パリを燃やさなかった将軍 | S A L O N

今回は、パリの解放(Libération de Paris)という同題材を描いた新旧二作品について。

ただ映画の内容・批評等については私如きが語るまでもなく少し検索をすれば他所でもご覧になることも出来ようかと思うで、ここでは紹介にとどめ、私なりの視点でサラッと触れるこにしようかと。


先ず一作目は、仏レジスタンス(共産主義者とドゴール派)と自由フランス軍による“パリの解放(Libération de Paris)”を描いたラリー・コリンズドミニク・ラピエールの共著本『パリは燃えているか?』を、ルネ・クレマンが監督、ゴア・ヴィダルフランシス・フォード・コッポラが脚本を担当した1966年制作の米・仏合作の映画『パリは燃えているか?』。


パリは燃えているか?(英題:Is Paris Burning? / 仏題:Paris brûle-t-il ? / 独題:Brennt Paris?)』(1966年)

映画『パリは燃えているか?』のドイツ版パンフレッのト表紙

 

制作スタッフの顔ぶれも豪華だが、その俳優陣もまた…ジャン・ポール・ベルモンド、アラン・ドロン、カーク・ダグラス、イヴ・モンタン、グレン・フォード、オーソン・ウェルズなど、他にも多くの世界的スター達が共演している。

 

 

そして、この映画のキーパーソンともなるディートリヒ・フォン・コルティッツ将軍役を好演しているのが、ドイツの国民的映画俳優であるゲルト・フレーベ
『007 ゴールドフィンガー』でのゴールドフィンガー役を演じていると言った方がピンとこられる方の方が多いかもしれないが…
 

ただ私的には、フレーベの出演映画で一番印象に残っているシーンといえば…『史上最大の作戦』での冒頭シーンで、いつものように朝の海岸線を呑気に馬に乗り、コーヒー缶を背負わせたロバを引いていると…目の前にノルマンディの海上を埋め尽くすほどの連合軍の上陸用舟艇群を発見し、唖然とするカフィークラッチュ軍曹役(↓)であろうか…
ほんのちょい役にも関わらず…何故かとても印象深い。

 

 

因みに、“カフィークラッチュ”はKaffeeklatschという綴りになるのだが…これは独語で“コーヒー・ブレイク”を意味する。
ところが、何故かここ最近のクレジットでは…この名前が、いつの間にか“カフィーカンネ”…綴りで言えばKaffeekanne(独語で“コーヒー・ポット”の意味)に変名されている。

そのフレーベ…戦時中はN.S.D.A.P.(国家社会主義ドイツ労働者党)の党員でもあったようだが、その肩書きを活かしユダヤ人達のドイツからの国外脱出を援助し、ウィーンにおいて匿っていたという経歴もあるのだとか。
そのうちのユダヤ人家族が、フレーベに救助されたことを明らかにするまで、“元ナチス党員の俳優”とされていたために『007 ゴールドフィンガー』の上映がイスラエル国内では禁止されていた。

 

本題に戻し、フレーベが演じたディートリヒ・フォン・コルティッツ将軍とは勿論、実在の人物である。

 

ディートリヒ・フォン・コルティッツ陸軍歩兵科大将は、1894年11月9日に上シレジア地方(現ポーランド領)のヴィーゼ・グレーフリッヒに生まれている。
1914年3月6日付でザクセン第8ヨハン・ゲオルク王子第107歩兵連隊に、士官候補生として配属。
同年7月に勃発した第一次世界大戦では西部戦線に従軍し、9月28日付で陸軍少尉に昇進。
戦後もヴァイマール共和国軍に残り…陸軍中尉~陸軍中佐と、順当に昇進を重ねている。
そして、第二次世界大戦が勃発。
1940年5月10日に始まったオランダとの戦闘では、コルティッツ(陸軍中佐)率いる第16空輸歩兵連隊/第3大隊はロッテルダム市街地中心部を横断するように流れるニューウェ・マース川のヴィルヘルム橋の空挺強襲・占拠作戦に投入され、この時の戦功により1940年5月18日付で騎士鉄十字章を受章している。
同年9月10日付で第16空輸歩兵連隊指揮官に就任。
1941年4月1日付で陸軍大佐に昇進。
東部戦線では、1942年6月のセヴァストポリ攻略戦に参加し、ルーマニアのプロイェシュティにある油田確保に貢献した。
1942年9月1日付で陸軍少将に昇進。
1943年3月1日付で陸軍中将に昇進。
1943年3月5日~10月1日:第11装甲師団司令官としてクルスク戦にも参戦。
1943年10月1日~11月15日:第48装甲軍団副司令官に任官。
1944年3月1日~4月16日:第86装甲軍団司令官に任官。
(※アンツィオ、メッツ、モンテ・カッシーノ、ローマ南部に投入される。)
1944年6月15日~7月3日:第25軍団司令官に任官。
1944年8月1日付で陸軍歩兵科大将に昇進。

いよいよ、映画『パリは燃えているか?』に描かれているラストシーンへと話は展開していく…
1944年8月7日午後12時半からの総統大本営“狼の巣(Wolfsschanze)”での戦況会議に出席を命じられたコルティッツは、そこでヒトラー総統により大都市パリ圏防衛司令官に任命される。
コルティッツには、ドイツ国防軍の最高司令部(OKW)からパリの死守が厳命され…
レジスタンスによるテロやサボタージュの阻止、パリ市内での市民蜂起・暴動発生時の鎮圧、セーヌ川に架かる45橋の爆破(1944年8月15日まで)、パリの工業中心地、北東部への爆撃などの命令が言い渡された。
8月9日付でパリに着任すると、リヴォリ通りに面するパリ最古の最高級ホテル“ル・ムーリス”に司令部が置かれた。
 

 

パリでは8月15日から始まったストライキに続き、18日からのゼネストは市内全域の労働者に広がっていった。
ついに、8月19日午前7時、フランス国内軍(FFI)主導のもとパリ市内のレジスタンスが蜂起を開始。
市内各所では膠着状態が続いていたが、コルテッツも市内兵力をもって本格的な鎮圧に乗り出すべく、20日には中立国のスウェーデン総領事ラウル・ノルドリンクを通して…
「攻撃を停止しなければ、パリを空襲し、本職に与えられたパリ破壊命令を最大限に実行する用意がある」との最後通告を行なっている。

 


パリを取り巻く状況もこうした動きに連動し、連合国軍内部でもそれぞれの思惑が錯綜しつつもパリ進軍が開始された。
それに伴いパリ防衛が不可能であると考えたヴァルター・モーデル陸軍元帥は、パリの東と北まで防衛ラインを下げることを具申するも、あくまでもパリ防衛に拘るヒトラーに却下された。

パリではFFIと防衛軍による散発的な戦闘がみられるも、休戦状態は概ね維持されていたが…
ついに、以下のような1944年8月23日午前11時付“国防軍最高司令部/国防軍作戦部通達 44年第772989号”…いわゆる総統指令が発令される。

橋頭堡としてのパリ防衛は軍事的・政治的に重要である。
この地を失うことは北方沿岸線全域のみならず、その英国への長距離攻撃(爆撃)の基地をも失うことである。
これまでの歴史をみても、パリを失うことは全フランスを失うことを意味する。
総統閣下はパリに非常戦をはるべく、西方軍総司令官に援軍要請を強くご命じになられた。
都市において蜂起がみられた場合は、首謀者の摘発および必要に応じ潜伏ブロックの解体を断固執行すべきである。
セーヌ川に架かる橋は、解体のための準備もしなければならない。
パリが敵の手に落ちる場合は焦土と化さねば許可しない。


難色を示すコルテッツに対しモーデルも総統命令遂行を厳命するも、都市破壊は行われることはなく…
8月25日、米第4歩兵師団司令官レイモンド・バートン少将麾下の第12連隊およびフィリップ・ルクレール少将の率いる仏第2機甲師団が北進(主力)・南進の二部隊に分かれ、パリへ向け進軍を開始した。

正午には、シーツで急拵えされた“トリコロール”がエッフェル塔に掲げられた。
因みに、この旗を掲げたのは…1940年6月30日の“パリ陥落”の日に、ドイツ国旗(旗)を掲げるためフランス国旗を下ろすことを命じられた消防士だったのだとか…
午後1時10分、ホテル・ル・ムーリスにフランス軍のアンリ・カルシェ中尉らが突入したのを機にコルティッツはこれを降伏の機会と考え、降伏する旨を伝え、司令部を武装解除した。
コルティッツは仏第2機甲師団の司令部の置かれたパリ警視庁に護送され、午後3時30分に降伏文書は調印された。

 

 

コルティッツが降伏命令を各部隊に発令したことで、パリ市内のドイツ軍部隊は午後7時35分までにはほとんど降伏し、パリは事実上解放された。

 

1944年8月25日の投降後にルクレール少将、バートン少将と面会するコルティッツ

 

武装解除し投降するドイツ軍将兵たち

結果的に、ヒトラーからの焦土命令に従わなかったコルティッツは…後に“パリを救った人物”と称されるようになるのだが、既に破壊命令を遂行出来得る状態ではなかったというのが正直なところで、コルティッツにとっては、敗戦後を見据えた交渉の切り札としていただけではなかったのかともされている。

一方、パリ解放が現実となろうとしているにもかかわらず、一向に焦土作戦開始の一報が入らぬことに苛立つヒトラーは国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル陸軍上級大将に三度『Brennt Paris?』(パリは燃えているか?)と怒鳴ったという。
因みに、劇中では既に主のいなくなった司令官執務室の受話器越しに?…「Brennt Paris?」と叫んでいる場面でエンドロールとなる…

 

この『パリは燃えているか?』は、3時間弱(173分)という長時間の大作になるので、是非お持間の許す時にでも、じっくりご覧頂ければと思う。

 

二作目は、ドイツの映画監督、脚本家フォルカー・シュレンドルフの2014年制作『パリよ永遠に』。

 

パリよ、永遠に(原題:Diplomatie)』(2014年)


シュレンドルフは、代表作『ブリキの太鼓(原題:Die Blechtrommel)』(1979年)をはじめ、『Der Unhold(邦題:魔王)』(1996年)、『 Der neunte Tag(邦題:9日目)』(2004年)や『 シャトーブリアンからの手紙(独題:Das Meer am Morgen)』(2011年)、そしてこの『パリよ、永遠に』など、ナチス・ドイツ期を題材とした映画に力を入れているように思う。
ドイツに生まれ、17歳の時に一家でフランスに移住、パリで学び…その後、映画の道に進んだシュレンドルフは、ドイツ人の血と…フランス人としての目をもって…特に、“パリ陥落”から“パリ解放”までの、フランスにおける独仏の人間模様を描くことには人一倍の思い入れをもって向き合っているのだと思う。
70歳を過ぎてからメガホンを握った『 シャトーブリアンからの手紙』と『パリよ、永遠に』には、特にシュレンドルフの…残しておきたい、伝えておきたい想いが込められているのようにも思える。

 

 

原作は、シリル・ゲリーによる同名の戯曲『Diplomatie(≒外交』(2011年)。
戯曲ということで、これまでに舞台上演なども数多くされている。

 

劇中で主演を務めた二人…スウェーデン総領事ラウル・ノルドリンク役のアンドレ・デュソリエとディートリヒ・フォン・コルティッツ将軍役のニエル・アレストリュプは、舞台上でも同名役を演じていただけあって、映画でも息の合った名演ぶりを見せている。
元々が舞台のための脚本ということで、1944年8月25日の未明から“パリ解放”までの出来事が…例えるならば、三谷幸喜の脚本ドラマよろしく…パリ防衛司令部が置かれているホテル「ル・ムーリス」のコルティッツの(ほぼ)スイート・ルーム(執務室)を中心に展開していく。
『パリは燃えているか?』が、“8月25日”を俯瞰的に描いているのに対し、この話は、ホテルの一室で繰り広げられるノルドリンクとコルティッツの“駆け引き(外交)”…人間模様を、主体的に…テンポよく描いている。

 

 

実際には、8月22日の段階で、コルティッツの方からノルドリンクを引見している。
これまでヒトラーに忠臣的な将軍だったコルティッツでも、パリの破壊には懐疑的であり、これをなんとか止めさせたいとは思うものの…
命令を実行しなければ、単に自身が解任されるだけのことであり…
しかも、家族連帯責任懲罰法(Sippenhaft)により、家族にも罪が及ぶこととなる。
そこで、米仏軍の即時介入という絶対的な既成事実によってパリ破壊を回避させるという提案を持ち掛け、ノルドリンクに米軍司令官に交渉の仲介を要請し、ノルドリンクもこれを了承した。
ただ、これは反逆行為に当たる危険な交渉であり、水面下で行われたことは言うまでもない。
従って、表向きは粛々と破壊準備を進めつつも、破壊指令は先延ばしして、米仏軍の突入までの時間稼ぎをしている。
コルティッツは通行許可証を発行、ノルドリンクの実弟ラルフ・ノルドリンクらが急ぎ、この要請を米軍側に伝えに向かった。
第12軍集団司令部のオマール・ブラッドレー大将にも伝えられということである。
ただ、このコルテッツの要請によってパリ進軍が開始されたというわけではなく、あくまでも戦局のなかでの一助としての意味合いである。
先にも記したが、この要請が、戦後を見据えた担保だったのか否かは別にして、米仏(殊に米)側にしてみても、美談とすることにより、パリ解放をよりセンセーショナルに演出するために利用したと言えなくもない。

 

劇中、SD(SS保安情報部)のSS准将とSS少尉が司令部を訪れるシーンがあるが…
実際も、ルーブル美術館の収蔵品の何点かをベルリンに持ち帰るようにとヒムラーから命令を受けた…おそらくSD(3c部)の部員4名が、8月23日に来訪したようである。

映画では、ノルドリンクの一枚上の“駆け引き”に、次第に術中に嵌っていく様子が…
こうした映画にありがちな、愚かで悪列な“ナチ”という体で描かれてはおらず、威厳を保たせたうえでの心の葛藤として描いている点がよい。
また、英語圏の映画だと、全て英語で語られそうだが…
独語の話せなかったノルドリンクとのやり取りは仏語…ドイツ人同士のやり取りは独語と、両国語を使い分けているところもよい。
いずれにしても、多少の設定は変わってはいるが、映画としてはなかなか面白く…83分という上映時間も、『パリは燃えているか?』に比して90分も短く…当方的には、このくらいが間延びせず見られて丁度良い。


1947年4月に釈放された(実際の…)コルティッツは、妻のフーベルトとバーデン=ヴュルテンベルク州に属するバーデン・バーデン近郊のリヒェンタールに移り住んだ。
1966年11月5日、持病の肺気腫が悪化しバーデン・バーデン市内の病院にて亡くなっている。 (享年71歳)
72回目の誕生日を目前に、そして奇しくも映画『パリは燃えているか?』の公開に合わせたかのような死であった。
(公開日:(仏)1966年10月26日、(米)1966年11月10日、(日)1966年12月21日)

コルティッツの葬儀にはドイツ連邦国軍の将官・将校に加え、マリー・ピエール・ケーニグ大将をはじめフランス軍関係者も参列し、軍楽隊を先頭に長い葬列となった。

 

歴史の神様がいるとするならば、時に気まぐれとも思えるような人選をなさることがあるが…
今回紹介したコルティッツは、その眼鏡にかなったのかもしれない。
確かに軍人として…とりあえずは満足すべき階級…陸軍歩兵科大将にまで昇進し、軍人として栄誉ある、騎士鉄十字章も受章したにせよ…
コルティッツのそれまでの経歴は…ヴァイマール共和国軍での陸軍中尉昇進から陸軍歩兵科大将にまで至る正式昇進日付は全て〇月1日付という…まさに判で押したような順当な昇進であり…大きな功績もないかわりに大きな失敗もない分、決まったレールの上で定例的な昇進を重ねていたといっても過言ではないだろう。
特に目立つわけでもなく、特に武に優れたわけでもなく…また知に優れたわけでもなく…
ごく平凡な…とは失礼かもしれないが…
そのまま行けば…30年強におよぶ軍歴において、歴史に名を刻むことは最後までなかったのではないだろうか。
コルティッツのみならず、ごく平凡な“大将”…たとえ、もっと偉かったとしても…そのほとんどは歴史に名を刻めるものではないが…
軍歴最期の最後…ほんの16日間が決め手となり、コルティッツは歴史の表舞台に引張り上げられることとなった。
フランスでの、その幕引きの演じ方を…後世からすれば…誤らなかったが故に、現代もこうして語り継がれる“有名”将官にまでなれたのである。
既にパリを焦土と化す程の余力がなかったとはいえ…また自らの保身も考えなかったとは言えなくはないにせよ…結果的として、コルティッツの下した決断が、今なお続くパリの伝統と歴史を多少なりとも守ったことには違いはない。
歴史の神様がお決めになられたシナリオに自我を張らずに素直に従うような人物だったなら、本当は他の人物でもよかったのかもしれないが…それは、まさに神のみぞ知る…である。