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サボリ通信

大村幸太郎ブログ

  震災から12年経ちました。今何を書こうかと迷っている。 出てこないのだ。 12年経って何が書けるのだろうか。 記憶だけが残って、震災は過去のものになろうとしている。喉元過ぎればではないけれど少しずつ薄れていく。

震災に限らず最近まで騒いだマスクもそろそろ外しはじめている。 
 コロナももうすぐ過去のものになるだろう。

 震災にもコロナにも慣れてしまったのだ。 順応と言うには浅はかかもしれないけれど人間の慣れていく能力は本当にすごいと思う。一年、2年過ぎると苦しみや痛みにも慣れてしまう。それなりに過ごせるようになっていくのだ。 
 それは素晴らしくもあり、他方恐ろしいことにも思える。 

なぜなら地震のダメージは今も人を苦しめているし原子炉問題も解決したわけではない。  コロナで心身・生活・経済ともにダメージを受けた方も少なくはない。 そしてウクライナでの戦争はこれからも世界に悪影響を与え続けるだろう。問題は山積みだ。
 それでも時間の経過は人に順応を身につけさせる異常な状況下でもそれなりに過ごせるようになっている。 

でもそれは本当に慣れたということなのだろうか



 東日本大震災の時、僕は色々な人に出会った。災害時でも普通に話をしてくださったり会話の中に笑いがおきたりボランティアでいることを忘れる事もあった。
 一日の作業が終わると皆さんはそれぞれ今住む場所へと帰っていく。街の人も車も帰路を急ぐ。 家に帰って夕飯を食べ風呂に浸かり眠る。まがりなりにも新しい日常が根付きはじめていた。それは復興とも呼ばれはじめていた。

しかし元に戻ったわけではないし、生活に慣れたわけでもない、前を向いたわけでもなかった。みなさん悲しみと苦しみを持ちながら一日一日を生ききるように頑張っていた

"それでも、人生は続く" 

色々な人に出会って僕が教えていただいた言葉だ。
 誰かにとって何が幸せかはわからない。復興とは何をもってそういうのかわからない。 それでも朝が来て夜が来る。季節は変わる。暑くなり寒くなり温度を感じる自分がいる。

 全ては元に戻らないし時間を戻すこともできない。 悲しみや苦しみを拭い去ることはできない。 それでも歩いているのだ。 フラフラでもゆっくりでも、先がわからなくとも歩いている。 足もとにだけ見える花や草を摘みみなさんは今を歩いていた。

それはとても力強いものだった。
12年経ち足元の景色が少しでも明るく広く照らされているように。足取りが少しでも軽くなっていますように




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

暖かくなってきました。
 
 
桃の節句も終わって、残すは卒業・入学のシーズンです。 この季節がくる度に毎年子供たちに書いている絵本もそろそろ卒業かなと少し寂しい気持ちになります。

なんて言いながら毎回ネタ作りが大変で、
今回は本当にネタがなくギリギリまで思案していたところ、ある日の朝の通勤時間に風に飛ばされ転がっていたプラスチックゴミを拾ってゴミ置き場に戻した、その時にネタが浮かびました。 ネタなんてもうそんなもんです笑 
 逆に言えば何でもネタになるのでその辺の小さなものからお話しを考えてみるのも一興です。

それではまた 
卒業前のこの独特の季節感、何処か切なく良いんですよね


text/3/4/sat

 

 

二月となりました。
立春も過ぎ、暦の上では春。なんですがまだまだ寒い時期は続いています。みなさまは如何お過ごしでしょうか


 寒くてつい縮こまってしまう僕はそのせいなのか肩凝りがひどいです。。
寒い季節はやっぱり暖かいお風呂でリラックスするのが一番ですね

特に広い湯船の銭湯は湯治の意味も含めよく利用しています。

 銭湯の良さは僕が修行時代から勝手知ったるもの(風呂無し住み込みでした)その名残りで今も足を運ばせています。
たしかその頃はひとっ風呂340円でした。(現在は490円)

10枚綴りのチケットを買えばおまけに1枚付いてくるので大体一か月10000円くらいがお風呂代でした。内風呂から考えると贅沢なんですがこれがまた広い風呂に通い出だすとやめられず、むしろ安いくらいに感じます。

サウナもあるしジェットもあるし顔馴染みも出来るし、雰囲気や空間の共有もリラックス効果に実は繋がっているんですよね。

 暖簾をくぐると必ずいるおじいちゃん、一日おきに入りに来る労働者、毎日下の毛を剃ってるオッサンなど、僕の馴染みはそんな感じでした。毎日顔合わす人がある日いなかったりすると他人ながら妙に気になるもので、なんかあったんか?なんて勝手に心配して
翌日現れたら安心する銭湯ニズムが出来ていました。
あの空間の共有は不思議です。

 僕は19:30〜20:00がマイ銭湯タイムで、最初に下の毛剃り終わったオッサンと入れ違いで入浴し、そのうちじいちゃんが上がって、労働者が上がって、お父さんと中学生くらいの息子さん親子が上がって、僕が上がるというのがルーティンでした。 

 ある日のこと、下の毛のオッサンやじいちゃんが上がったあといつもの親子も上がるはずなのですが、、何故かその日は父親が先に上がって息子さんはずっと湯に浸かっていました。 
 まあ、たまには長湯したい日もあるだろうな、と一応僕も礼儀をわきまえ息子さんの後に上がることにしました。

が10分経っても20分経っても息子さんは上がらず、
流石におかしいと思って僕も半分フラフラ状態なりながら様子伺っていたら息子さんも完全湯船から出ていて、というか若干のぼせてる感じなんです。 
 おいおい早く上がらんかい-  もうこの時間は上がって帰ってる頃やろ、思いながらガラス隔てた脱衣所のお父さんにも無言で呼びかけたのですが、、お父さんは座ったままずっと新聞読んでいます。明らかにおかしな長湯。
 -これはどういうことなのか、

よくよく息子さんの様子を見ていたらチラチラ脱衣所の方を見ていて、その先には女の子が番台に座っていました。
 ここの銭湯は夕飯か所用の時は番台の親父さんの代わりにおかみさんが座っているのですが、多分その日はおかみさんも会合か寄り合いだったのでしょう。 娘さんが当番だったのです。
 その子も中学生くらいで近所の多分同じ地区の学校だと思います。なるほど、これは息子さんも上がるに上がれずなのが分かります。 その動きが失礼ながら面白くて何というか青春を感じました。

 そんな思春期の息子さんを見守る多分湯冷めしたお父さんも良い感じで、何かみていてほっこりします。
 よし、これは私も最後まで見届けようと空間を共有する一人のキャストとしてあくまで長湯の客に徹することにしました。  

 やがて番台が親父さんに変わって女の子がいなくなるとサッと息子さんは上がってゆき、案の定父親も何も言わず一緒に帰っていくのでした。

 僕は大分のぼせて脱衣所でグッタリしながらも一つのドラマを見させてもらったようで、ハニップCうめ(プラム食品株式会社/うまい)を飲みながらやっぱ銭湯はいいなと再確認していました。

時々こうしたドラマがあるのが銭湯。 地元通のネイティブな銭湯はとくにいいです。ドラマは他にもいろいろありました。

 実はこの話を書く前久しぶりに温まろうと北大路にある地元銭湯に行ったのですが、、なんと休業中でした。。
 廃業ではないけれど舞台はまた一つ消えていくような感じがしてこの思い出話にふけったのでした。 

 

 

 

  

 

 

 

 


時代の流れもあるのだろうけれどなんか、本当に面白い文化はこんなローカルに転がっていると僕は思っていてそんな面白いものが最近はどんどん薄くなってきているように感じます。 
 今のうちに見ておきたい、そんな遺産めぐりの僕の湯まわりもちょっとピッチを上げないといけないかもしれません。


text/2/8/Tue.