人間の翼 最後のキャッチボール | S A L O N

人間の翼 最後のキャッチボール』 (1996年)



昨夏、ひょんなことから、ある方からこの映画(DVD)を薦められた。
牛島秀彦著『消えた春~特攻に散った投手・石丸進一~』を原作とした映画『人間の翼 最後のキャッチボール』 (1996年)は、当初は東映の配給となる予定であったようだが、紆余曲折があって自主映画になってしまったという経緯からも、全国公開ではなく小規模な上映会が開催されての上映ということで、残念ながらこの作品自体があまり周知されていないようである。
(※原作者の牛島秀彦は石丸進一の従弟でもある)
私もご多分に漏れず、“特攻に散ったプロ(職業)野球選手がいた”という程度の知識しかなく…
現在の“G”にはほとんど興味がないと言ってもよい程だが、小学生の頃は…現役だった長島の大ファンだったこともあり、やはり巨人!
そのため、戦争で命を落とされた諸選手がいたことは知ってはいても、沢村栄治や吉原正喜の逸話などを見知る程度であり、ましてや中日(名古屋軍)の選手だった人物の映画の有無など考えてもいなかった。
大手の配給会社による戦争映画…こと“特攻+野球”モノというのは、これまでもあったが…
どれもピンとくるものはなく、然るに、この映画も同様であろうと思っていた。


主役の石丸進一役は主演初作品となる東根作寿英(とねさく としひで)が好演している。


ヒロイン役の櫻井圭子役も山口真有美という、ほとんど無名の女優が演じている。
進一が愛した圭子は、当時人気のあった女優の田中絹代に似た女性だったようである。
田中絹代という女優は、決して飛びぬけて美人でも華があるでもなかったが、その気品のある可憐さが、その時代が求めた女性像にマッチしていたのだろう。
普通に考えれば、流行りのアイドルや歌手、タレントなどをヒロイン役にした方が話題性や興行的には良いのだろうが、“田中絹代”風を体現した配役にすべく無名の山口真有美を抜擢した点は評価したいと思う。


脇を固める出演者たちは、進一の父・金三役に佐藤允(佐賀県出身)、母・ソデ役に馬渕晴子、名古屋軍監督・小西得郎役に誠直也(佐賀県出身)、櫻井文太郎(圭子の父)役に川津祐介、櫻井澄江(圭子の母)役に長内美那子、佐賀商野球部監督・原弁一役に高岡健二など。


因みに、ゴジラ・シリーズでもお馴染みの小泉 博も、進一の出撃前に行われた訓示のシーンにワンカット(台詞なし)だけ岡村基春大佐役として出演している。(手前は飛行長・鈴木 實少佐役の荒谷公之)

この映画は、自主映画故の低予算からか?全編をモノクロ映像にしたことで、チープさのカバーもさることながら、逆に当時の時代感が上手く再現されているように思われる。
監督の岡本明久が原作を読んで感激し、映画化を熱望しただけあって、ある意味、原作および石丸進一という人物をしっかり描き出そうとしていて、この手の映画としては、見終わった後に納得感が残った期待以上の作品だったので、機会があれば、是非ご覧頂ければと思う。



※佐賀新聞には、つい最近も、この映画に関する話題が掲載されていたのだが、残念ながら、既に削除されており…
現在も受け付けているのかは確認をしておりませんが、自主上映に関するお問い合わせ先のページがありますので参考まで…
映画「人間の翼」 最後のキャッチボール


石丸進一は大正11年(1922年)7月24日、佐賀県佐賀市水ヶ江町に11人兄弟姉妹の8番目(五男)として生まれている。
理髪店を営む父・金三(きんざぶ)は、自身が小学校もろくに終えられず文盲だったこともあり、何とか子供達には借金をしてでも真面な教育を受けさせてやりたいとの思いから方々から金を借りまくり、その結果、借金は膨らむ一方となり、それを一機に返済しようと焦って手を出した株でも大失敗をして、石丸家は困窮を極めることとなった。
そんな多額な借金に苦しむ父を助けるために、8歳上の兄(二男)・藤吉は佐賀縣立佐賀商業學校を卒業後、門司鐡道局(硬式野球部)に在籍していたが、昭和12年(1937年)に高給を稼げる職業野球に転身、名古屋軍(現:中日ドラゴンズ)に入団。
昭和11年4月、進一も兄の通った佐賀商業學校(※旧制中学校(5年制)当時)に入学。
学費は藤吉が払ってくれた。
野球部に入部すると忽ち頭角を現し、2年生で既にエースとなり、“石丸のワンマンチーム”とも言われるほどだった。
当時の“甲子園”は各地区ごとの代表校により行われる大会であり、佐賀商業は北九州地区の代表となるために先ず佐賀県内7校による一次予選を戦った。
石丸を擁する佐賀商業は、昭和14年、15年と惜しくも佐賀県大会の決勝戦で佐賀縣立唐津中學校に敗れ、甲子園大運動場(現:阪神甲子園球場)での全國中等學校優勝野球大會(現:全国高等学校野球選手権大会)に出場する夢は叶わなかった。
藤吉が昭和13年の春のシーズン終了と同時に陸軍に召集…中国戦線に送られたこともあり、進一も家計を助けるべく職業野球の道に進むことを決意し、名古屋軍に入れるように計らってもらえるよう血判まで押した手紙を中国にいる兄に宛て送っている。


中国戦線出征中の兄・石丸藤吉

進一からの手紙を読んだ藤吉は、当時の名古屋軍球團代表・赤嶺昌志に手紙を書き、これにより名古屋軍入団の運びとなった。
昭和16年2月、進一は名古屋軍のキャンプに参加するために、卒業を待たずして上京。
(※名古屋軍は名古屋に球場をもっていなかったので、球團事務所は東京・銀座にあった)
球團事務所で出迎えた名古屋軍監督の小西得郎は、継ぎ接ぎだらけの学生服を着た進一を見て「進一君、これからずっと、その服を自分の部屋に飾っておきなさい。辛いことがあったら、それを見て頑張るんだよ。」と声をかけたという。
進一は、小西の言うことを守り、名古屋軍時代ずっと部屋にその学生服を飾っていた。


名古屋軍球團代表・赤嶺昌志(左) 名古屋軍監督・小西得朗(右)

昭和16年度のリーグ戦が開幕。
当初は藤吉の代役として考えられていたこともあり、投手ではなく、二塁手(もしくは遊撃手)としてプレーしたが、進一は腐ることなく、投手としてプレーすることを目指して日々手首を鍛えるなど鍛錬を怠らなかった。
シーズン途中に藤吉が満期除隊により復帰。


職業(プロ)野球初の兄弟プレーヤーとなった石丸進一(左)と兄・藤吉(右)

当時の日本は、日中戦争の拡大・長期化のなか、欧州におけるドイツの台頭により三国同盟、そして自給圏拡大のため南方地域を包含する“大東亜共栄圏”建設…南進政策などの国策が決定し、対米英戦も辞さずの時局にあった。
東京巨人軍の沢村栄治など有力選手が徴兵されることによる戦力低下、選手不足などを懸念した職業野球関係者は、当時、大學・高等學校・専門學校(何れも旧制)などの學生が兵役法および大學令、高等學校令、専門學校令の規定により、大學予科は25歳、大學学部は27歳まで徴集が猶予されていたことに目を付け、選手の多くを大學の夜間部などに在籍せていた。
徴兵逃れのようで気が咎めたが、進一もまた日本大學法文學部夜間部に入学している。
因みに、監督の小西は5月で辞任、本田親喜が選手兼監督として後を引き継いでいる。
名古屋軍の昭和16年度のシーズンは結局、8チーム中6位の成績(37勝47敗)に終わった。
昭和17年のシーズンから、ようやく進一は投手としてプレー。
※初登板は、4月1日に阪急西宮球場で行われた対朝日軍(現:横浜DeNAベイスターズ)との2回戦に先発し、2安打完封勝利を飾っている。
チームは7位と低迷(39勝60敗)したが、先発の軸として17勝19敗…チーム勝ち星の4割強に貢献する活躍をみせた。
昭和18年のシーズンでは、総監督・三宅大輔、監督兼選手・桝嘉一という体制で、東京巨人軍に4ゲーム差と迫る2位(48勝29敗)と大躍進。
進一自身も20勝12敗、防御率1.15と好成績を挙げている。
しかも10月12日、後楽園球場で行われた対大和軍との11回戦では史上13人目(戦前最後)となるノーヒット・ノーランを達成している。

藤吉と進一は、貰った給金を父の借金の返済に充て、特に進一は給金140圓也のうち60圓を送金していたので、合宿所の寮費15圓を差し引いて切り詰めた生活を送っていたようである。
その結果、約3千圓に上る借財は3年間で完済された。


陸軍略帽型の帽子と国防色(カーキ)のユニフォーム姿の石丸進一(昭和18年)

昭和16年(1941年)12月8日、帝国陸海軍は米英蘭など連合国との太平洋(大東亜)戦争に突入。
開戦後半年程の連戦連勝も、翌昭和17年6月のミッドウェー海戦を機に戦局は悪化の一途を辿る。
深刻化する兵力(下級将校)不足の打開策として、軍部は徴兵猶予の規定を取り消すべきだと主張。
昭和18年9月23日、「現情勢下に於ける國政運営要綱」が閣議決定し、これにより學生・生徒の卒業までの徴兵猶予を停止することとされ、同年10月2日に“在學徴集延期臨時特例(勅令第755号)”が公布。
理工医系・教員養成學校以外の(旧制)大學・高等學校・専門學校に在学の満20歳に達した男子學徒にも兵役の義務が課せられた。

 

第1回の出陣學徒壮行会は、同年10月21日に東京、台北(台湾)同時開催。
東京では文部省主催、陸海軍省等の後援で、四谷區の明治神宮外苑競技場で行われた。
東京都、神奈川縣、千葉縣、埼玉縣の各大學、高等學校、専門學校(何れも旧制)の學徒(東京帝國大學以下計77校)ら2万5千名強により行われた。
その後、国内(大阪、仙台、神戸、名古屋、京都、札幌)、国外(京城(朝鮮)、満州國(新京、ハルビン、奉天、大連)、上海)でも順次開催されているが、同年11月28日の札幌を最後に開催されていない。

この日、進一も日本大學の學徒兵の分列行進のなかにいた。
壮行会を終えた學生は、地元での徴兵検査を受けた後、適性と判断された者は徴兵が決定する。
進一は会場となった佐賀高等小學校での検査で「甲種(※)合格」。(※高基準を満たす者の判定区分)   

同年11月13日~23日にかけて第7回職業野球東西対抗戦が後楽園球場と阪神甲子園球場で開催、進一は後楽園球場での第3戦と阪神甲子園球場での第6戦に東軍の責任投手として登板。
第3戦は惜しくも2対3と敗れたが、第6戦は4対0で勝利…東軍は、5勝1敗と西軍に圧勝。
進一の職業野球での最後の登板を有終の美を飾った。

同年12月10日、佐世保の相之浦海兵團に入団。
午後から身体検査と飛行適性検査があり、進一は海軍飛行科に一発合格。
第19分隊第8教班7号に配属され、海兵團での教育訓練を受ける。

昭和19年2月1日付で、第14期海軍飛行専修予備學生として土浦海軍航空隊に入隊。
基礎教育期間中に操縦か偵察かの適性が判断され、同年5月25日をもって基礎教育は修了。
これは当初、6ヶ月の予定だったが、4ヶ月弱という短期間に変更されている。

進一は希望通り操縦に決定し、同5月26日付で鹿児島県の出水海軍航空隊に赴任。
出水での厳しいい速成の飛行訓練が始まった。


面会日に、刀雄(長男)に伴われて佐賀から進一に会いに来た金三、ソデと鹿児島縣川内町(当時、現:薩摩川内市)内の洋食店で食事(海老フライ!)をした後に、写真館で撮った最後の家族写真。(昭和19年7月)

同年9月29日未明、茨城縣友部町(現:笠間市)の筑波海軍航空隊に赴任。
ところが航空滑走路が修理中で使用できないため、そのまま青森懸の三沢海軍航空隊(三沢飛行場)に向かう羽目になる。

同年11月7日付で茨城縣稲敷郡阿見村の霞ヶ浦海軍航空隊に赴任。

ようやく筑波海軍航空隊に再赴任し、同年12月15日付で第14期予備學生は晴れて海軍少尉に任官はしたが、昇級したとはいえ、直ちに第一線に送り出すには練度不足のため、そのまま特修學生として3ヶ月程の練成訓練を受けることとなる。
戦闘機志望の進一は、茨城縣筑波郡谷田部町の谷田部海軍航空隊での中間練習機での後、筑波海軍航空隊に戻り、徹底的に鍛えられた。

昭和20年2月18日、筑波海軍航空隊にも特攻隊編成の内命が下り、全飛行士は非常呼集により講堂に集められた。
司令官の中野忠二郎海軍大佐による、要するに志願者を募る訓示の後、14期は飛行分隊長兼担当教官の高橋 定海軍大尉からの暗黙の“念押し”が告げられた。
その時の状況や雰囲気から、配られた“特攻志願票”「熱望スル 希望スル 希望セズ」のセズを選択することは、むしろ非常に勇気のいることであり、進一も熱望に大きく〇を付けた。
2月20日、志願票の返答を受け、飛行長と各飛行隊長の人選により計84名が指名された。
その内訳は、海軍兵學校出身2名、予科練出身5名、予備學生は…13期24(29)名、14期53(48)名。
因みに、長男や独り子、体調や適性などの面から、特攻隊選抜に惜しくも?辛くも?漏れた者は、制空隊や高射機関銃部隊に転出したりしたようである。
隊員たちには、兵器庫として使われいた木造2階建ての“神風舎”と名付けられた別棟に移動し、“死の突入”のための訓練に入った。
特に14期の新米少尉たちは飛行教程未了のため、速成特攻訓練が行われた。
進一は第三筑波隊に編入。(進一他、14期同期の本田耕一、吉田 信、桑野 実、町田道教、室井国弘)
隊長・西田高光海軍中尉(13期)、小隊長・大木偉央海軍少尉(13期)が教官役。

3月3日、待ちに待った“上陸”(外出許可日、外泊可)で、東京都中野区野方の櫻井圭子宅を訪ねている。
その後、母・澄江の計らいで、圭子と銀座の名古屋軍球團事務所を訪れている。
出迎えてくれた球団代表の赤嶺昌志とマネージャーの小坂三郎に特攻を志願したことを報告。
小坂の「出来ることは何かないか?」に対し、「新しいボールがあったら1個貰えないか…結局、俺の人生は野球だから、ボールは俺の守り神みたいなものだ」と答えたという。
小坂が真新しいボールを手渡すと、ボールの感触を確かめるかのように何度も何度も握り緊めていたという。

3月10日0時8分、第一弾が深川區(現:江東区)北部に投下。
強風にも煽られ、火災は深川區、本所區、浅草區、日本橋區の投下目標地域を越えて、東や南に広がり、下町の大部分を焼き尽くし、死者数10万人以上に及ぶ空前の惨禍となった。
帝都空襲の一報は筑波空にも伝えられ、実家などが焼失した特攻隊員には、家の整理などに当たるため特別上陸が許可された。
3月12日、一時は東京全區が全滅との報もあり、、進一は隊長の西田に頼み込んで、城東區出身の予備学生宅の整理手伝いという名目で特別上陸の許可をもらった。
馬鹿正直な進一は、直に中野に向かわず、一旦、城東區(亀戸)に向かい、そこで運よく三鷹方面へ向かう海軍の軍用トラックに乗せてもらい野方の圭子宅を訪ねている。

3月28日、編成替えにより第八筑波隊に変更。(※メンバーの変更無)
隊長・福寺 薫海軍中尉(13期)、小隊長・一ノ関貞雄海軍少尉(13期)が教官役。
各隊ともに厳しい訓練に明け暮れ、筑波空ではこれまでに工藤典男、井ノ口保規、川口謙吉、鈴木 武の予備學生出身者4名が飛行訓練中に事故死していた。


作戦名の「天」「菊水」の由来は、楠木正成の“菊水”の旗印に込められた「非理法権天」
※非ハ理ニ勝タズ 理ハ法ニ勝タズ 法ハ権ニ勝タズ 権ハ天ニ勝タズ
(天道を欺くことはできないから、天道に従って行動すべきである)

3月26日、米軍を中心とした連合国軍は沖縄本島西方の慶良間諸島への上陸を開始。
同日11時2分、聯合艦隊は「天一号作戦」を発動。
天号作戦の主題は、「先ず航空兵力の大挙特攻々撃を以て敵機動部隊に痛撃を加へ 次で来攻する敵船団を洋上及び水際に捕捉し 各種特攻兵力の集中攻撃により其の大部を撃破するを目途とし 尚上陸せる敵に対しては靭強なる地上作戦を以て飽く迄敵の航空基地占領を阻止し 以て航空作戦の完遂を容易ならしめ相俟て作戦目的を達成す」であったが、本格的な航空攻撃もできないまま、飛行場は占拠され、緒戦にして制空権も奪われた。
4月3日に軍令部、聯合艦隊、現地部隊による協議が行われ、「航空部隊の全力を以て、戦局打開の一大決戦を決行する要あり」との結論に至り、同日、第五航空艦隊司令長官の宇垣 纏海軍中将は菊水作戦を発令。
一方、“特攻”に煮え湯を飲まされた経験を持つ第5艦隊司令長官のレイモンド・スプルーアンス中将は、南九州への戦闘機の大量集結は米艦隊に対する一挙特攻作戦の準備と判断し、4月6日未明に数百機に及ぶ艦載機で各基地に急襲をかけた。
これを受け、同日正午…海軍航空部隊による「菊水一号作戦」、これに呼応して陸軍航空部隊による「第一次航空総攻撃」が発動。
4月6日~11日にわたる特攻作戦が敢行された。
作戦機は海軍391機(※九州373機+台湾18機)、陸軍133機、うち特攻機は海軍215機、陸軍82機(※未帰還機は海軍162機、陸軍50機)…341名が戦死。
以降、以下の如く9波(※陸軍航空部隊では10波)の特攻攻撃を敢行。

4月12日~15日「菊水二号作戦」・「第二次航空総攻撃」
4月16日~17日「菊水三号作戦」・「第三次航空総攻撃」
4月21日~29日「菊水四号作戦」・「第四次・第五次航空総攻撃」
5月3日~9日「菊水五号作戦」・「第六次航空総攻撃」
5月11日~14日「菊水六号作戦」・「第七次航空総攻撃」
5月24日~25日「菊水七号作戦」・「第八次航空総攻撃」
5月28日~29日「菊水八号作戦」・「第九次航空総攻撃」
6月3日~7日「菊水九号作戦」・「第十次航空総攻撃」
6月21日~22日「菊水十号作戦」・「第十一次航空総攻撃」
沖縄戦の終了によって菊水作戦も終了。

この間の米側の物的・人的損害としては、艦船の撃沈26隻、撃破183隻、戦死者2,073名。
特攻作戦の最重要目標である空母は、エンタープライズ、バンカーヒルなど終戦まで戦線復帰ができない程の撃破(大破)に至らしめた戦果もあったが、沈没には至らず。
戦艦、巡洋艦も同様で沈没した艦はなく、撃沈まで至ったのは輸送船、揚陸艦、駆逐艦などであった。

沖縄戦では、海軍1,026機、陸軍886機が航空特攻を敢行し、海軍1,997名、陸軍1,036名が戦死。(※文献により差異あり)


4月13日午後10時50分頃、B29約170機による空襲警戒警報のサイレンが鳴った。
3月10日以来の帝都への大規模空襲で、14日午前2時22分まで約4時間にわたり、豊島區、荒川區、王子區、足立區、滝野川區、本郷區、牛込區を中心に、板橋區、神田區、小石川區、四谷區、淀橋區、杉並區、そして中野區なども被害を受けた。
この空襲で圭子の父・文太郎、弟の武彦、そして圭子が亡くなった。
4月15日朝、進一は、辛くも助かった母・澄江から「ケイコシス スミエ」の電報を受け取り茫然自失となった。

4月25日、茨城縣友部の筑波空から前線基地となる南九州の基地に向け転出命令が下る。
4月26日午前8時、第六筑波隊までの隊員は爆装した零戦(二一型)で直に鹿児島縣鹿屋町(現:市)の鹿屋基地に向かい、第七筑波隊~第一三筑波隊までの隊員は宮崎縣富島町(現:日向市)の富高基地に向け零式輸送機に同乗して転出。(※進一は第八筑波隊)


富高基地に転出の朝、残留組の浅野文章海軍少尉(↑左)の“聖戦の思ひ出”というアルバムに「一筆書いてくれ」と頼まれた進一は…
「葉隠武士 敢闘精神」としたため…さらに「日本野球ハ」と続け…ペンを止めた。
結局、思案したが続かず…絶筆なのだから何かそれらしい文句を書くのだと思っていた浅野は呆気にとられ…
思わず「この期に及んでまだ野球か!」と進一に言うと…「おぅ!俺(おい)の人生には野球しかなかったんよ、そぅ、野球じゃ、俺には野球しかないんじゃ!」と言い放つと乗機に向け一散に駆け去ったという。


「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」という言葉がある。
肥前國佐賀鍋島藩士の山本常朝が“武士としての心得”を口述し、同藩士の田代陣基が筆録し、まとめた全11巻から為る『葉隠聞書』という書物に記されている一節で、武士道の神髄とも受け取られ、戦時中もこの精神を胸に刻み、多くの若者たちが散って逝ったという。
ましてや佐賀城の目と鼻の先に生まれ育った進一の“葉隠武士たる敢闘精神”は一入だったのではないだろうか。
ただ、これは“潔く死ぬことこそが武士道である”と取られがちだが、『葉隠聞書』のなかの別分にて“常住死身”となることと説いている。
つまり、常に死ぬ気で物事に臨むことこそが武士道であり、すなわちこれは生きるための教えなのだと思う。

同26日、富高基地に着任すると第五航空艦隊直属の第七二一航空隊“神雷部隊”(司令官:岡村基春海軍大佐)/戦闘三〇六飛行隊に配属となり、搭乗機を与えられた。
この戦三〇六は、それまでは零戦二一型に二五番(250㎏)爆装を施していたのに対し、零戦五二型丙(および六二型)に倍となる五〇番(500㎏)爆装を施しての出撃だったようである。
これにより零戦本来の運動性は損なわれ、ましてや技量未熟な予備學生たちには尚更だったものと思われる。


第二〇二航空隊司令官当時の岡村基春海軍中佐(右)と飛行長・鈴木 實海軍少佐(左) (昭和18年)

4月27日夕刻、乗機を駆り鹿屋基地に着任。
着任すると同時に3度目の編成替えがあり、進一は第五筑波隊に変更。
進一他、同期の吉田 信(東大)、町田道教(九大)、室井國弘(國學院)、森 史郎(明大)、福田 喬(早大)、中村邦春(京大))
隊長・西田高光海軍中尉(13期・大分師範)、小隊長・岡部幸夫央海軍少尉(13期・早大)。
ずっと一緒だった本田は第六筑波隊に変更になった。


本田耕一(↑右)は、日本大學第三中學校(現:日本大学第三中学・高等学校)在学中、3回(春(昭和13、14年)、夏(昭和13年))甲子園出場。
法政大學に進学し、六大學野球において一塁手として活躍。
昭和20年5月14日午前5時27分、第六筑波隊の爆装零戦にて出撃、種子島東方にて米軍機により撃墜され戦死。(享年22歳)

4月30日夕刻5時、翌朝5月1日の出撃命令が下る。
5月1日朝、前日からの雨は夜半から一層激しくなっていて、一向にやまず出撃は中止。

特攻出撃者は、午前3時に起床し、身辺の整理を済ませ4時に朝食。
5時に表に整列し、野里國民學校の前を抜け、竹林の中の百坪程の広場に並べられた机に向かい、岡村司令の最後の訓示の後、別盃…待機するトラックに分乗して飛行場へ向かうという段取りになっていたようである。

5月に入ると連日のように雨が降り続き、敵艦隊が特攻攻撃の標的内に入らないこともあって出撃延期が続く。
死を覚悟し、張りつめていた気が抜け、極限の緊張と恐怖から解き放たれた特攻隊員たちは、例外なく気の抜けた風船のようになったという。

天候の如何に拘わらず、菊水6号作戦における特攻攻撃敢行が決まった。
これを受け、進一たちに最後の面会の機会が与えられている。
進一は、佐賀の実家の両親に連絡を取り、川内町の洋食店で最後の会食をしている。
母・ソデは終始ハンカチで目を拭い、食事に箸をつけなかったという。

5月10日、第五航空艦隊直属の艦上偵察機「彩雲」が沖縄東方一二〇浬に空母2隻、戦艦4隻を発見。
昼過ぎ、菊水6号作戦の発動と明朝出撃の隊名、隊員の発表があり、進一の隊、そして自分の名前があった。
本田と目が合った進一は、「本田少尉、いっちょやっか!」と、野里國民學校の校庭に出た。
職業野球の剛速球投手と六大學野球の名一塁手とのキャッチボールが始まるとあって見物の人垣ができていた。
進一は、腕も折れんばかりに本田のファーストミットめがけて、名古屋軍球團事務所に圭子と一緒に別れを告げに訪れた折に貰った真っ白なニューボールを投げ込んだ。
最初のうちは「いい球、ストライク!」「ナイスボール!」などと声をかけていた本田も、いつしか精魂込めた進一の球を噛み締めるが如く、黙って捕球を続けていた。
今生の想い出と、無念さと、怨みと、怒りとを一球一球に籠めた全十球の最後の投球。
その一部始終を見ていた報道藩員の山岡荘八(作家)は「十球とも見事なストライクだった」と後年書き残している。

5月11日、この日の鹿屋から沖縄周辺機動部隊に向けて出撃した爆装零戦は…
第五筑波隊:西田高光海軍中尉(〇)、岡部幸夫海軍中尉、石丸進一海軍少尉、吉田 信海軍少尉、室井國弘海軍少尉、町田道教海軍少尉、森 史郎海軍少尉、中村邦春海軍少尉、福田 喬海軍少尉の他…
第十建武隊:柴田敬禧海軍中尉(〇)、田中保夫一飛曹、佐藤敬吉一飛曹、下里 東一飛曹
第六神剣隊:牧野 𦈲海軍少尉(〇)、川野忠邦上飛曹、齋藤幸雄一飛曹、淡路義二一飛曹
第七・七生隊:上月寅男飛曹長(〇)
第六昭和隊:根本 宏海軍少尉(〇)、黒野義一一飛曹
第七昭和隊:安則盛三海軍中尉(〇)、高橋三郎海軍少尉、小川 清海軍少尉、茂木 忠海軍少尉、篠原惟則海軍少尉、皿海 彰一飛曹
…の五〇番爆装零戦計26機


5月14日、本田とともに出撃した第六筑波隊の隊長・富安俊助海軍中尉(13期)乗機の五〇番爆装零戦(六二型)。
背面飛行のまま、正規空母エンタープライズの直上より前部エレベーターに突入。
エンタープライズは大破炎上、修理のため本国へ回航され、太平洋戦争に再戦不能となった。


戦艦ワシントンから撮影された富安機突入直後の写真。
その爆風により、前部エレベーターが120m程上空にまで吹き飛ばされている様子がわかる。


富安はこの戦功により二階級特進となり海軍少佐に(死後)特別昇級。
この富安も百田尚樹著の小説『永遠の0』の“宮部久蔵”のモデルのひとりのようである。



午前5時4分、先発の第六神剣隊4機出撃。
続いて、第六・第7昭和隊8機、第十建武隊4機、第七・七生隊1機および“桜花”懸吊した一式陸攻3機も出撃していった。

6時55分、西田隊長機の滑走路に入り、第五筑波隊出撃の時が来た。
進一は、愛用のグラブと真新しいボール、佐賀の叔母・牛島幾江と出撃の際は持参すると約束したコンパクト、軍刀を持って搭乗した。
そして、その飛行服の胸ポケットには圭子の写真をしっかりと忍ばせていたという。
「発進!」と、滑走路に進みかけた時…
進一は、飛行帽の上から巻いていた“忠孝”の二文字が書かれた鉢巻をほどき、それにボールをぐるぐる巻きにすると、キャノピーを開けるなり地面めがけて、想いを振り切るが如く、力一杯投げつけ、そのまま飛び立っていった。


桜花は、機首部に大型の徹甲爆弾を搭載した小型(全長6.066m、全幅5.12m)の航空特攻兵器。
母機となる一式陸上攻撃機(一式陸攻)に懸吊して、目標付近で母機から切り離し、固体燃料ロケットを作動させて加速し、敵艦船に搭乗員もろとも体当たりする。
航続距離が短く母機を目標に接近させなくてはならないため、母機の犠牲も大きかった。

第八神風特別攻撃隊神雷部隊(一式陸攻3機+桜花3機)
桜花隊:高野次郎海軍中尉(〇)、小林常信海軍中尉、藤田幸保一飛曹
(一式陸上攻撃機)攻撃隊:古谷眞二海軍中尉(〇)、中島眞鏡海軍少尉、鑢 敬藏海軍少尉、宮崎文雄海軍少尉
秋葉次男飛曹長、木村好喜飛曹長、中村 豐飛曹長
石田昌美上飛曹、永田俊雄上飛曹、東川末吉上飛曹、磯 冨次上飛曹
大河内一春一飛曹、千葉 登一飛曹、菊池邦壽一飛曹、田中辰三一飛曹、長澤政信一飛曹
竹内良一二飛曹、中内静雄二飛曹、田中泰夫二飛曹
三浦一男上整曹、鬢櫛伊三一整曹 
(※階級表記:飛曹長=飛行兵曹長 上飛曹=上等飛行兵曹 一飛曹=一等飛行兵曹 上整曹=上等整備兵曹 一整曹=一等整備兵曹)

一式陸攻(1番機~3番機)の搭乗員の振り分けはわからないが、古谷海軍中尉乗機が1番機で、それに懸吊されていたのが高野海軍中尉乗機の桜花と思われる。
護衛駆逐艦ヒューW.ハドレイに桜花(高野)が命中し、大破・炎上し総員退艦命令まで出たが撃沈には至らず。(修理困難のためそのまま除籍)


尚、(〇)印は戦果の報告があった機であるが、空母3隻、駆逐艦3隻などに向け必死の突入を敢行したものと思われる。
5月11日の戦果は、第58任務部隊の旗艦である正規空母バンカー・ヒル、駆逐艦エヴァンス(DD-552)などに甚大な損害を与えるも撃沈ならず。
第二復員省(前:海軍省)の『戦斗槪要神風特攻隊』には、進一を含めほとんどは「消息ナシ」「(戦果)不明」と記されており、おそらくそのほとんどが出撃間もなく、米軍の邀撃機などにより撃墜されたものと思われる。

7月10日昼過ぎ、父・金三は進一の戦死を告げる電報を受け取った。
「海軍少尉石丸進一 二十年五月十一日 南西諸島方面において名誉の戦死を遂げられたり とりあえず通知かたがた御悔み申しあぐ なほ 生前配属艦船部隊などは機密保持上お洩らし無きよう致されたし 人事局長」


野球が好きで好きで堪らなかった、そして野球が楽しくて堪らなかった石丸進一。(享年22歳)
生誕98年目となる本日、哀悼の意を込めてこの記事を投稿する。

映画『人間の翼 最後のキャッチボール』のエンドロールでは、主題歌として五輪真弓の31枚目のシングル「時の流れに〜鳥になれ〜」(1986年)が使われている。

 

 


追記
進一の遺品の中にあった一冊の本…薄命のロシア女性画家・彫刻家マリ・バシュキュルツェフの『マリ・バシュキュルツェフの日記』は、予約したこの本を買い求めに来た櫻井圭子と偶然に立ち寄った進一が初めて間近に出会うきっかけともなった本となる。
※マリヤ・コンスタンチノヴナ・バシュキルツェヴァは、1858年11月11日にノヴォロシア(現在のドニプロ(ウクライナ)あたり)のポルタヴァ近郊ガヴロンツィに、富裕なロシア人貴族の家庭に生まれている。
1884年10月31日、結核のため夭逝。(享年25歳)
当時、既に絶版となっており入手も難しかったため、憧れ…好きな女性に、少しでも近づきたい一心から書店員に本の詳細をメモ書きしてもらい、佐賀市松原町(現:天神)にある県立図書館でこの本を探してもらう。
ページを進めるうちに、憧れの圭子の愛読書という以上に、その書かれた言葉に進一は強烈な衝撃を受けたようである。
現在と…そして来るべき自分の運命とも符号するようなマリ・バシュキュルツェフの言葉が心に突き刺さった。
私は直に十八になる。
十八といふ年は三十五の人から見れば僅かなものであらうが、私にとっては僅かなものではない
…”
その想い出の“大坪書店”は、佐賀市紺屋町に惇信堂大坪書店として現在もあるようだ。


●閑話休題

最後に、また映画に関する独り言的戯言を…
前記事からの引き摺りと言われれば、まさにそのお通りであり…
もう如何ともし難いことではあるのだが、フッと…
この映画が製作された1996年(平成8年)頃といえば、大ヒットTVドラマの『ひとつ屋根の下』の小梅役として世間に認知され…
この翌年には続編となる『ひとつ屋根の下2』も控えていた大路恵美。
“映画”…そして“沖縄戦”繋がりで言えば、彼女の人生観を変えたとも言える…
前年の1995年(平成7年)に公開された『ひめゆりの塔』に神谷トシ役として出演し、主役クラスに引けを取らない好演で…その存在感も言うに及ばずである。
『ひめゆりの塔』公開当時、彼女は19歳。
同年代といってもよい“ひめゆり學徒”たちが、沖縄戦の真っ只中に従軍看護婦として将兵たちと行動を共にしなければならない過酷な状況を演じていることもあり、ほとんど化粧っ気などのない素に近い、まだあどけない彼女を見ることができる。
それを見るにつけ…
これまたちょうど同年代の櫻井圭子役を、当時の、まだ初い大路恵美が演じていれば、きっと…もっと良かったのではないかと思ってならない。