映画になった海狼たち ② | S A L O N

U-571』(2000年)

 

2000年公開の映画『U-571』…公開当時、製作費120億円をかけたハリウッド版Uボート映画ということもあり…

また、ジョン・ボン・ジョヴィが出演しているということもあり、多少話題となり、当時、私も映画館に観に行った映画でもある。
ただ戦争映画としては、史実に添う部分もない奇抜なストーリー展開とあまりな御都合主義的な戦闘シーン、ハリウッド的なヒロイズム観、等々賛否のわかれる映画と言えよう。

 

 

劇中で使用された“U-571”はVII B型(VII C型とほぼ同型)をベースに製作された実物大レプリカ(米軍側のS-33も)…このあたりは、さすがハリウッドなのかもしれない。

因みに、U-571艦長ギュンター・バスナー大尉役はトーマス・クレッチマンが演じている。

 

 

Uボートに関しては、その艦番号によりある程度その艦についての来歴を探ることが出来る。
U-571はヘルムート・メールマン海軍大尉(当時)が就役したVII C型の艦である。
メールマンは1933年4月1日付で士官候補生として海軍に入隊し、軽巡洋艦ニュルンベルク、魚雷艇ルクスに乗艦し哨戒任務に就いている。
1940年4月にUボート潜隊に移動となり、艦長としての予備演習として1940年12月9日付でU-143(IID型)、1941年5月20日付でU-52(VII B型)を就役している。
1941年4月1日付で海軍大尉に昇進、5月22日付でU-571を就役し、8回(344日)の出撃で7隻撃沈(計47,169t)、1隻大破(計11,394t)の合計58,563tのスコアをあげている。
これらの戦功により、1943年4月16日付で騎士鉄十字章を受章している。
1943年5月31日をもって艦を降り、6月1日付で潜水艦隊司令長官(BdU)附幕僚部に転属。
1944年9月16日付で海軍少佐に昇進し、12月17日付でノルウェーのナルヴィクで第14潜戦の司令官に任官している。

 

 

その後のU-571は、U-566の一等運航士として経験を積み、 指揮官(艦長)養成課程を修了したばかりのグスタフ・リュッソー海軍中尉が 1943年5月31日付で就役している。
 

リュッソーは、計3回(110日)の出撃をしているが、残念ながらスコアはあげられなかったようである。
1944年1月28日にアイスランド西方の北大西洋上でオーストラリア空軍の飛行艇…“指輪の幽鬼”ことショート サンダーランドにより撃沈され、艦長以下52名が戦死している。(享年26歳)
決して、独海軍の駆逐艦に攻撃され、その結果、海底に没したということはなく…
ましてや、その駆逐艦を逆に撃沈したなどというような事実はないので、くれぐれも誤解のなきように…

 

 

ヴェルナー・ハルテンシュタイン海軍少佐は、1928年10月10日付で士官訓練生として海軍に入隊、軽巡洋艦カールスルーエや数艇の魚雷艇に乗艦し65回におよぶ哨戒任務に就くなか、1932年10月1日付で海軍少尉、1934年9月1日付で海軍中尉、そして1937年6月1日付で海軍大尉に昇進。
1941年3月にUボート潜隊に移動となり、1941年9月4日付でU-156(IX C型)を就役した。
1942年6月1日付で海軍少佐に昇進。
5回(294日)の出撃で、19隻撃沈(計97,489t)、4隻大破(計20,001t)の合計117,490tのスコアをあげている。
これらの戦功により、1942年2月2日付でドイツ十字章金章、9月17日付で騎士鉄十字章を受章している。

 

 

ハルテンシュタインが、戦功以上に一躍その名を残すことになったのが“ラコニア号事件”であろう。
それはハルテンシュタインにとって四回目の出撃時…
1942年9月12日、南大西洋上アセンション島の北北東210km沖に(元)客船ラコニア号(19,695t)を捕捉。
午後8時10分、右舷に1本の魚雷を命中させ…9時11分にラコニア号は沈没。

 

英国の海運会社キュナード・ラインの保有する客船ラコニア号は、1939年9月4日に英国海軍に徴用され仮装巡洋艦となって大西洋で船団護衛に従事した。
その後、兵員輸送船に改装され、主に兵員輸送任務に従事。

 

当日のラコニア号には、乗員136名、ポーランド兵約160名、婦女子を含む一般乗客約80名、英軍関係者268名とイタリア人捕虜約1800名の計2450名程が乗船していた。
ハルテンシュタインは、海上に投げ出された生存者をできる限り自艦に救助(一説では283名)し、それぞれを連結した4艘の救命艇を曳航した。
その際、救助したイタリア兵から多数のイタリア兵捕虜が乗船していたことを知り、直ちに潜隊司令部に報告。
報告を受けたデーニッツは救助を決定し、これによりU-506、U-507、U-459およびイタリアの潜水艦コマンダンテ・カッペリーニ、ヴィシー政府の軽巡洋艦グロワール、駆逐艦アンナミト、植民地通報艦デュモン・デュルビユが救助活動、遭難者の捜索に加わった。
ハルテンシュタインは、タオルを縫い合わせた急拵えの赤十字旗を甲板に掲げさせ、同時にSOS信号を発信、救助した英国海軍士官には現在の状況と「ラコニア号の乗員・乗客の救助に来援する如何なる船舶に対し、当艦が攻撃された場合を除き、攻撃の意思なし」旨を英語の平文で打電させ、連合国側の救助も要請している。
9月17日、米軍爆撃機のB-24が飛来。
英国海軍士官により信号を送るも反応無く、一旦、航過したが再来し、2発の爆弾を投下。
幸い直撃は免れたものの、至近弾の破片によりU-156の搭乗員2名が負傷している。
ハルテンシュタインが、救命艇を繋いでいる曳き縄を解くよう命じているところに再々来し、爆弾1発が投下…此度は、艦橋間近に被弾するもU-156自体の損傷は軽微で済んだものの、救命艇の何艘かは顛覆した。
これにより、U-156の搭乗員以外に救命胴衣を着けさせ退鑑を命じ、潜行態勢に入り海域を離脱。
その後、洋上に取り残された遭難者たちもヴィシー政府の派遣した艦船によって、その多くが救助。
独伊4艦の潜水艦による救出者も合わせると1,083名(1,104名とも)が救助されているが…
この一連の事件では推定1,649名が命を落としている。
この事件を機に、デーニッツは、いわゆる「ラコニア指令(Laconia-Befehl)」といわれる概ね以下のような文言を発している。

1.撃沈した船舶からの救命艇(転覆救命艇の介助行動)、浮き輪、その他による漂流者への一切の救助努力、食料や水の供給は控えなくてはならない。
そもそも救助活動自体が、敵船と乗組員を破壊せんとする本来の戦争行動と矛盾するものである。
2.敵の艦長もしくは技師長の救助に関しては状況に応じて有効である。
3.遭難者救助はその陳述が艦にとって重要な場合に限る。
4.敵が、我が国の婦女子も暮らす都市の如何に拘らず爆撃行動を執っていることを忘れてはならない。
 

The Sinking of the Laconia (Uボート156 海狼たちの決断)』(2011年)

 

このラコニア号の顛末を描いたのが、2011年にBBC Twoで放映された英独合作のTV映画『The Sinking of the Laconia(邦題:Uボート156 海狼たちの決断)』である。
ドラマとしての展開上、当然フィクションも盛り込まれてはいるのだが、概ね史実に基づいてのストーリーのためブレもない。
このドラマのキーワード「Vergiß nicht, daß du ein Deutscher(常にドイツ人であれ)」の如く…英国向けにも拘らず、連合国側以上にハルテンシュタインおよびU-156の乗組員たちが好意的かつ紳士的に描かれている。
“潜水艦モノにハズレ無し”とよく言われるが…
勿論、潜水艦モノ特有の手に汗握るシーンも見所ではあるのだが…
この映画では、通常は乗り込むことのない部外者…男性は勿論、婦女子たち…
その彼ら彼女らとU-156の乗組員との交流、彼ら彼女ら同士の交流という…
こうした映画には希なハートフルなストーリー展開も相まって、長尺(171分)さを感じさせることなく最後まで楽しめる映画となっているではないだろうか。
劇中の使用言語も、ドイツ側は独語、英米側は英語と、使い分けがされているところが嬉しい。

 

 

因みに、この作品でもトーマス・クレッチマンが、自身最高位となるデーニッツ提督(海軍大将)役で出演している。
デーニッツの描き方も好意的であるのだが…クレッチマンが演じていることで少々格好良過ぎの観も…

 

 

さて、①で後述するとお約束をした、第7潜隊のマークである“荒ぶる雄牛”…
このマークを使用したUボートは、以下の22艦が確認されている。
U-46、U-47、U-75、U-98、U-103、U-135、U-213、U-227、U-266、U-358、U-359、U-382、U-390、U-442、U-567、U-578、U-590、U-593、U-607、U-618、U-714、U-976

 

第7潜隊のマークである“荒ぶる雄牛”には基画となる“雄牛”があり…その“雄牛”を個人マークとして使用していたのがギュンター・プリーン海軍少佐である。
ただ、第7潜隊のエンブレムでは脇腹に3本の筋が加筆されている。

 

 

プリーンは、1923年、15歳の夏にヴァイマル共和国海軍の商船員として全装帆船ハンブルクの給仕係として、その船乗り人生を始めている。
1932年1月には船長試験に合格したものの、折からの世界恐慌で船舶輸送業界も勿論のこと大打撃を受け、仕事に就くことが出来なかった。
そんな先行きの見えないなか、3月にN.S.D.A.P.(国家社会主義ドイツ労働者党=ナチス党)に入党、8月には国家労働奉仕団(RAD)に入団している。
1933年1月16日付で士官候補生として海軍に入隊、軽巡洋艦ケルンに乗艦し哨戒任務に就いている。
1935年4月1日付で海軍少尉に昇進。
同年10月にUボート潜隊に移動となり、ヴェルナー・ハルトマン海軍大尉(当時)の就役するU-26の当直士官として、スペイン内戦に揺れるスペイン海域の哨戒任務などで経験を積む。
1937年1月1日付で海軍中尉に昇進。
指揮官(艦長)養成課程を修了し、1938年12月17日付でU-47(VII B型)を就役している。

 

1939年2月1日付で海軍大尉に昇進。
1939年10月14日、潜水艦隊司令官(FdU)カール・デーニッツ海軍少将(当時)の作戦命令により、プリーンが指揮するU-47は英軍港”スカパ・フロー” の港内深く潜入し、碇泊中の英戦艦ロイヤル・オークを撃沈した。
この功績により、1939年10月18日付で、Uボートの艦長として初めて騎士鉄十字章を受章。
”スカパ・フロー” は、英国艦隊の拠点であり、またドイツにとっては第一次大戦敗戦後の因縁の場所でもあった。
そこに敵戦艦を沈めことでドイツ国民は歓喜した。
この作戦成功を喜んだヒトラーは全乗組員をベルリンに招き、一人一人に勲章を授与するほどであった。
それに因んで、プリーンは「スカパ・フローの雄牛(Stier von Scapa Flow)」の異名を得る。
そのプリーンが愛艦のU-47艦橋側面に個人マークとして描いたのが、この“スカパ・フローの雄牛”で…これが第7潜隊のなかで広まっていったという経緯がある。

 

プリーンは、10回の出撃(計238日)で、31隻撃沈(計191,919t)、8隻大破(計62,751t)の合計254,670tのスコアをあげて…1940年10月20日付で全軍5番目(海軍からは初)となる柏葉章も受章している。

 

1939年10月18日、ベルリンの総統官邸でアドルフ・ヒトラーがギュンター・プリーンとU-47の乗組員たちと接見した際の写真。
プリーンがヒトラーの脇に立ち、各乗組員たちの紹介などをしている。(左端はエーリヒ・レーダー大提督)
 

因みに、カール・デーニッツは1936年1月1日付で潜水艦隊司令官(Führer der Unterseeboote:FdU)に任官しているが、この作戦指揮の功により1939年9月19日付で潜水艦隊司令長官(Befehlshaber der Unterseeboote:BdU) に格上げされている。
つまり、これはデーニッツ個人のみならず…全軍における潜水艦隊(群)という組織のその後の重要度・優先度が上がったことを意味している。

 

1941年2月20日、出航前のU-47の…プリーン版“荒ぶる雄牛”の描かれた艦橋に立つプリーンを撮らえた写真であるが、これが在りし日のプリーン最後の一枚となってしまった。
この半月後の3月6日に、U-47は北大西洋上にOB293船団を発見し、船団を追跡。
U-47からの報告を受けた近海を航行中の3艦(U-99、U-70、U-A)が加わり、夜半~翌7日にかけて攻撃を開始した。
その最中、公式の記録はないが(英軍側による撃沈の報告もない)…45名の乗組員を乗せたU-47は消息を絶った。
※英戦艦ウォルヴァリンに撃沈されたと記載された資料もあるが、英国側の報告によるとU-A(WWI型)を撃沈したものと認識しているようである。
プリーンの死は、その後しばらく伏せられていたが、長期不在がいらぬ憶測を招き、5月24日刊の国防軍軍報(Wehrmachtbericht)よって公表されるに至った。 (享年33歳)

 

U47 – Kapitänleutnant Prien(U47出撃せよ)』(1958年)

 

この“スカパ・フロー”の英雄…プリーンを伝記的に描いたのが1958年製作の映画『U47 – Kapitänleutnant Prien(邦題:U47出撃せよ)』である。
‘50年代に製作されたこの手の映画にありがちな、ヒロイックで清廉潔白な人物像を強調した描き方ではあるものの…1951年製作の『砂漠の鬼将軍』でのロンメルの描き方もそうであったように…“反ヒトラー”思想の知人に共感しつつも、“軍人”という立場として苦悩するという体…
戦後間もないこの年代の映画は、戦中を知る俳優陣の所作などからも、その名残を垣間見ることもでき、また実物品なども使用可能な時代でもあり、CGやVFXなどといった技工で精巧に描く現代の戦争映画にはない雰囲気を感じることができる。
劇中に登場するUボートも、撮影用のセットやミニチュアなどではなく、映画撮影に際し、戦中にスペイン海軍に譲渡された実存艦(U-573:VII C型)を借り受けたのだとか!