JICA横浜海外移住資料館「企画展示 BROKEN PROMISES 破られた約束 」Page2
12月7日終了、JICA横浜海外移住資料館企画展示 「BROKEN PROMISES 破られた約束 ―太平洋戦争下の日系カナダ人」Page2バンクーバー20世紀日本人町 急増(拝日運動)東洋人、帰化権なく、選挙権認められずww2 日系カナダ人23,000人96% 22,000人 BC州に暮らし、スティーブンストンやバンクーバー集中カナダ政府 1941年 パールハーバー攻撃8日カナダ宣戦布告。差別、拘束。立ち退き。「砂糖大根農場に行けば家族一緒に暮らせる。」1942年10月末 4,000人農場捕虜収容所1943年3月31日BC州へ帰還許されず、花月栄吉「自治地域」移動者ミントシティ1920年代、ケリスデール 自宅前 写真イタリア系カナダ人1941年 イタリアルーツカナダ11,2625人そのうち 31,000人が「敵性外国人」拘束収容された約6,00人、ドイツ系カナダ人1941年 カナダルール 464,682人拘束、収容 857人日本へ追放と東部移動1945年2月13日と3月12日 ロッキー山脈へ。日系人6割、カナダ生まれ2世は、送還は行ったことのない国市民権剥奪1946年6月16日 追放 第二陣 1,106名見送る。 政府関係者 TB ピッカースギル1945根 3月12日 3,946人追放バンクーバー 新小田榮蔵 経営薬局 タカハラ・ドラッグストア1948年6月9日 田頭ますえ、および田頭林吉、戦前住んでいたアパート1948年2月19日 農業営む山田新太郎一家 戦前住居1948年5月10日 なぜ 政府は、合法的に強制移動、財産強制売却、追放、分散措置できたのか。バード委員会 1947年7月18日ヘンリー・アーバインバード名誉判事日系カナダ人から奪い取られた家家は、元々は、カナダ先住民族から奪われた土地の上に立っていた。上書きされた物語⇒そうです、私のブログなどの話も勝手に上書きされたためどんどん話がそれて、変化したのです。とんでもないことですよ。遊びじゃないのです。JICA横浜海外移住資料館で開催されたので、私のブログの記事を消したところですべて残っているのですよ。そういうことが全然分かってないのですよね?全世界生放送ですから。往生際が悪すぎます。パウエル街 マスキアム族 ツレイル、ウォゥトゥス族を初めとする原住民族の場所。バンクーバーダウンタウン東部「サバイバーズトーテムポール」人種差別、、不正義、立ち向かった人種の人々たえられ苦難乗り越えられた人々困難に負けない強靱さ多様性受け入れは、包括性 シンボル「破られた約束」不正義の風景ロイヤル・コロンビア博物館制作展示Sus and BarbaraTabataSachiko Okuda「Vivian WakabayashiRygnested」Mark SakamotoTerry Watada財産没収前 賢明に暮らす、漁業農業、造船業 教会、寺院、日本語学校バンクーバー蛭崎商店Tagashira tobacco and Candy shop森下灯司父 フサキチ・モリシタ(故人)母、 ハツ・モリシタ(森下ハツ)日本兄 ジイチロウ・モリシタ姉 ヒデ・エビスザキ(蛭崎ヒデ)妻 サワ・モリシタ子供 クニコ(娘)テルオ(息子)ハシミ (娘) セツコ (娘) ミサコ(娘)敵性外国人資産管理局 事例ファイル抗議の手紙「サント・ファミーユ通り 3598モントリオール ケベック州アンダーソン様私有不動産売却衝撃、信用残高 1,340カナダドル法的費用引かれる。私は、リウマチ 身体、不自由 重労働できません。暗く湿った家 3階住みづらい一室に住む。週7カナダドル50千と月換算 30カナダドル支払わなければならない違法な行為物件内の不動産のうち バイオリンと楽譜をあなた方で確保し、速達で受取人払いオンタリオ州 ウィンザーグラッドストーン大通り2456番地 「E.ホシコ」送るよう願います。他の動産精算されしだい代金すみやかに送り届けて星子 トシエ「1944年に約束した公正な財産の取扱を確かなものにするため、政府は、売却が公正な市場価格を下回ったと証明できる事柄において、その不正義を是正する準備がある。」1947年7月18日、内閣令第1810号により「日系人の賠償請求に関する王立委員会」が設立され、委員長ヘンリー・アーバイン・バード名誉判事の名から「バード委員会」とよばれました。バード委員会は、当初から多くの問題を抱えていました。まず、強制移動から6~7年後に「本来の市場価値」を証明するのは困難でした。特に大切な思い出と結びつく個人の所有物の損害査定は難しく、資産価値には、計上しづらかったのです。また日本へと「送還」された人々の財産は、対象外とされました。なにより、その審査範囲は、「敵性外国人資産管理局が敵正価格で売却したか否か」に限られ、強制移動や追放政策など、他の問題は、扱われていませんでした。厳しい条件の中、日系カナダ人共同委員会と1947年9月に発足した全カナダ日系市民協会の支援のもと、賠償請求手続きが進められました。同年12月8日からの審問で、合計1,434件の請求が審査され、記録は25,000ぺージを超え、証拠は、約9,000件に達しました。1950年6月13日、バード委員会の最終報告書がカナダ議会に提出されました。報告書は、「敵性外国人資産管理局は重責を担っていたにもかかわらず、財産所有権の利益を尊重しつつ「避難者」の財産を管理・売却することに概ね成功していた。」と結論付けました。これを受けたカナダ政府は請求総額の約56%(法人分除く)の支払いを決定。しかしながら、審査範囲の狭さなどの問題は、残りました。さらに政府と管理局は、賠償金を受け取るにあたり、今後一切同管理局に請求を行わない旨の宣誓書へ署名させ、今後の責任追及の道を閉ざそうとしました。バード委員会を皮切りに責任の追及範囲を拡大する糸口を探していた日系カナダ人にとって、この問題は、致命的でした。1年近い内部論争を繰り広げながらも、損害賠償運動を白紙に戻すリスクと、今後の運動の見込みの薄さから、日系カナダ人たちは、補償金の受け取りを選ばざるを得ない状況に追い込まれていきました。こうして強制収容、財産没収・強制売却、追放、市民、市民権剥奪などの措置については、取庇が認められないままカナダ政府の「補償」は、一旦幕をとじることになりました。⇒そうです。致命的な間違いをしたのです。きちんと確認すべきだったのに!!!私は、同性愛者でもないですし、おかまを好きになったりしません!!!普通の女性です。厳しい措置のさなか、日系カナダ人たちは、財産の強制売却や追放政策の正当性について、法廷でも争いました。しかし、いずれの主張も棄却されました。罪を犯したわけでもない市民を強制的に移動させ、財産を売却し協力的な態度だったと認めたにもかかわらず、追放して市民権を剥奪するーーなぜ当時のカナダでは、戦争終結後までそれらの措置が合法とみなされたのでしょうか。1.基本権に関する条項の不在このことは、カナダが英国の自治領だったことと深く関係します。1931年のウェスト民スター憲章でカナダは立法、行政の独立を得たものの、英国の影響は、以後も強く残りませんでした。当時の憲法「英領北亜アメリカ法」は、自治領の統治を目的としていたため、法の下の平等、人身や移動の自由、生命の保障や選挙権などの条文が存在しませんでした。2.戦時措置法による内閣令1914年8月22日にカナダ議会は、戦時措置法を制定します(1927年に改正)。同法により、内閣は、議会の審議なしに必要な内閣令や規則を、発令と同時に議会による「法律と同一の効力を有する」ものとして発することができました。(第六条第二項)戦時措置法では、内閣令や諸規則の発令のために、次の2点の要件がありました。(1).戦争、侵略または、反乱が現実にある、または予見されること(第三条)(2). カナダの安全・防衛・平和・秩序および福祉のために必要または、望ましいと認められること(第六条第一頁)問題なのは、「非常事態」や「望ましい」措置が、内閣の判断のみで自由に定義できたことです。(第四条・第六条ー頁)要件(1)について、1946年12月2日付英国枢密院司法委員会判決「日系カナダ人共同委員会 対 カナダ(司法長官)」で日系カナダ人共同委員会は、戦時中に発令された追放命令が、終戦後も国家非常事態継続権限法により有効とされたのは不当と主張しました。要件(2)について、1947年8月28日付カナダ財務裁判所判決「ナカシマ/ワカバヤシ/タナカ 対 カナダ連邦政府」で、ナカシマたちは、財産の強制処分を許可した内閣令は戦争や安全保障と無関係のため、違法であると主張。しかしいずれも、内閣およびカナダ総督がそう定めた以上、法廷にそれを覆す権限はないと、退けられました。「この主張は、憶測のみに基づき、議会がこれらの権限を付与することを決定した判断、または、総督閣下がそれを公使することを決定した判断を覆すよう陪席判事らに求めるものであり、不適切である。」「本法廷には、総督閣下が何を必要または適切と判断したかについて、(中略)その判断の有効性を問うたりする…」⇒結局、カナダも私がD会を独立すると思い込んだという訳の分からない話です。そう言ったのは、私の姉でそれは、全部ウソです。パリ日本人学校、パリインターナショナルスクール高校2年からの同級生のスチュワート・美和がカナダのどこ出身だったのか私は知りませんでした。美和が亡くなったことを知ったのは、亡くなって1年くらい後だったと思います。参考元Nika Stewart Obituary - Burnaby, BCCelebrate the life of Nika Stewart, leave a kind word or memory and get funeral service information care of Ocean View Funeral Home & Burial Park.www.dignitymemorial.com彼女のお墓がヴァンクーヴァーだったので、びっくりです。参考元Nika Miwa Stewart (1968-2010) - Find a Grave...ja.findagrave.comパリ日本人学校の中学3年の卒業式1列目 一番右で、白いブラウスが美和この写真は、親も一緒に。私は、中央にいるのは、無理矢理でしたが…ウラの家にて美和は、一番左 私は、一番右パリインターナショナルスクール高校3年のイヤーブック美和は、右の頁 右下私は、左の頁 右上美和は、この年のインターナショナルバカロレアには、不合格だったので、留年しもう1年高校に通ったのです。その時、惣田さんと、上野と美和、そしてパリ日本人学校の同級生で、1年学年を落としていたヨヨ(朝野陽子・保坂)も次の年に高校を卒業しています。ヨヨに日本で会っても、美和のことは、ほとんど同じクラスにいても、知らなかったようでした。私たちが高校3年で、インターナショナルバカロレアに受かったのは、この日本人たち8人のうち4人だけだったのです。パリインターナショナルスクール高校1年の同級生のカナダ人女子 オンタリオ州出身のジェーン「チエコへ 1984年5月27日クリクリしたカーリーのショートヘアーのジェーンよ。あなたの質問に答えます。名前、住所、誕生日 7月26日私の趣味は、ギターを弾くこと、パーティーに参加すること音楽鑑賞、寝ることそんな感じかな。楽しんで。ジェーンより」ジェーンも、とても明るくて楽しい性格の女子。数学の教室にてジェーンとアレクシー思うに、このジェーンとクリスと間違えたのでしょうね???それは、髪型だけのことですよ。ジェーンは、次の年の夏休みにパリに戻ってきたのです。皆、喜んでいました。私は、女性を好きになったことは、一度もありませんよ!!!クリスは、普通の男性です。パリインターナショナル高校1年の時は、フランス人クラスでバレーボールで一緒だったマックス。それが、高校2,3年は、インターナショナルバカロレアのクラスに入ってきたのです。カナダのどこ出身かは、知りませんね。話は変ります。同じくJICA横浜海外移住資料館の前に展示されていたものです。105人を超える子供達と大人たちが「平和」を描き、日本とアフリカを結ぶ架け橋を築きました。ウガンダ人と日本人、2人が見つめているものは、「希望に満ちた未来」それぞれの顔には、それぞれの文化において重要な意味を持つ「2羽の平和の鳥」が浮かび上がっています。「平和と静けさ」を象徴する日本の鶴と、ウガンダ国旗に描かれる「冠鶴(カンムリヅル)」、お互いに目と目を合せています。冠鶴は、平和と調和、そして未来への一歩の象徴です。これらの二羽の鶴が折り重なるとき、異なる文化が重なり合い、私達が日々目指す「平和」へと飛び立っていくでしょう。アートでアフリカと日本を繋ぐ「平和と安定」は、これまでのTICADにおいても、重要なテーマの一つであり続け、特に「難民」はアフリカを中心に世界規模の課題となっています。JICAとArtolutionは、日本とアフリカを、「平和」をテーマとしてアートで繋ぐイベントを開催しました。ウガンダの難民居住区の人々と日本に住む人々、1人ひとりが心に思い描く「平和」を重ね合せ、異なる文化の調和と共存を実現し、平和に向けた一歩を描きました。私は、アフリカには、行ったことがありませんよ!!!まったく関係ありません。外国の方々と交流して仲良くするというのが普通だと思いますが…なぜにこんな、敵だとか、変な話になったのかまるっきり理解できません。ジャマイカ⇒映画「フライ!」のように、榊原雅彦は、子供達を脅し、嘘を吹聴して海外に行かせないようにしたのです。馬鹿馬鹿しい!!!海外に住んだこともない榊原雅彦が口出すことがおかしいでしょ??年下は、関係ありません。クリスは、一つ年上の同級生です。サイ⇒会ったこともないD会故筒井夕起子さんの兄のサイ家その家族のようなおどろおどろしい因縁とはまったく無関係ですよ!!!その長女ありささんが結婚したのが、米軍のような?貧乏な黒人の男性だったから、それに強引にこじつけたのですよね。浅はかです。全く無関係ですよ!!!あるいは、映画「ボディー・ガード」のサイのように犯罪事件も、宣伝に使うなんてとんでもないことです。ホイットニー・ヒューストン主演映画監督すずきじゅんいち著日本人が気づいていない、いまなお日米関係に横たわる暗部。戦中から現在にいたる日系アメリカ人を追ったドキュメント映画三部作によってはじめて明らかにされた真実。敗戦後80年、新トランプ時代のいまこそ、見つめなおすべき歴史がここにある!目次 前章 日系人を襲う残酷な現実第1章 「東洋宮武が覗いた時代」第2章 「442 日系部隊」第3章 「二つの祖国で、日系陸軍情報部」終章 日本人がしらないあれこれ誰も知らない。日系アメリカ人の歴史⇒全然違います。ただし、クリスの妹のクリスティナが日系のアメリカ人男性と結婚していたのは、事実。アルゼンチンほか、南米無関係ですよ!!!もちろん、このような一攫千金を狙った話でもありませんよ!!!なぜに???普通の国際結婚ですよ。元アナウンサーの中村江里子さんみたいに。国がアメリカだというだけです。坂本達も世界一周旅行で、ボリビアに寄っていますけど。関係ないです。参加者 安仁屋 滋さん(ボリビア・日系二世)⇒そうですよ。按針さんにこじつけたのです。参考元https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%82%B9この按針さんは、昔あった、アメリカの1980年ドラマ「将軍 SHŌGUN」、私たちがちょうどパリにいた頃、パリでも放送されていたのです。それで、2024年、アメリカドラマ「SHOGUN 将軍」が真田広之さん主演で、リメイクされましたね。エミー賞、ゴールデングローブ賞を受賞したのです。今回は、日本目線でしっかり作られたのです。武道⇒映画「空手キッド」にこじつけたのです。全然関係ありません。祖父が子供の頃、近所の老婦人が結核を患っていました。当時、結核は治らない病気でしたが、その女性は、様々な治療法を試しました。治療法の一つにヘビの肝臓を食べることがありました。私の祖父は、子供の頃、ガラガラヘビをよく見つけましたので、ヘビを狩り、肝臓をその女性に持っていきました。彼女のヘビは、肝臓を刺身のように醤油で食べたそうです。⇒とんねるず「ガラガラへビがやってくる」⇒石橋貴明さんの映画「メジャーリーグ2、3」にこじつけて、チャーリー・シーンさんに、という流れでしょう。まったく関係ありません。アルマジロ、蛇、ワニ、鹿、ヤマネコ、鳥、豚や猿などいろいろな動物がいました。車が無かった頃は、馬を荷物を運ぶために使っていました。雨季になったら、蚊がとても多く蚊帳の中で食事をし、夜になると蚊の数はもっと増えたそうです。周りは、木だらけだったので、伐採するところから始まりました。道もなかったので、人と馬が通れるくらいの幅の道を作って通っていました。ようやく、1960年、ブルドーザーで道が作られるようになりました。家は、モタクという木で作っていました。⇒映画「ヤマネコは眠らない」にこじつけたのです。ラテンアメリカ無関係ですよ!!!キューバへのきっかけは、小学校のころに聴いたカセットテープにグアンタナメラや、デイブ・グルーベックのテイクファイブが入っていて、思えばそれがジャズにしても、キューバにしてもはじめの一歩だったかもしれません。90年代初頭に、たまたま私の職場の近くで演奏のために来日していたキューバ人達がいたのですが、その中の一人と親しくなり、翌年、その人のキューバの家を訪れました。運良く会うことは出来ましたが、ちょうど、二日後にメキシコへ演奏に行くところでした。残念でしたが、滞在中はその友人がキャノンのAE-1という一眼レフを貸してくれました。その時の父子の瞬間を写真に収めたら、とても叙情の深い一枚が撮れました。その一枚が、中南米の写真を撮るきっかけになったと思います。帰国してから半年もしないうちに、その友人がアメリカから手紙を送ってきて、実は、メキシコ演奏の後、そのまま亡命したと書いてありました。だから、あの時に会えたのは、まさに亡命前の微妙なタイミングだったようです。その後、友人の亡命先での暮らしを見に行きました。すると彼から仕事も得て無事にやっているよ。演奏しているよ。という写真を撮影して、キューバの家族に届けてくれないかと頼まれ、届けました。キューバにとっては、亡命は、日常なんだ?っという目線から国の情勢や、自分との関わりを考えるようになりました。そこで、現地の人達の撮影をすると、撮られたい人ばかりではなく、撮って欲しい顔をしつつ、もじもじしている人もいます。そういう人に声をかけた時、やった俺、これで外国へ行けるんだ!って行った人がいて、その言葉がとても印象的でした。カメラに入って俺は、外国へ行くんだ、行けたんだって。もう彼の願いはそこで少し完了したわけです。写真を送ってくれとは言わない。自分という存在をカメラの中に入れ、この国から持ち出してもらえる事で、十分満足なのだと。渡航が自由な国の我々はそうは思わないですよね。だから、私は、カメラを使ってキューバの人達を沢山日本に連れて行っています。⇒私は、亡命なんてするはずないではないでしょう!!!意味がわかりませんよ。キャノン⇒D会山口正太郎君坂本達 本「やった。」でしょうね。全然関係ありません。赤い赤いお船がでるぞバカプ神2 戻らない世界バカプ神は、宇宙の創造神 フナプ・クーの4人の息子で、世界をその四で支えている。しかし、その世界は、今終わりの始まりを迎えようとしている。土方美雄収集しているメキシコの骸骨人形を「死者の日」の祭壇風に、並べてみました。メキシコの骸骨人形は、死に対して、開き直って笑っちゃえというのが、面白いんです。ヨーロッパの「死の舞踏」なんかは、死への恐怖心しか、ない。自分の築いてきたものが、すべてなくなるという恐怖心。でも、メキシコの骸骨人形や「死者の日」には、それを全部逆転させて、笑い飛ばしちゃうという面白さがある。もちろん、死への恐怖は、メキシコ人もあるだろうし、自分にも、ありますよ。六七歳の人間が、ここ数年の間で何度も手術したりすると、やはり死っていうもの身近に考えます。若いころに考えていた、美化された死とイメージが違う、リアルな死を…ね。⇒メキシコ無関係ですよ!!!コロンビアの第二の都市メデジンで生まれですが、もう長くの時間を日本で過ごしています。そんな私は、先生、画家など芸術家の家族に生まれ、私の母や叔母がそうであったように、私も針と糸に魅せられるようになっていきました。もちろん、コロンビアも無関係ですよ!!! 空にいる君へうさぎ・空(月と星)蝶・スズラン手・カスミソウ空の野原を駆け回る君を想う。スズランの花言葉「純粋」「幸せの再来」「天国への階段」宇佐美織絵⇒私は、亡くなった人の話をしているのでもありません。クリスは、生きていますし、私と結婚するのですよ。当然でしょう。これだけがんばってきたのですから。日本には住みません。誰かになれないわたしと、誰かになりたくないわたし。こぼれるほどの。⇒D会会員たちのなりすまし。情けない。覚えていたい温かい思い出も、心をえぐられた経験も目を背けたい現実も、きっと忘れてしまうなんてことない日常も、わたしを構築するためにどれも欠けてはならない大切なピース。きっと、あなたも。どうか、ピースが増えますように!作品解説メキシコの伝統工芸「オハラタ」から着想を得て、人生をかたちづくる記憶や感情をオーナメントとしてつるしたモビールを制作しました。オハラタとは、メキシコの伝統的なブリキ細工の装飾品、もともとは人々が日々の祈りを気軽に捧げられるよう、安価な素材でつくられた宗教的装飾品です。温かさも痛みも曖昧な日常も、どれも自分という存在を構成する欠けがたいピースだと捉えています。祈りとは、過去を見つめ、未来に手を伸す静かな営みだと思いながら、これから増えていくであろう新たなピースたちも、そっと受けれていけるよう願いを込めてつくりました。⇒小原、あるいは、映画「風と共にさりぬ」スカーレット・オハラさん無関係ですよ!!!D会の宇佐美さん、西家の母方の実家の宇佐美家⇒いいえ、夢でも、記憶でもなく、2007年からずっと続いている話なのです。現実、現在の話。母が元々絵をやっていたということで、私自身もすごく絵を描くことが好きでした。描けるところならどこにでも、家の壁や集合住宅の共用部分の壁にまで描いたりして、母がそれを掃除して消していたのを覚えています。隙間があればどこにでも描いていました。でも中学生くらいになると自分の絵に劣等感を覚えて、描くのをやめてしまいました。その後は、理系の道に進み、IT関係企業に就職。しかし、心の中には常に、アートがありました。多摩美術大学に入り、苦労が多かったです。当初は、JICAのような、どこかの国のどこかの村で子供たちの絵の先生にと考えていましたが、世の中に自分の絵が好きって言ってくれる人が一人でもいることを知って、作家の道を選びました。キューバ音楽やボサノバとかラテン音楽が徐々に流行だし2000年頃、ラテン音楽を聞きながら絵を描くようになったり、ラテンアメリカへの興味が湧いてきました。そして訪れたのが、キューバ。たまたまトランジットで立ち寄ったメキシコシティの空港で不思議と惹きつけられるものを感じたのです。鬱蒼として重苦しい空気のような何とも言えない感覚。日本に帰国後、スペイン語の勉強を始め、美大を卒業後、仕事で一ヶ月くらい休みがあったので、今度は、オアハカへ行きました。オアハカは、メキシコ国内でも先住民の文化が色濃く残っている地域なのですが、赤い縞模様のウィピルを売っているところを見つけました。そのウィピルがどうにも印象的だったのです。帰国後、メキシコで美術がやりたいと思い、2008年に再びメキシコへ長期滞在のため、オアハカへ行きました。紆余曲折ありましたが、先住民の織物を習いながら、絵の制作をしていました。実は、そこで出会った夫が、あの赤い縞模様のウィピルの民族のトリキ族の研究をしていたのです。縁なのでしょうか。トリキ族の神話の絵本制作を手掛けることができました。⇒南米まったく関係ありません。出掛けているスキにまたこんな状態に。いつまで経っても、自分達の立場がわかっていない証拠です。私たちの自宅に放尿したという、侮辱するにも程があります。気づいていないの?ずっと見張られているのですよ。犯罪なのですから。⇒多摩美大卒なのは、私の大磯のいとこ断崖 西村FELIZ風を感じて~大海~木村健太郎⇒ドラマ「海のはじまり」私には、子供はいないのにいると大嘘をついたD会落合弘美さん。映画「海の沈黙」まるで無関係ですよ!!!沈黙、黙秘をしても、極刑は、免れないのです。それほど、罪が重いということです。私に対してしたことが。「すみませんでは、済まないのです。」わかっていないでしょうね???お詫びというのは、そんな軽々しいものでは駄目!月と私西村FELIZ生命の樹西村FELIZ⇒映画「安倍晴明」まったく関係ありません。でも、D会 安部一族(安部、齋藤、長田(三浦)、酒井(須賀、久保田)の責任、そして府中家府中家は、安部清さんの実家の責任です。血のつながりのない親戚なのですから!!!知ったかぶりしたのです。自分が最初にメキシコに渡ったのは、高校を卒業してお金を貯めた1年後、1995年アテもツテもない中、とりあえず、アパートを借りるべくメキシコシティの町を彷徨っていました。会話が成り立たず、一人のストリートチルドレンに声をかけられました。警戒する反面、当時十二歳だったその子のスペイン語はとても聞き取りやすく、その子と仲良くなりました。「行くあてがないなら、うちにくればいい」と連れられいったのは、マンホールの中。彼らは、自分達だけでたくましく生きるプロであったため、メキシコで生き抜く術というものを彼らから色々と学びました。徐々に言葉にも慣れ、生活範囲がひろがってきてからは、大学で考古学を学んだり、信仰心もないのに洗礼をうけさせられたり、地下鉄で強盗に首を絞められたり、美術学校で絵や工芸を学んだり、信頼してた友人の甥っ子に大金を盗まれたり、バスジャックに遭ってナイフで刺されたり、各地の遺跡を見に行ったり、空手が出来ないのに悪徳警官の息子に空手を教えたり、車にはねられたり、カテドラルの地下で遺跡発掘の仕事をしたり、泥酔の果てにタトゥーを彫られたり、自動車走行時に速度違反で警察官に逮捕されたり、土産物屋の工房で人形の作り方を学んだり、昼には、銀細工師でも夜は泥棒というおじさんの助手をしたり、麻薬中毒者にリンチされ大けがを負ったり、仲間と共にデモに参加して武装警官に棍棒で殴られまくったり、友人とサウナに行ったら全裸で告白されたり、今の自分を形成している土地のような様々な経験を積まさせてもらいました。そんな様々な経験の中でも一番面白かったのが人形彫りだったので帰国後にバジコという粘土メーカーが経営している人形創作学院にて改めて基礎から学びました。親が死にこれ幸いと再びメキシコへと渡り、中南米を一周し、帰国したのは、2年後。各地の遺跡を見に行ったり、肺炎を起こし三週間寝たきりになったり、アマゾン川で底なし沼にはまったり、様々な昆虫の調理法を学んだり、吹き矢で獲った猿をもいで皆で食べたり、砂漠で迷子になって帰れなくなったり、ゲリラに誘拐されたり…⇒そうですね。中央大学同級生の小林二希子(牧野・大西・佐藤)の責任です。アマゾンも関係ありませんし、こんな恐ろしいところへは行きません。タトゥ⇒タトゥなんてしませんし、そんなことをしているアメリカ人ではありませんよ!!!だだし、ロシアガールズ歌手 t.A.T.u.(タトゥー)の曲「Gomenasaiごめんなさい」ということが大事です。なぜ、この2人が謝罪していたのかというのは、2003年6月27日、テレビ朝日の『ミュージックステーション』で、冒頭には出演したものの、その後行方をくらましたからです。このビデオの内容は、ともかく。すべて誤解なのですから!!!皆さんが少しも反省せず、謝罪すらせず、ただただ沈黙して、ただただ迷惑をかけてきて私とクリスの人生をめちゃくちゃにしたのに!!!だから、その報いは計り知れないと言っているのです。Page3へ