのことであるが、ザイツェフ自身の著書やアレクサンドル・シチェルバコーフへの報告書にはこの事についての記述もなく、これもどうも出来過ぎた…というより稚拙、恣意な捏造のようである。

何れにせよ、そのような眉唾な“ケーニッヒ”であるから、人物を特定するに至るべくも無く…
そこで単なる私的興味もあり…名前が“ケーニッヒ”なる騎士鉄十字章受章者を…もしかすると、捏造に際しモデルにした人物でもいないかとの淡い期待を抱きつつ検索をしてみると…13名(陸軍8名、空軍4名、海軍1名)が存在した。
さらに柏葉章受章者に絞り込むと…アルフォンス(陸軍大佐)、エルンスト(陸軍少将)、オイゲン(陸軍中将)の3名…全て陸軍からとなり、剣付柏葉章受章者となるとアルフォンスのみとなる。

 

アルフォンス・ケーニッヒ陸軍予備役大佐
●第199歩兵連隊・第6中隊の指揮官に任官時の1940年12月21日付で予備役陸軍中尉として騎士鉄十字章を受章。
●第217歩兵連隊・第Ⅲ大隊の指揮官に任官時の1943年2月21日付で陸軍予備役大尉として第194番目の柏葉章を受章。
●第199擲弾兵連隊の指揮官に任官時の1944年6月9日付で陸軍予備役中佐として第70番目の剣付柏葉章を受章。
※1944年6月22日にベラルーシで始まったソ連軍の反撃作戦(バグラチオン作戦)において、ハンス・ヨルダン陸軍歩兵科大将率いる第9軍はプリピャチ川沼沢地に追いつめられ…戦死者4万人、捕虜2万人という潰滅的大損害を被り7月5日に降伏した。
その最中のボブルイスクでの攻防戦においてアルフォンスも重傷を負い、7月8日に亡くなっており、死後に陸軍予備役大佐に昇進している。(享年45歳)



エルンスト・ケーニッヒ陸軍少将
●第12擲弾兵連隊の指揮官に任官時の1943年9月16日付で陸軍少佐として騎士鉄十字章を受章を、1944年9月21日付で陸軍大佐として第598番目の柏葉章を受章。
※1944年11月20日付で第28猟兵師団の指揮官に任官し、同師団はフリードリヒ・ホスバッハ歩兵科大将率いる第4軍に所属。

因みに、1945年1月30日付で陸軍少将に昇進している。
1945年1月13日に始まった(第二次)東プロイセン攻勢に参加するも、第4軍所属15諸師団とともにカリーニングラード湾のハイリゲンバイルで包囲され、潰滅的大損害を被りソ連軍に殲滅された。
この戦闘でエルンストも負傷、4月12日付でハンス・テンペルホフ陸軍大佐に指揮官を引継ぎ戦線を離れている。

 

 

オイゲン・ケーニッヒ陸軍中将
●第246歩兵師団麾下・第352歩兵連隊・第Ⅱ大隊の指揮官に任官時の1942年8月1日付で陸軍少佐(注)として騎士鉄十字章を受章。
●第451擲弾兵連隊の指揮官に任官時の1943年11月4日付で陸軍大佐として第318番目の柏葉章を受章。
(注)陸軍少佐時点で授与申請がなされたものと思われるが、軍歴によると1942年7月1日付で陸軍中佐に昇進をしている。
また、この時期、昇進と同時期に上部組織の第246歩兵師団・師団副官に任官。
その後、第352歩兵連隊の指揮官として復隊をしている。

1943年3月1日付で陸軍大佐に昇進。
※1944年6月6日…D-Dayによる連合国軍上陸を受け、レンヌでの戦況報告会議に出席するため、べルナヴィルの第91空挺歩兵師団の師団司令本部の置かれたシャトー・べルナヴィルをヴィルヘルム・ファレイ陸軍中将を乗せたメルセデスが出発し、村外れの製粉所に差し掛かった時…フランス本土に先行上陸していたマルコム・ブレンネン少尉率いる第82空挺師団所属部隊のバズーカによる近距離攻撃を受け、ファレイと副官のヨアヒム・バルトゥツァット陸軍少佐が殺害された。
これにより、一時的にベルンハルト・クロスターケンパー陸軍大佐が師団長を代行し、その後を6月10日付でオイゲンが引き継いでいる。
しかし8月7日にモルタンで始まったリュティヒ作戦において、第91空挺歩兵師団はもとより…母体となる第7軍全軍が大損害を被り、残存兵力により戦闘団“カストドルフ”を再編し対処することとなる。
これに伴い、第91空挺歩兵師団は8月10日をもって消滅した。
その後、オイゲンは9月1日付で陸軍少将に昇進し、レンヌの第7軍司令部付となる。
11月5日付で第344歩兵師団の指揮官に任官。
12月13日付で第272国民擲弾兵師団の指揮官に任官…師団は諸母体の移管を受けながらレマゲンなど西部戦域を転戦。
オイゲンは1945年3月16日付で陸軍中将に昇進し、師団はさらにルール地方に移動。
師団はヴァルター・モーデル陸軍元帥率いるB軍集団とともに連合国軍に包囲され、4月18日にヴッパータールにて降伏している。
因みに、モーデルは連合軍の捕虜となることを潔しとせず、4月21日…デュイスブルク近郊の森で拳銃自決している。

 

--------------------------------------------------------

 

上記3名以外の“ケーニッヒ”の騎士鉄十字章受章歴も簡単にまとめておく。(※( )内の日付は騎士鉄十字章受章日)

<陸軍>
ルドルフ・ケーニッヒ陸軍曹長:第74装甲擲弾兵連隊・第2中隊(1942年12月17日付)
クリスチャン・ケーニッヒ陸軍大尉:第41(自動車化)擲弾兵連隊・第Ⅱ大隊(1943年1月5日付)
ヴィルヘルム・ケーニッヒ陸軍予備役中尉:“中央”騎兵連隊・第1中隊 指揮官(1943年9月10日付)
ゲオルグ・ケーニッヒ陸軍曹長:第18戦車大隊・第1中隊(1943年9月13日付)
ハインリヒ・ケーニッヒ陸軍大尉:第915擲弾兵連隊・第Ⅰ大隊 指揮官(1945年2月14日付)

<空軍>
ヘルベルト・ケーニッヒ空軍上級曹長:第1輸送航空団・第12飛行中隊(1944年6月9日付)
ハンス・ハインリヒ・ケーニッヒ空軍中尉:第11戦闘空団・第Ⅰ飛行大隊(1944年8月19日付)
ハインツ・ケーニッヒ空軍少尉:降下突撃砲大隊“ヘルマン・ゲーリング”・第3中隊(1945年2月8日付)
ヴィクトーァ・ケーニッヒ空軍曹長:第55爆撃航空団・第14飛行中隊(1944年10月6日付)

<海軍>
ラインハルト・ケーニッヒ海軍(技術)中尉:U-123機関長(1944年7月8日付)

--------------------------------------------------------

いずれの“ケーニッヒ”も…当然の結果ではあるが、“狙撃手”とは無縁のようであり…
単に、“ケーニッヒ”という名前繋がりということでの紹介だけでは如何にも片手落ち観が否めないので、“狙撃手”という点についても少しふれておくことにする。

 

“狙撃手”に対しては狙撃兵章(Scharfschützenabzeichen)が1944年8月20日付で制定された。
この徽章制定の背景には…戦争末期となって一層疲弊を極めた兵力では、もはや大掛かりな地域戦および戦局を左右するような作戦・攻撃行動すら執ることが出来ず、地区・市街区でのゲリラ戦に持ち込む他はなく。
狙撃による不安と恐怖によって敵の士気を弱めるに効果、必要性があるとされたからであろうが、それ以上に自軍の士気を高めるに足る目に見える戦果が、こうしたことくらいしか既になくなっていたと言っても過言ではない。
当初は陸軍および武装SSの狙撃兵を対象に授与されたが、国防軍総司令部(OKW)の通達により1944年12月14日付で、軍種を問わず他の武装した部隊における狙撃・射撃手も授与対象とされることとなった。
狙撃兵章には、“3級”は20名、“2級”は40名、“1級”は60名以上の狙撃スコアにより三等級が定められており、その算定自体は1944年9月1日から行われることとなり、遡及適用は認められなかった。
勿論、算出に関しては当事者の申請と同伴者・目撃者による確認が必要とされていた。
因みに、狙撃の功績に対して既に鉄十字章が授与されている場合、この徽章の追与は行われないとする見解もあるようだが、以下を見る限りでは適宜的に行われていたようである。
この徽章の着用位置は右袖前腕部とされ、いわゆる専門職徽章と同様の位置に着用すべきとされた。
ソ連軍の捕虜になった際、この徽章着用者が射殺されることを考慮し、1945年になると捕虜となる前に徽章は破棄するよう通達が出されている。

 

以下に紹介する3名は、クエンティン・タランティーノが監督・脚本を手掛けた2009年公開の『イングロリアス・バスターズ』において“国民の誇り”として登場するフレデリック・ツォラー国防軍一等兵よろしく…

 

 

かなりのハイペースで狙撃スコアを重ねた驚愕の狙撃数ベスト3(“ケーニッヒ”なる人物が実在すれば及ばないものの)…奇しくも、3名とも当時まだ20歳の若者たちである。
※因みに、これらのスコアはトータルの狙撃スコアであって、徽章受章規定算定開始日以降のカウントではない。

 

 

マテウス・ヘッツェナゥアー陸軍上等兵
1924年12月23日にオーストリアのチロル州、ブリクセン・イム・ターレで生まれている。
1943年7月1日付で入営、基礎訓練終了後、射撃技能が見込まれ、ゼーターラーアルペ陸軍射撃演習場(オーストリア)で狙撃兵訓練を受け、第3山岳師団麾下の第144山岳猟兵連隊・第Ⅱ大隊/第7中隊に配属、東部戦線に従軍。
主にK98k(6倍スコープ装着)およびGew43(4倍スコープ装着)を使用し、独軍中最多となる通算345名の狙撃スコアをあげている。
これらの戦功により、1944年に2級(9月1日付)、1級(11月25日付)鉄十字章および(1級)狙撃章(12月3日付)等を受章。
第3山岳師団の指揮官パウル・クラット陸軍中将の推挙を受け、カール・フォン・ル・スヴィーァ陸軍山岳兵科大将ヴァルター・ネーリング陸軍装甲科大将が承認し、1945年4月17日付で騎士鉄十字章を受章している。
戦後はソ連軍に捕らえられ、5年間の抑留生活の後に生まれ故郷に帰国…2004年10月3日に同地にて亡くなっている。(享年79歳)

 

 

ヨーゼフ・アラァベルガー陸軍兵長
1924年12月24日にオーストリアのシュタイアーマルク州で生まれている。
1943年6月に第3山岳師団麾下の第144山岳猟兵連隊・第Ⅱ大隊/第8中隊の機関銃手として東部戦線に従軍し、ソ連領スタヴロポリで負傷。
療養中に鹵獲品のソ連製狙撃銃の試射・分析を担当していたこともあり、復帰後には27名の狙撃スコアをあげ、上官に狙撃手としての適性を認められ、ゼーターラーアルペ陸軍射撃演習場で狙撃兵訓練を受け、狙撃兵過程を優秀な成績で修了している。
主にK98k(4倍スコープ装着)およびGew43(4倍スコープ装着)を使用し、ヘッツェナゥアーに次ぐ通算257名の狙撃スコアをあげている。
詳細は不明だが、これらの戦功により2級、1級鉄十字章および(1級)狙撃章等を受章。
そして、1945年4月20日付で騎士鉄十字章を受章しているが、伝えられるところによれば…元々、山岳兵科出身であったフェルディナント・シェルナー陸軍元帥より直接、騎士鉄十字章を授与されたとのことである。
敗戦をチェコで迎え、逃避行に脱走劇などを図りながら、戦後は故郷オーストリアのヴァルス・ジーツェンハイムで父親同様に大工(家具職人との説もあるが…)として、妻のヘートヴィクと過し、2010年3月2日に同地で亡くなっている。(享年85歳)

 

 

ブルーノ・ストクス陸軍兵長
1924年5月14日にタンネンヴァルデ(東プロイセンのケーニヒスベルク郊外)で生まれている。
父親がリトアニア人であったため、1941年にドイツに帰化し、ドイツ国籍を取得。
国防軍に入営以前は、HJ(ヒトラーユーゲント)およびSA(突撃隊)で積極的に活動し、その際に狙撃手としての適性を認められ、1943年8月~12月末までリトアニアのヴィリニュス狙撃学校で訓練課程を受けた後、第68歩兵連隊麾下の第196擲弾兵連隊に配属され東部戦線に従軍し、通算209名の狙撃スコアをあげている。
これらの戦功により、1944年には2級(7月6日付)、1級(11月6日付)鉄十字章および(1級)狙撃章(11月21日付)等を受章。
1944年末に負傷し、療養中の1945年1月に昇進および狙撃学校教官任官の通知を受ける。
戦後はソ連軍の捕虜となり、KGBによる執拗な尋問の後、1949年からシベリアでの抑留生活を強いられる。
1991年のソ連およびリトアニア崩壊の後、ドイツを戦後はじめて訪問し、1994年にドイツ国籍を再取得。
妻アントニーナの死を機に1997年にドイツに移住し、2003年8月29日に亡くなっている。 (享年79歳)

 

 

補記

 

この人物も…そのスコープ装着のK98kを構えてのショットがあまりにそれらしいことから、当時“ケーニッヒ?”と取り沙汰された一人なのだが…この人物はヨアヒム・ハイドシュミット陸軍中佐である。
ハイドシュミットに関しては、第292歩兵師団麾下・第509擲弾兵連隊の指揮官に任官時の1944年8月27日付で陸軍少佐として騎士鉄十字章を受章していることはわかってはいるが、騎士鉄十字章受章者にもかかわらず、その他の情報が実はほとんどない。
1944年次のリストには、1943年2月1日付で陸軍少佐に昇進した後、1944年10月1日付で陸軍中佐に昇進したことが記載されている。
1939年の開戦時点では、ハイドシュミットはまだ現役下士官だったのか、もしくは予備役将校として応召したことによるからなのか…まだ正規(現役)将校としての記録はないが、第94歩兵連隊に所属していたことまではわかっている。
また、第292歩兵師団麾下の…第509擲弾兵連隊ではなく…第508擲弾兵連隊・第Ⅰ大隊の陸軍大尉として、1942年10月31日付でドイツ十字章金章を受章している。
因みに、この写真のキャプションによると…この時、ハイドシュミットの着用しているボタン・ダウンのシャツはフランス軍の常用シャツらしいのだが…
この手のシャツは、そもそもはポロの競技など乗馬競技中の襟の翻りが邪魔にならないようにボタン留めしたのがきっかけで作られるようになったとのことで、当時としてはまだ珍しかったのかもしれない。

 

 

追記

“スナイパー”といえば…

唯一無二のパーフェクト・スナイパー…コードネーム“ゴルゴ13”ことデューク東郷という謎の東洋人が先ず頭に浮かんでしまう…
勿論、コミックの世界のなかに登場する架空の人物であるが…
その生みの親である漫画家さいとう・たかを氏が、膵臓癌のため先日…9月24日午前10時42分、お亡くなりになられた。(享年84歳)
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。



 

因みに、1973年には高倉 健が主演で『ゴルゴ13』、また1977年には千葉真一が主演で『ゴルゴ13 九竜の首』として実写映画化もされている。

その千葉氏も、新型コロナウイルスの感染による肺炎が悪化し、8月19日にお亡くなりになられた。(享年82歳)
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。