スタイルのないスタイルがスタル
スタイルがないのが強みだと思っていた。
それはとても大変で面倒くさくてパワーがいることだからだ。
嗜好や自分らしさのベクトルは統一してるんだけれど、
それらをいちいち自分が見えるすべての範囲のなかから選ぼうとするから、ときどき息が切れたりする。
ファッションやDJや
目や耳に捉えやすいものについては、
いつもかんじが違うね、といわれることが多いが、
本当は「自分はこれ」っていうものを見つけて深く突き進んでいくほうが、自分もまわりも深く楽しめると思うんだ。
夏だからレゲエだラテンだ、っていう感覚も自分にはまったくない。
むしろそういう感じ方が好きではない。
すべてのものが、自分のなかで常に平等に君臨していてほしい。
嶽本野ばらの小説をこないだ初めて読んで、その潔い美意識から生まれる潔癖で幾何学的な世界にとても衝撃をうけた。
私はこの人の描く世界観は好きではないだろう、と思っていたから、そんな感情にびっくりしたりもした。
ー限定された生活こそが、生活にエレガンスをもたらすのです。
うーん憧れ。うーん。
スタイルのない自分が何にも染まっていないのかといえば
とにかく灰汁が強くクセのある人間であるし、
人によく言われる「そういうものにまだ出会ってないんじゃない?」とも絶対思えないし、
たとえばどちらかを選ばなくてはいけないときの決断力や判断力を、
いままでは感性だけで選んでいたけれど、知識や経験や自分の意識をはっきりすることができたら
自分の時間とか身をすり減らさずに楽になれるんじゃないかと思ったりする。
1年くらい前に年上の人に「私はあれやこれややってみたいの。やってみたいのだけど、、、」みたいな話をグズグズ話していたら、
「そんなふうにグジグジしてるんだったら、いっそのことお金持ちの男と結婚することだけを一心不乱に目指してやっていたほうが随分潔い生き方だよ!」
と言われて、その場はショックだったのだけど、ちょっと考えてみたら
確かにそうだよね、と思った。
そういう人のほうが幸せにもなれると思う。
ゴールが見えない夢は、見ているだけでいつしか終わるのだろう。
スタイルがないのは、自分の弱さの裏返しなのかもしれない。
それはとても大変で面倒くさくてパワーがいることだからだ。
嗜好や自分らしさのベクトルは統一してるんだけれど、
それらをいちいち自分が見えるすべての範囲のなかから選ぼうとするから、ときどき息が切れたりする。
ファッションやDJや
目や耳に捉えやすいものについては、
いつもかんじが違うね、といわれることが多いが、
本当は「自分はこれ」っていうものを見つけて深く突き進んでいくほうが、自分もまわりも深く楽しめると思うんだ。
夏だからレゲエだラテンだ、っていう感覚も自分にはまったくない。
むしろそういう感じ方が好きではない。
すべてのものが、自分のなかで常に平等に君臨していてほしい。
嶽本野ばらの小説をこないだ初めて読んで、その潔い美意識から生まれる潔癖で幾何学的な世界にとても衝撃をうけた。
私はこの人の描く世界観は好きではないだろう、と思っていたから、そんな感情にびっくりしたりもした。
ー限定された生活こそが、生活にエレガンスをもたらすのです。
うーん憧れ。うーん。
スタイルのない自分が何にも染まっていないのかといえば
とにかく灰汁が強くクセのある人間であるし、
人によく言われる「そういうものにまだ出会ってないんじゃない?」とも絶対思えないし、
たとえばどちらかを選ばなくてはいけないときの決断力や判断力を、
いままでは感性だけで選んでいたけれど、知識や経験や自分の意識をはっきりすることができたら
自分の時間とか身をすり減らさずに楽になれるんじゃないかと思ったりする。
1年くらい前に年上の人に「私はあれやこれややってみたいの。やってみたいのだけど、、、」みたいな話をグズグズ話していたら、
「そんなふうにグジグジしてるんだったら、いっそのことお金持ちの男と結婚することだけを一心不乱に目指してやっていたほうが随分潔い生き方だよ!」
と言われて、その場はショックだったのだけど、ちょっと考えてみたら
確かにそうだよね、と思った。
そういう人のほうが幸せにもなれると思う。
ゴールが見えない夢は、見ているだけでいつしか終わるのだろう。
スタイルがないのは、自分の弱さの裏返しなのかもしれない。
love so fine
タンラタンタンタタタンターン
「りさこちゃんにこれ絶対聴いて欲しいんだ」
そう言って、G9のレコードを差し出すナウ・ロマンチック。
そしてそんなナウ・ロマンチックを脇目に、
「う~ん、ゆるい・・・・」
と失礼な感想を呟いていた当時の私。
レコードおたくだった彼が会うたびに貸してくれるレコードは、
どれもがレアなオリジナル盤ばかりで、とにかく物の管理が悪い私は
傷をつけやしないかといつもひやひやしながら耳を傾けていた。
ときに穏やかで儚いメロディー、ときにダウンテンポの緩いビート。
再発されて、きれいに梱包された新品のジャケットをレコード屋でみるたびに思い出す。
買わないでおこうっと。
ビートばかりが気になってしまう。メロディが耳にはいらない病気だ。
「もっとビートをちょうだい!」と歌っていたのはモンキーズ時代のアムロさんだったが、彼女らのデビュー曲の「なんたらかんたらUSA」は最高に名曲だった。
その歌声を初めてラジオで聞いたとき、この子供天才だもんね!と思ったもんだった(と思った私も子供だったもんだった)。
6~7月に集中していたDJもひと段落して、のんびりとそして手際よく自分の身のまわりを綺麗にしようとかたく誓う週末。
今日はいろんな人とお酒を飲んで、ふらあとしながら帰ってきた。
坂をのぼりながら、キャミソールを着た女の子たちがあてもなく暇をつぶしに道に座り込んでいるのを見て、なんとなく悲しくなった。
時代は移り変わっているのに、空虚感だけが変わらない。
はじめて会った人が場の雰囲気に溶け込めず居心地が悪そうだった。
その姿が悲しくて、必要以上に気を使ってしまった。
どうにかしたいんだけど、どうにもできないいじらしさ
ものすごくわかるんだよ
「りさこちゃんにこれ絶対聴いて欲しいんだ」
そう言って、G9のレコードを差し出すナウ・ロマンチック。
そしてそんなナウ・ロマンチックを脇目に、
「う~ん、ゆるい・・・・」
と失礼な感想を呟いていた当時の私。
レコードおたくだった彼が会うたびに貸してくれるレコードは、
どれもがレアなオリジナル盤ばかりで、とにかく物の管理が悪い私は
傷をつけやしないかといつもひやひやしながら耳を傾けていた。
ときに穏やかで儚いメロディー、ときにダウンテンポの緩いビート。
再発されて、きれいに梱包された新品のジャケットをレコード屋でみるたびに思い出す。
買わないでおこうっと。
ビートばかりが気になってしまう。メロディが耳にはいらない病気だ。
「もっとビートをちょうだい!」と歌っていたのはモンキーズ時代のアムロさんだったが、彼女らのデビュー曲の「なんたらかんたらUSA」は最高に名曲だった。
その歌声を初めてラジオで聞いたとき、この子供天才だもんね!と思ったもんだった(と思った私も子供だったもんだった)。
6~7月に集中していたDJもひと段落して、のんびりとそして手際よく自分の身のまわりを綺麗にしようとかたく誓う週末。
今日はいろんな人とお酒を飲んで、ふらあとしながら帰ってきた。
坂をのぼりながら、キャミソールを着た女の子たちがあてもなく暇をつぶしに道に座り込んでいるのを見て、なんとなく悲しくなった。
時代は移り変わっているのに、空虚感だけが変わらない。
はじめて会った人が場の雰囲気に溶け込めず居心地が悪そうだった。
その姿が悲しくて、必要以上に気を使ってしまった。
どうにかしたいんだけど、どうにもできないいじらしさ
ものすごくわかるんだよ
太陽を追うテロリスト
感情的になったほうが負け。
相手を言い負かそうと絶対に思わないこと。
前に営業の基礎として習ったことが、今になって私生活の対人関係で生きている。
学びに無駄なことなどないことを実感した。
私のなかはすこし空っぽになって、すこし大人になれた。
風邪をひいて熱を出すと、とても苦しいよね。
頭が割れるように痛んで、涙も出ない。
でも、本当に苦しい思いは熱が最高潮に上がる一晩だけ。
薬を飲んだり汗をかいたり、水枕をひいたりして目をつぶれたら、次の日からはどんどん楽になる一方だ。
それが実感としてわかってからは、悩み事があってとりとめもなく深くまで考えてしまうときは、何でもとりあえず「あと一晩」我慢してみることにした。
諦めて目をつむる。
夜が明ければ朝が来て、そこからはなにもないあたらしい朝のはじまりだ。
そうしているうちに時は過ぎ時期がきて、ちがう風がふいてくる。
今の気持ちもまた違う感情に生まれ変わることを知ってる。
悩ませる執着も、寝るたびに剥がれては遠い記憶となって思い起こされるのを待っている。
センチメンタリズムだけじゃだめよ
もっとムードのプライオリティを下げて
何人かの人に言われて、そうかなそうかあそうなんだろうなあ、なんて
ため息ついていたけれど、やっぱりそうでもないんじゃないかなあ。
吉本ばななさんの小説は、登場人物の近しい人(恋人、家族、、)が亡くなってしまう話がとても多い。
それは「死」という人生最期のテーマそのものを捉えて定義・表現しているわけではなくて、「誕生」より圧倒的にドラマ性をもつ「死」の、絶対的な感傷とセンチメンタリズムを、物語のムードをあげるために効果的につかっているように感じる。
読んでいるといつも切ない。
亡くなった人を思っては一緒に悲しくなる。
残された人の行動ひとつひとつを美しく思う。
熱の病からあがったような晴れやかな心に、「生きている」ということを実感する。
私がいちばん「生きている」、と実感できるのは、いつも「切ない」と感じているときだ。
涙を流しながら、心が張り裂けるような幸せの絶頂を感じている。
私はその気分を伝えていきたい。
伸び整えられた爪より、それこそが私自身だ。
相手を言い負かそうと絶対に思わないこと。
前に営業の基礎として習ったことが、今になって私生活の対人関係で生きている。
学びに無駄なことなどないことを実感した。
私のなかはすこし空っぽになって、すこし大人になれた。
風邪をひいて熱を出すと、とても苦しいよね。
頭が割れるように痛んで、涙も出ない。
でも、本当に苦しい思いは熱が最高潮に上がる一晩だけ。
薬を飲んだり汗をかいたり、水枕をひいたりして目をつぶれたら、次の日からはどんどん楽になる一方だ。
それが実感としてわかってからは、悩み事があってとりとめもなく深くまで考えてしまうときは、何でもとりあえず「あと一晩」我慢してみることにした。
諦めて目をつむる。
夜が明ければ朝が来て、そこからはなにもないあたらしい朝のはじまりだ。
そうしているうちに時は過ぎ時期がきて、ちがう風がふいてくる。
今の気持ちもまた違う感情に生まれ変わることを知ってる。
悩ませる執着も、寝るたびに剥がれては遠い記憶となって思い起こされるのを待っている。
センチメンタリズムだけじゃだめよ
もっとムードのプライオリティを下げて
何人かの人に言われて、そうかなそうかあそうなんだろうなあ、なんて
ため息ついていたけれど、やっぱりそうでもないんじゃないかなあ。
吉本ばななさんの小説は、登場人物の近しい人(恋人、家族、、)が亡くなってしまう話がとても多い。
それは「死」という人生最期のテーマそのものを捉えて定義・表現しているわけではなくて、「誕生」より圧倒的にドラマ性をもつ「死」の、絶対的な感傷とセンチメンタリズムを、物語のムードをあげるために効果的につかっているように感じる。
読んでいるといつも切ない。
亡くなった人を思っては一緒に悲しくなる。
残された人の行動ひとつひとつを美しく思う。
熱の病からあがったような晴れやかな心に、「生きている」ということを実感する。
私がいちばん「生きている」、と実感できるのは、いつも「切ない」と感じているときだ。
涙を流しながら、心が張り裂けるような幸せの絶頂を感じている。
私はその気分を伝えていきたい。
伸び整えられた爪より、それこそが私自身だ。