映画になった海狼たち ① | S A L O N

1939年9月3日、第二次世界大戦の幕が切って落とされたその日…Uボート(U-Boot:Unterseeboot)乗組員達の戦いもまたアイルランド沖から始まった。
その後、戦いの場は大西洋を中心に、北は北海、南はインド洋に至る。
1942年1~4月の間には、前年の12月に参戦した米国水域(フロリダ沖、カリブ海、メキシコ湾にまで及ぶ)で『太鼓の響き(Paukenschlag)作戦』を決行し、115万tの戦果もおさめた。

 

潜水艦隊(群)を一任されたカール・デーニッツ海軍少将(当時)が考案した…複数の艦(Uボート)が協同して敵輸送船団を攻撃するという、狼の狩りに見立てた「群狼作戦(Wolfsrudeltaktik)」という戦術をとったことから“深海の狼”とも呼ばれ恐れられた。
 

船団攻撃任務につく彼らの一回の航海期間は魚雷を撃ち尽くしたり、任務遂行に支障をきたす程の損傷の無い限り約60日、その後の修理・点検の間の約40日が休暇にあてられた。

 

映画『U・ボート(Das Boot)』の劇中…出港間もない艦上で、従軍記者の海軍少尉が乗組員たちの写真を撮っていると、艦長が彼に「帰港時の彼らを撮りたまえ…髭面になっている…」と語る場面↑がある。
二ヶ月間の航海中は貴重な水を無駄に出来ず、髭を剃ることもままならない(真水は一日一人5リットルが限度)…従って、皆一様に髭面になる…勿論、艦長とて例外ではない。

 

だが、1942年を境に、大西洋でのUボートは苦しい戦いを強いられるようになる。
1943年のトータル戦果は240万トンと、その前年の半分にも達していないのにもかかわらず…Uボートの損失は、前年の88艦から一気に3倍近くの245艦にまで増加していた。
これは連合軍側が船団護衛の改善・強化をしてきたことに加えて、長距離哨戒機の導入、またUボートが連合軍側のS波電探を探知出来ないこともそれに拍車をかけていた。
そのため、もはや大西洋にはUボートにとって安全な海域はなくなりつつあった。
1944年になっても状況は変わらず、それどころか悪化の一途を辿り…商船1隻を沈めるに2艦のUボートが沈む計算となる状況にまで追いやられているほどだった。
1939年に57艦から始まったUボート(大戦中に1,131艦建造)は、連合軍側に対し、682護衛船団に対する攻撃で1,736隻、単独航行による商船605隻など計2,785隻(約1,500万t)、戦艦3隻、空母3隻を含む263隻(計575,143t)の軍用艦艇を撃沈しているが…
その代償はUボート743艦(765艦とする資料もある)の損失と、何より将来のある若者たち27,435名にも及ぶ尊い人命であった。
死傷率は63%(捕虜も含めると73%)にも及び、数値的には全軍のなかで最も高い死亡率となる。

 

ところで、『Das Boot』劇中のUボートの艦橋には“笑う鋸鱝”と呼ばれるマークが付いているが、これは第9潜隊のマークである。
 

 

この映画の“艦長”はじめモデルになったのは、ハインリッヒ・レーマン・ヴィーレンブロック海軍大尉(最終階級:海軍中佐)乗艦のVII C型“U-96”で…↑の劇中の艦もVII C型のようである。

 

ヴィーレンブロックは1940年9月14日付でU-96を就役、1942年4月1日までこの艦の艦長を務めた。
その就役中の1941年2月26日付で騎士鉄十字章を、同年12月31日付で全軍第51番目の柏葉章を受章している。
1942年4月から陸上勤務となり第9潜隊司令官(ブレスト)、1944年12月1日付で海軍中佐に昇進、第11潜隊司令官(ベルゲン)を歴任した。
U-8で0回(0日)、U-5で1回(16日)、U-96で8回(267日)、U-256で1回(44日)の出撃で、25隻撃沈(計179,125t)、2隻大破(計15,864t)の合計194,989tのスコアをあげている。

 

 

Uボート(独題:Das Boot/英題:The Boat)』(1981年)

 

ローター・ギュンター・ブーフハイムが大戦中、映画同様に、ヴィーレンブロックのU-96に海軍戦時特派員として同乗して取材した経験などを基に書かれた…戦争文学の名作とも評される『Das Boot』を原作とし、ウォルフガング・ペーターゼンが監督・脚本を手掛けた(TV)映画『Das Boot』。

 


 

当初はテレビシリーズとして製作されたが、1981年に映画版に編集され公開された。
そのリアルな描写は、Uボート(潜水艦)モノとしては勿論、戦争映画としても、今尚、無二無三な作品と言っても過言ではないだろう。

因みに、U-96は、1945年2月15日をもって廃艦となり、ヴィルヘルムスハーフェンにおいて停泊中であったが、最後は…これも映画同様に、3月30日の米第8空軍による空爆で撃沈されている。

 

 

Uボートの乗組員は、その過酷な任務に耐え得る健康な肉体と…何より強い精神力・忍耐力を要求されるため、原則として志願者のみを採用していた。
しかし、1943年以降は損害の増大に伴ない兵員の補充が難しくなり、年端のいかない…訓練もそこそこの若者達が投入されることとなる。
映画『U・ボート』の先程の場面はこう台詞を続けている…
英軍は新聞を見たら恥じ入るぞ…ケツの青いガキを敵にしているとな…私は老人になった気分だ…子供十字軍さ…


ヴィーレンブロックの乗艦したU-96の艦橋正面には“荒ぶる雄牛”と、その右隣に“笑う鋸鱝(Der lachende Sägefisch)”のマークが描かれているが…
後述するが、この“荒ぶる雄牛(Schnauben Stier)”は第7潜隊のマークとなっている。
既記した如く、“笑う鋸鱝”は第9潜隊のマークであるから、なぜ両潜隊のマークを付けているのかと疑問に思われるかもしれない。
この“笑う鋸鱝”は元々ヴィーレンブロックの個人マークであり、彼が第9潜隊司令官に任官したことで第9潜隊のマークとして採用されている。

 

この写真は、第9潜隊司令官(海軍少佐当時)のヴィーレンブロック(左)とヨハン・ハインリヒ・フェーラー海軍大尉(右)のツーショット。
奇しくも、このフェーラーもまた映画『ラストUボート(The Last U-Boat )』をはじめ数々の著作などでも取り上げられるU-234(XB型)の艦長として、その名を知られている。

 

フェーラーは1944年3月2日付でU-234を就役。
1945年2月28日まで第5潜隊所管のもと試験運航などを行った後、3月1日付で第33潜隊に所属替となり、3月24日にキール港から日本に向けた輸送任務に就いている。

 

U-234は、1943年12月23日に進水。
これはフェーラーがU-234を就役して間もなくの1944年3月にキール港において撮られた。
連合国軍の空襲に備えて偽装を施しているようである。
 

艦番号1番違いの同一艦型


このU-234には、ドイツで潜水艦建造を学んでいた友永英夫海軍技術中佐、イタリア(降伏後の拠点はスウェーデン)でジェットエンジンについて学んでいた庄司元三海軍技術中佐の他、駐日ドイツ大使館附空軍武官として赴任するウルリッヒ・ケスラー空軍大将、海軍艦隊附軍法会議判事カイ・ニーシュリング、さらに電波兵器の専門家ハインツ・シュリッケ博士、Me262ジェット戦闘機技術者アウグスト・ブリンゲヴァルトといった面々も同乗し、分解済みMe 262ジェット戦闘機の部品・設計図、「U235」と記載された“酸化ウラン”560㎏など240tにも及ぶ重要な軍事機密も積載して日本に向け出航した。
※U235:広島に投下された原子爆弾にも用いられた”ウラン235”。

 

※【上左】1942年秋、ブレーメンにあったフォッケウルフ航空機製造株式会社を視察した際に撮られた庄司元三海軍技術中佐(右側の丸眼鏡の人物)の写真。
中央の人物がクルト・タンク(Kurt Waldemar Tank)、左側は吉川春夫海軍技術中佐。
庄司と吉川は“広海軍工廠”の頃からの仲であり、吉川はドイツの技術院に派遣されていた。

U-234は、1945年3月24日、キール軍港を出航。
3月29日、ノルウェーのホーテン沖で新型のシュノーケル装置の訓練中にU-1301と接触事故を起こし、燃料タンクなどを損傷。
その修理のためノルウェーのクリスチャンセンに向かうこととなった。
その修理に二週間程を要することとなり、この遅れが庄司、友永の運命の分れ目だったといえるのかもしれない。
…というのも、このクリスチャンセンの造船所にもレジスタンスの活動家たちが潜伏し、U-234の情報は勿論、ドイツ軍の情報は逐一英国側に報告されていた。
4月16日午後、U-234はようやく再度出航。

ヨーロッパの海域はすでに危険水域となっており、日中は潜航を続け、夜間になって漸く海上を航行し距離を稼ぐしかなかった。
潜行中も敵の電波探信儀に捕捉されないようにするため、航行速度は僅か3.7km/h程だったという。
ドイツから日本に向けての航海は…一旦ペナンに入港するにも約28,000kmの距離に100日以上を要し、慎重に行われたにも関わらず、その成功率は25%にも満たないものだった。

北大西洋を大きく迂回した航路を取ったU-234がカナダのニューファンドランド島東約900km沖に達した5月10日…
無電によりドイツが既に降伏したことを知らされた。
これにより、降伏したドイツ側乗組員たちと、まだ連合国側と戦争状態にある日本…庄司、友永らとの温度差が一気にひらき…
両名の行動は警戒をもって対処されることとなったが、艦の破壊活動などをしないことを条件に監禁は解かれた。
庄司、友永が携行していた機密書類や設計図などを海に破棄。
ケスラーは、南米の中立国アルゼンチンに向かうことを主張し、艦は一時、南米に向かった。
だが、多くの士官がこれに反対した。
デーニッツ(大統領)からの無電は、「降伏命令に従うこと及び無傷で艦を明け渡すこと」を命令した。
5月14日、北大西洋上の通称“フレミシュキャップ(Flemish Cap)”の東海上にて、拿捕命令を受けた米海軍の護衛駆逐艦サットンに停船を命じられ、フェーラーは乗組員たちの身の安全を優先し、米軍に降伏することを決心。
その頃、庄司、友永と同室だったフリッツ・フォン・ザンドラルト空軍中佐が、ベッドに横たわって眠る両名の異常に気付き、艦長、軍医に知らせる。
二人は捕虜となることを潔しとせず、ルミナール(バルピツール酸系催眠鎮静薬)の大量摂取により服薬自決を図った。
館長に宛てた遺書には、二人の遺骸は水葬に付して欲しい旨、日本に自分たちの死を速やかに報告して欲しい旨…
最後にこれまでの感謝と御礼、貴艦の幸運を祈るとの文面で閉じられていた。
(遺書の日付は5月11日…二人は、この時点で既に覚悟を決めた。)
米軍側に無用な嫌疑を与えぬよう夜間のうちに、ハンモックのキャンバス地に包まれた二人の遺体は、U-234乗組員たちの敬礼に見送られ、暗い海中へと消えていった。

5月15日、U234の乗組員たちは操船要員を除く全員が退艦し、米国ニューハンプシャー州のポーツマス海軍基地に向け回航。
U-234の最期は、標的艦として米潜水艦グリーンフィッシュからの雷撃により、1947年11月20日、ケープ・コッド沖北東およそ40海里の海上にて撃沈されている。

 

投降の際のU-234。
フェーラーがキャップ姿の人物(護衛駆逐艦サットン艦長?)と言葉を交わしている。

 

ラストUボート(The Last U-Boat)』(1993年)

映画『ラストUボート』は、アメリカ・ドイツ・オーストリア・日本による共同制作の映画…というよりドキュメンタリー・ドラマ、いわゆるドキュドラとして、日本では1993年1月2日の正月特別企画としてNHKでオンエアされた35mmフィルム作品。

 

 

ドキュドラということもあり、概ね既記した如くの史実に即したストーリーとなっている。
ただ劇中で、U-234を米海軍護衛駆逐艦サットンよりも先に捕捉したとされる英国海軍駆逐艦リバプール(※実艦は軽巡洋艦)を逆に撃沈するという作話的な展開となっているが、これに関しては“爆雷”“息詰まる潜行”そして“魚雷発射”という潜水艦映画の見せ場でもあるシーンを盛り込みたかったからなのか?どうかまではわからないが、史実とは異なる。
実艦のタウン級軽巡洋艦リバプールは、この時期スコットランドのロサイス英国海軍造船所において修理中であり、終戦間近に修理を終え、その後、地中海に展開している。
劇中では小林薫 演じる丸眼鏡の“巽中佐”が庄司元三…大橋吾郎 演じる“木村中佐”が友永英夫をイメージしていると思われる。
実際にU-234に乗艦した際…庄司は42歳、友永は36歳と、風采的にも両名とも納得のいくキャスティングではないだろうか。
何といっても、小林薫の“海軍第一種軍装…登場のシーンでは士官万套”姿が実に様になっており…また日本側の他の俳優陣では、海軍大将役の児玉清も相変わらず“海軍”軍装が様になっている。

 

ドイツ側の俳優陣では、“ゲルバー艦長”を演じているウルリッヒ・ミューエは、当方的にはかなり好きな俳優である。
2003年公開の篠田正浩 監督の映画『スパイ・ゾルゲ』では、駐日ドイツ大使オイゲン・オット役を演じているのだが、ドイツ軍将校役…ましてや大柄なオットを演じるには少々小ぢんまりとし過ぎの観は否めないが…
その前年(2002年)に公開の映画『ホロコースト アドルフ・ヒトラーの洗礼(原題:Amen.)』で、医師でありSS准将でもある狡い“ドクター”ことクルト・ゲルシュタイン役を演じた際の黒服姿のミューエの風采、雰囲気を見た時に…ヨアヒム・パイパーを扱った映画などがあったならば、是非ともミューエにパイパー役を演じて頂きたい…などと思ってしまったくらいである!

また、これは未見なのだが…1989年の映画『Das Spinnennetz』でのテオドーア・ローゼ役の際の、帝政ドイツ軍の少尉という設定の軍帽姿(下右)に少し加工を施してみたうえで比べてみたりすると、より一層ご納得頂けるのではないだろうか。

2006年公開の『善き人のためのソナタ(原題:Das Leben der Anderen)』では数々の男優賞を獲得。
その直後に胃癌を発症、ベルリンから西に120km程のヴァルベックで静養していたが、残念ながら2007年7月22日に急逝している。 (享年54歳)

 

オリジナル版は英語での台詞となっているが、ドイツ語の吹き替え版『Das Letzte U-Boot』で見るとなお一層の雰囲気が味わえる。

因みに、そのDVD版では「Geheimmission Tokio」というサブタイトルがつくようだが、無理やり邦題的にすれば「マル秘特命“東京”」とでもすればよいだろうか?
まぁ、ストレートに「シークレット・ミッション“東京”」でもいいのだろうが…

 

「映画になった海狼たち ②」に続く…