ヒトラーのオリンピック | S A L O N

一年の開催延期となった第32回オリンピック競技大会・東京大会の開催まで5ヵ月余りとなったが、新型コロナの終息が未だ見えない現状では、その(再)開催自体が依然として不透明のままである。
開催に先立ち行われる“聖火リレー”は、予定されていた昨年のスケジュールをそのまま1年スライドして、3月25日の福島県“J ヴィレッジ”を皮切りに4ヵ月をかけて全47都道府県を駆け抜け、7月23日に東京都“新国立競技場”において催される開会式に“聖火”の到着という段取りになっている。
感染拡大防止の観点から、出発式も、各沿道での観覧も自粛が検討されるなか、“聖火”は出発の時を待っている。

 

 

今となってはオリンピックに欠かすことの出来ないこの“聖火”…
1896年に始まった第1回近代オリンピック大会となるアテネ大会から既に行なわれていたと思われがちだが…
“聖火の点火”自体は1928年の第9回アムステルダム大会からの採用であり、“聖火リレー”となると更にそれから8年後…1936年の第11回ベルリン大会からとなる。

 


 

“聖火”をリレーで結ぶというアイデアは「古代と近代のオリンピックを火で結ぶ」という理念をベルリン・オリンピック組織委員会事務総長カール・ディーム博士が実現させたものとされ、当初は第1次世界大戦のために中止(1915年中止決定)となった1916年の第6回ベルリン大会で行われる予定だったと言われている。

 


オリンピアのヘラ神殿で採火された聖火の第一走者となったコンスタンティン・コンディリス(左)と、ランニングスタイルが特に優雅であるとされ「若きドイツのスポーツ選手の象徴」として最終走者に選ばれたフリッツ・シルゲン(右)

ベルリン大会で使用された聖火のトーチは、ヴァルター・レムケによってデザインされ、フリードリヒ・クルップAG(※株式会社)によって3,840本製造されたということである。
持手部分は28cm、支柱を取り付けると全長は70cm。
五輪を掴む開翼の(国家)鷲と、中段には「FACKEL-STAFFEL-LAUF OLYMPIA-BERLIN 1936 (聖火リレー オリンピア~ベルリン 1936年)」の文言が刻まれ、その下には聖火リレーのルートも描かれている。

ベルリン大会のための“聖火”は古代オリンピック発祥地、ギリシャのオリンピアで7月20日に採火され、ブルガリア→ユーゴスラビア→ハンガリー→オーストリア→チェコスロバキアの6か国を通過してドイツ国内に入り、8月1日に開会式の会場となるベルリン近郊グリューネワルトのオリンピアスタディオンに点火された。

 

 

この“聖火”は、3,187㎞の道程を3,331名の走者によってリレーされ届けられているが、その道程に関しては、事前に国民啓蒙・宣伝省が中心となって詳細な下見・検討がなされた。
この公然の下見は、1940年10月28日にイタリアが当時占領していたアルバニアからギリシャに侵攻したことに端を発した“バルカン半島の戦い”のため(独軍がこの逆ルートを辿るかたちで後にバルカン半島に南下したこともあり…)という実しやかな説もあるが…
また、英国の地中海に展開する空軍基地を上空から偵察する目的ともいわれた。
まぁ、それだけのためにというのには些か無理はあるが政権掌握から3年という時期でもあり、その後の展望を見据えて全ての対外行為は少なからず意味をもっていたといっても過言ではなく、その際の情報収集が何らかのカタチで利用されたことは想像に難くない。


 

ドイツ選手の活躍にご満悦のヒトラー(左)とヨーゼフ・ゲッベルス国民啓蒙・宣伝大臣(右)


プロパガンダに長けた“Dr.ゲッベルス”の手法から、その後に影響を受けたものは実は意外と多いとのことだが、このベルリン・オリンピックは正に現代オリンピックの原型となったといえる。
巨費を投じて大規模なスタジアム(五輪史上初となる選手村も…)を建設し、観衆に視覚的効果や臨場感を体感させるとともに随所に華やかで荘厳な儀式性を盛り込んだ演出がなされた。
開会式や表彰式などといった今日のオリンピックを特徴づけるスタイルはこの時に導入されている。
また映像と電波メディアが最大限に利用されたことも特筆すべきことである。
ラジオ放送は17の中継局と320個に及ぶマイクを競技場の各所に配置し世界に向けて競技の模様を実況中継した。
そして、実験放送ではあったものの競技の模様が初めてテレビ中継もされている。
ベルリン市内数ヶ所に設置された街頭テレビなどにより15万人の人々がその映像を目にしたと言われている。
国際的な関心を集めるオリンピックは千年帝国たるドイツの国力、組織力…またアーリア人種の優位性を知らしめるのに格好の機会でもあったことから、よりプロパガンダ性が増したことは否めない。

1936 Berlin Olympic_Television Camera

わが国の日本放送協会(NHK)もベルリンから日本への初のラジオ実況放送を行なっている。
8月11日に行なわれた「女子200メートル平泳ぎ」では、スタートからトップを泳ぐ前畑秀子に追いすがるドイツのマルタ・ゲネンゲルとのレース展開を実況する河西三省アナウンサーの興奮気味の実況中継は語り草となっている。
実にスタートからゴールまでの3分3秒6の間に「前畑、がんばれ!がんばれ!」を38回連呼…一着でゴールすると「勝った!、勝った!」を19回連呼するという絶叫中継…元い、実況中継であった。

 (※音声 )

荘厳な雰囲気に包まれた閉会式
荘厳な雰囲気の演出のなか執り行われた閉会式

国威発揚のプロパガンダとアーリア民族の優秀性を世界中に見せつけんとドイツが国の威信をかけて開催した、この“民族の祭典”は、何よりヒトラー自身の権力を誇示する恰好の場であり…
結果は、ほぼ彼の目論見どおりと言っても過言ではないだろう。

 

 

ただ、この栄華は…ヒトラーのみならず、ドイツ国民にとって…
“終わりの始まり”だったのかもしれない。
まさか、この9年後…この長閑で美しく、平和に満ちていた街並みが廃墟と化すなどと…
この時、どれだけの人が想像し得ただろうか?

 


「4年後にまた東京で再会しよう!」
ベルリン大会閉会の挨拶は「4年後にまた東京で再会しよう!」であったが、日中戦争の激化に伴い“国力は戦争に当てるべし”という論議が高まり最終的に昭和12年(1937年)7月16日に東京大会返上と閣議決定した。
…と同時に札幌で開催する予定だった冬季大会も返上となった。
東京大会返上の報を聞いたIOCは急遽、ヘルシンキ大会(フィンランド)を開催する方向で調整を進めたが、こちらも欧州における情勢悪化により開催は見送られ、第12回大会自体が幻に終わった。

 

果たして、迷走続く第32回の東京大会はどうなるのだろうか?

先日、トーマス・バッハIOC会長は、予定通りの開催に向けた決意を表明したが、以前のインタビューの中で、2021年開催が無理になった場合は中止とする見通しも示している。
トンネルの出口の見えない状況ではあるが、第12回大会のような開催返上ではなく、第18回大会のような素晴らしい希望に満ちた大会として、オリンピックを心から喜べるような世の中が一日も早く戻ってくることを願うばかりである。