戦国武将ランキングの記事を見て
メモったのですが、そのメモ帳が
無くなっています。
本当に、やめて下さい!!!
返して!!!
記事を消すと、罪が重くなります。
なので、これから書くランキングは
私の見たものではないと思います。
1位 上杉謙信(うえすぎけんしん)
2位 伊達政宗(だてまさむね)
3位 真田幸村(さなだゆきむら)
4位 武田信玄(たけだしんげん)
5位 織田信長(おだのぶなが)
6位 毛利元就(もうりもとなり)
7位 本多忠勝(ほんだただかつ)
8位 真田昌幸(さなだまさゆき)
9位 島津義弘
10位 大谷吉継(おおやよしつぐ)
島津義弘は、島津 義弘(しまづ よしひろ)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の武将、大名。
戦国大名の島津義久の弟で、島津氏の第17代当主。
島津氏18代当主・島津忠恒(のち家久に改名)の父。
後に剃髪して惟新斎[注釈 2]と号したため、
惟新公(いしんこう)との敬称でも呼ばれた。
武勇の誉れ高く「鬼島津」の異名で知られ、
戦国(安土桃山)時代でも屈指の猛将として
当時から有名であった。日本では「鬼島津」の名で呼ばれ
親しまれています。
参考元
何度もお話しましたが、私の母方の先祖は、
薩摩藩の島津家(嶋津)なのです。
島津家は、人数が多いのですから。
この嶋の字が異なるのは、嶋の方が文献にも
残されていて古い字だからです。
また、源頼朝の出した”下文”は{嶋津御庄官・・・
室町期の足利直義の出した”軍勢催促状”でもあて先は
戦国期の”肥後水俣陣立て”(天正8年{1580})でも、
豊臣秀吉の”島津征伐”後の大坂に人質を差し出す命令でも
秀吉の”朱印状”でも{嶋津分国検地御掟条々
徳川宗家からの知行安堵状は”薩摩中納言殿”とか
なお、徳川期であっても、嶋津が正式であり、”島津”表記は
嶋津の嶋の方が正式であり、簡略化した字が
島だからです。
私の祖父たちは、この嶋に思い入れがあり
嶋から島に変えますか?と役所から聞かれた時に
嶋を使用することに決めたのです。
島津義久が九州統一を成し遂げられず、秀吉に屈したという。
それで、豊臣秀吉ばかりに焦点があたったのでしょう。
義久の弟、義弘
⇒大河ドラマ「島津義弘」へという目標が
あったのでしょう。
それだって、私には何の相談もなく、いつの間にか。
話がそれたのです。
これから、作れば良いのでは?
私の結婚と別の話ですよ!!!
私が結婚して、サンフランシスコに住んでからでも
できることでしょう!!!
関ヶ原の戦い
9月15日、徳川家康を総大将とする東軍七万五千と、
毛利輝元(大阪城在城)を総大将とし、石田三成を
主将とする西軍八万が美濃国関ヶ原(岐阜県不破郡
関ヶ原町)で対峙していたが、朝霧が晴れ始めた頃、
福島正則隊が宇喜多秀家隊に鉄砲を撃ちかけたことで
「天下分け目の決戦」の火蓋が切られた。秀忠が戦国
時代きっての知将真田昌幸・幸村父子以下わずか二千の
兵が籠もる信濃上田城攻め、(上田合戦)に手間取る
三万八千を欠いたまま激戦は繰り広げられることに
なった。
東・西両軍の間で、一進一退の弘法が続いていたが、
島津義弘率いる島津隊は、動かず、というよりも、
動けずにいた。義弘が再三再四くどいほどに大殿
義久や若殿忠恒、家老らに催促しても鹿児島からの
援軍どころか兵糧も軍資金も送られてこなかった
ことが原因である。ただ、国許の義久にすれば、
「豊臣政権内の私戦に関わりを持ちたくない」
という理由に加え、豊前中津城の黒田如水や
肥後熊本城の加藤清正、飫肥城の伊東氏らの動向に
備えねばならず、しかも、帰順したとはいえ、
いつ何時伊集院忠真が加藤清正と結んで反旗を
翻すかもしれず、何にも増して、朝鮮出兵と
庄内の乱によって島津家臣団自体が、疲弊し
きっていたのである。
島津隊は、あら何はせ参じた北郷一門の
北郷忠泰ら数百を加えてもわずか一千
五百。眼前に攻め寄せる東軍を押し戻すだけで
その数を三百にまで減らしていた。
午後二時頃、東軍に内応していた小早川秀秋隊が
大谷吉継隊に突入。これを契機に家康の調略を
受けていた西軍諸将が一転、東軍として
参戦する。猛攻を受けていた大谷吉継隊は、
壊滅し、吉継は、切腹して果てた。
大谷吉継隊の敗北によってそれまで奮戦して
いた石田三成隊や小西行長隊、宇喜多秀家隊が
総崩れとなって敗走し始めた。家康と内通していた
吉川広家は南宮山からまったく動かず、
それどころか、出撃を拒否し、後方にあった毛利勢の
進軍をも阻んでいた。
⇒大谷翔平さん
もちろん、この大谷吉継とは無関係だと
思いますが…
⇒中央大学同級生 吉川早苗
もちろん、この吉川広家とは無関係ですよ!!!
その他、葉山小・中学校同級生 吉川直子とか。
⇒中央大学先輩 伊東宏 葉山小・中学校同級生
伊藤知恵子
もちろん、この伊東とは無関係ですよ!!!
⇒葉山小・中学校同級生 加藤久美子
もちろん、加藤清正とは無関係ですよ!!!
⇒パリ日本人学校同級生 小西真砂子
この小西行長とは無関係
⇒伊集院静さん、伊集院光さん
無関係のはず。
⇒沼間小学校3年石田
もちろん、石田三成とは無関係ですよ!!!
島津勢の敵中突破
島津隊は、七万五千の敵中に孤立、退路を断たれて
しまった。西軍諸将・軍兵が雪崩を打って後方の
佐和山城方面に敗走するさまを見守っていた島津
義弘は、勝ち誇る東軍本陣に斬り込み、潔い討死を
選ぼうとしたが、島津豊久の地を絞るがごとき説得を
受けて翻意し「穿ち抜け(うがちぬけ)錐のように
敵陣中央部に突っ込んでその後方に抜け出る)」
戦法で正面の敵の大軍を蹴散らし、それを突破する
過酷な道を選ぶ。のちに「島津の敵中突破」
「島津の退き口(のきぐち)」と呼ばれる決死の
逃避行・退却劇である。義久はあ疲れ果てた
将兵を鼓舞し、先鋒を島津豊久、右備えを
山田有栄(ありなが)、本隊を義弘という陣立で
敵中突撃を敢行する。
最初に対峙したのは、東軍の前衛部隊で猛者
ぞろいの福島正則隊だった。ところが、正則は、
死兵と化した島津隊との戦闘を避けるように
命じ、追撃も禁じた。島津十字紋の旗指物を
翻した島津隊は、家康の本陣を襲うかのように
その正面を通過して転進、伊勢街道をひたすら
南下する。予期せぬ島津隊の正面突破に
徳川三傑の一人で、井伊の赤鬼と恐れられた
猛将井伊直政や本田忠勝(もう一人は、
榊原康政。秀忠の軍艦だったので関ヶ原の
戦いには、不参加)、そして松平忠吉
(家康の四男で井伊直政の娘婿)らが
追撃する。
このとき島津隊は、殿軍の兵を死ぬまで戦わせる
「捨て奸(がまり)」という特殊戦法をもちいた。
殿軍の数人が追撃してくる敵兵を死ぬまで戦って
足止めし、その数人が全滅すると新たな殿軍数人を
退路に置き捨てることを繰り返して時間を稼ぎ、
本隊を逃げ切らせるという壮絶な玉砕戦法である。
⇒井伊直政と姉の元同僚の伊井さんとは、
異なりますよ。
⇒榊原康政と姉の結婚した榊原家は、
異なりますよ。
⇒私のSEIKOの元同期の福島和枝と
福島正則も異なるのではないのでしょうか???
そのため、山中の間道烏頭坂(うとうざか)
(岐阜県大垣市上石津町)にたどり着くことが
できた島津隊はわずか二百。川上忠兄(ただえ)の
家臣柏木源藤(げんとう)は薮の中から追撃隊の
大将井伊直政を銃撃。直政は、重傷を負って
落馬し、後年このときの傷が原因で亡くなることに
なる。忠吉も負傷、忠勝も騎馬が銃弾を受けて
投げだされてしまう。島津隊では肝付兼護(かねもり)
肝付氏十九代当主)が討死し、義弘の甥島津豊久も、
自身が義弘の捨て奸となって戦死する。また、
義弘の懐刀である家老長寿院盛淳は、義弘が
秀吉から拝領した陣羽織を身につけて身代わりと
なり、壮絶な討死を遂げた。家康は、島津隊の
あまりにも激しい抵抗に追撃を中止するのである。
天下分け目の決戦は、徳川家康の東軍の圧勝で
終結する。
⇒中央大学先輩の柏木俊之さん
もちろん、この柏木源藤さんとは
関係ないと思います。
徳川家と宮家、そして天皇家に嫁ぐ忠義の娘
明治三十二年(一八九九)十月六日、島津忠義の
八女俔子(ちかこ)(生母は側室寿満子)と
久迩宮邦彦王(くにのみやくによしおう)(中川宮の
三男)が、明治三十五年十一月二十六日には、
忠義の四女常子(ひさこ)(生母は同じく
側室寿満子)が伏見宮家出身の山階宮菊麿王の
妃となる。翌明治三十六年三月六日、
久迩宮邦彦王と俔子との間に長女良子(ながこ)が
誕生する。
明治四十二(一九〇九)十一月十五日、天璋院
(篤姫)の遺言に従って島津忠義の十女正子(なおこ)が
公爵徳川家達の嫡男家正(のちの徳川宗家十七代当主)に
嫁ぐ。すでに(明治三十年頃か)島津忠義の五女知子
(生母は側室寿満子)は、田安徳川家の当主で
伯爵徳川達孝(さちたか)(家達の弟)の後妻
となり(達孝の最初の妻は、慶喜の長女鏡子(きょうこ)、
大正五年(一九一六)七月二十五日には、忠義の
十一女為子(生母は、側室菱刈久)が紀州徳川家の
当主で侯爵徳川頼貞(家正の従兄弟)の妻となる。
戊辰戦争で対立した島津家と徳川家ではあったが、
結びつきを深めていたのだ。
伏見宮邦家と鷹司景子の子である久迩宮朝彦と島津俔子が
結婚。
その娘、良子(ながこ)が昭和天皇と結婚しているのです。
伏見宮邦家と鷹司景子の子である北白川宮能久と
島津富子(宇和島藩最後の藩主だった伊達宗徳(のちに侯爵)の
次女。後に旧薩摩藩国父の島津久光(のちに公爵)の養女)が
結婚。
その子供の小松輝久と
島津薫子(島津忠済の娘)が結婚。
つまり、島津富子さんは、島津とは血縁関係が
ないのですね。
篤姫は、薩摩藩島津家の一門今和泉島津家に生まれ、
島津本家の養女となり、更に五摂家筆頭近衛家の
養女として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府
第13代将軍・徳川家定御台所となった人物。
領主・島津忠剛。母は島津久丙の娘・お幸。
薩摩藩9代藩主・島津斉宣の孫である。
なので、島津家の女性たちで、際だっていたのが、
篤姫と香淳皇后(島津俔子の娘)良子(良子)
そして昭和天皇と香淳皇后の第5皇女子(第7子、末子)
貴子さん
第126代天皇・徳仁(今上天皇)と秋篠宮文仁親王の叔母。
第125代天皇・明仁(上皇)と常陸宮正仁親王の妹。
貴子さんが結婚したのが、島津久永さん
島津久永さんと貴子さんの長男禎久さんが
結婚したのが、カナダケベック出身の白人女性
カナダ在住なのです。
一男、一女に恵まれています。
なので、私が国際結婚してはいけないなんて
天皇陛下が命令するはずがないのです。
そんな高卒で一度も就職したことのない
落合弘美さんが、なぜそんな勘違いを
したのか??全然分かりません。
ただただ迷惑。
それは、虐待という犯罪なのです。
旧島津本邸(現清泉女子大学)
島津忠重の邸宅
島津忠重は、島津忠義の四男、第30代島津当主
姉は、邦彦王妃俔子、香淳皇后(良子ながこ)の伯父にあたる。
島津忠義の父は、島津久光は、29代当主(12代薩摩藩主)
久光の異母兄が島津斉彬
参考元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E9%87%8D#%E8%91%97%E6%9B%B8
このようなお屋敷には、住んだこと
ありませんけれど。
私の母方の家系図
私の高祖父 嶋津久右衛門
私の曾祖父 嶋津金重(三男)
私の祖父 嶋津甲子重(四男)
私の母 嶋津登喜子(三女)
嶋津家(島津)が、代々「久」「重」という
字を付けるのですよ。
なので、母の姉の長男は、渡辺重之
姉の夫 榊原雅彦も、嘘をついたのです。
徳川慶喜さんの末裔の榊原家では
ないのですよ!!!
それでいつの間にか「家族がつないだ画家の夢」
何て話にすり替わったのです。
とにかく、私には、何も相談もなく、無断ですべて
行ったことです。
そんなこと許されませんよ。
閉経するまで飼い殺し。卵子凍結もなし。
こんな甚だしい人権の侵害はありませんよ!!!
そんなことに同意する訳ないでしょう!!!
普通。
NHK「チコチャンに叱られる」だって何の相談もなく
いつの間にか。私に許可なんて取っていませんよ。
お金返して!!!
それで、お詫びの言葉一つないのですから。
失礼にも程があります。
参考元
そうなのです。
私たちも、本物の薩摩藩の島津家(嶋津)なのに
偽物呼ばわり、大嘘つき呼ばわりされていたのですよ!!!





















