「徳川家家臣に新田伝承をもつ者が多い理由」 質問に答える
九段で働くママ様から「徳川・松平家の家臣に南朝・新田氏に関係の深い家系が多い理由」を質問されましたので、少しだけ答えたいと思います。
これは歴史ミステリー小説「東毛奇談」の「第三章徳川改姓のこと」で書きました。内容的には煎本増夫氏の『戦国時代の徳川氏』からの引用で、徳川家臣団と南朝との関係が詳しく書かれていました。そこから抜粋してみましょう。
①天野氏……家康時代に康景は三河三奉行の一人と呼ばれた譜代家臣。天野氏は南朝に仕え、秋葉山要害地に城を築き、宗良親王を守護した。その後三河国額田郡中山荘へ移動。
②荒井氏……新田始祖の義重のときに上野国大間々の新田領地を管理していた。新田宗家が滅亡するまで付き従い、その後三河へ移住。松平・徳川の旗本となった。この系統から新井白石が出る。
③青山氏……新田氏族や南朝・尹良親王に従った。その後三河国碧海郡に浪人として入国。青山氏の出身地は、上野国吾妻郡青山、今でも青山屋敷跡が残っている。
④奥平氏……出身地は上野国奥平郷(現 多野郡吉井町)。新田・南朝方に味方し、三河に隠れ住む。吉井町には奥平氏の菩提寺・仁叟寺と屋敷跡がある。奥平氏は一時武田家に仕え、その後家康に内通して徳川家に仕えることになる。
⑤成瀬氏……松平家始祖の親氏からの家臣。三河国上平村に住む。上平村は信濃・伊那街道に通じて、今朝村、平村村、足助村へと続く。足助村が南朝の拠点であることは述べた。しかも足助八幡宮には、徳阿弥(松平親氏)の筆とされる大般若経が所蔵されている。
⑥そのほかにも、三河譜代(松平時代からの家臣)で新田・南朝の伝承を持つ家臣は、柴田氏(小笠原氏と祖は同じ)、林氏、高力氏など多数に及ぶ。
ここまでをまとめると、松平家に仕えた家臣は、
1に新田・南朝と関係がある。
2に多くが関東特に上野国からの移住している。
3にその経路が伊那街道を抜け足助に至り、そこから東三河の山間に入っている。
4に松平親氏のように浪人であった者が多い。
それに、酒井氏……酒井家と松平家の祖は、元々同じで、松平親氏・徳阿弥である。この徳阿弥とは、新田義重の四男義季の子孫である。義季は世良田家の始祖であり、得川郷にも領地があったため『得川殿』とも呼ばれた人物である。その六代後が世良田政義で、新田義貞と行動をともにする。そして政義の三代後が世良田(徳川)親氏、つまり徳阿弥である。親氏は、永亨の乱で鎌倉公方足利持氏に味方し、敗れた。室町幕府の追及が厳しく、親氏は、時宗の僧に身をつやして、諸国を巡り、三河に流れ付くと、酒井郷の土豪に養子に入って、そこで生まれたのが酒井家の祖となる広親である。その後親氏は、妻がなくなったために、松平郷に移り、松平信重のところに婿に入る。そこから九代目が家康となる。つまり酒井家と松平家は同系となる。そして家康の時代、酒井家は酒井忠次であり、徳川四天王といわれ、家康家臣の中でも一番の重臣であった。だから酒井家は源氏を名乗っています。
②井伊家……井伊家は遠江国井伊谷城主であった。南北朝時代には後醍醐天皇の子・宗良親王が東下した際、ここを南朝拠点として戦った。宗良親王は、その後信濃大河原城へ行くが、井伊家は南朝方として足利と戦う。宗良親王が没すると、井伊家菩提寺・龍潭寺に祀ったのである。井伊家の南朝寄りはこれだけでもわかる。
南朝衰微後、井伊家は今川家に屈してその家臣となる。井伊直政のときに家康の小姓として仕え、この後頭角を現して徳川四天王の一人となり、家康関東入国の地割りでは、家臣一番の所領である上野箕輪城十二万石を賜った。また直政は、武田遺臣を引き継ぎ『赤備え』の最強軍団を率いた。
ここで一つの疑問が湧く。なぜ家康は、新参家臣の直政に甲斐の武田遺臣をつけたのだろうか。井伊家の伝承に、武田遺臣たちが引き付けられたというのは考え過ぎだろうか。武田家と徳川家は反目し合っていたが、なぜか結び付くものも多い。家康が信玄を尊敬していたこともあるが、武田家が滅んだ後に多くの家臣を召抱えた。(大久保長安など) そして武田家から徳川家に仕えたものも多い(天海、奥平家など) また武田へ内通していたかどで、殺された家康嫡男の信康や正室の築山殿、なぜか内通を疑われるのは武田家が多い。しかも武田家が滅んだあとに、徳川の軍法を武田流に変えてしまった。武田家と徳川家になにか結びつけるものがあったのか。一つ考えられるのは、武田家の領地である甲斐・信濃にまたがる銀山、鉱山である。信玄はこれらにかなり力を注いでいた。山の民、百足といったキーワードがこの結び付きを解く鍵になるだろう。 (ここから家康、信玄親子説が出てきたとも言える)
③大久保家……大久保家は家康時代に、忠世や忠隣を出し、一族の武功は三河武士の見本とまで云われた。また一族の忠誠心は家臣の中で群を抜くほどで、三河国を二分した一向一揆でも一族の誰一人も家康を背くことはなかった。その大久保家であるが祖先は宇都宮氏の庶流で南北朝時代は新田方についた。(本家は足利方)
大久保泰藤は新田義貞が討たれるまで付き添い戦っていた。が、京都に義貞の首が晒されているのを知ると、足利方の警護の目を掻い潜り義貞の首を密かに持って逃げたという。そして、三河和田町に隠れ住み、義貞の首を妙国寺に祀った。その妙国寺が大久保家の菩提寺となった。その妙国寺は、松平家の本拠地である愛知県岡崎市にある』
というわけで、徳川家の家臣は競うように、昔から徳川・松平家に仕えていたこと、かつては新田方、南朝方であったことを喧伝します。
なぜでしょうか。
それは仕えていたのが、昔であればあるほど、徳川家に忠誠心があるということになって箔がつくからです。「我らは松平家○○の時代からの譜代である」と各々譜代大名は名誉にしていました。だから競うように新田伝承や南朝伝説を我がもののようにしたのです。
では、それらの伝承を徳川家臣らはどこから引っ張ってきたのでしょうか。伝承、伝説、系図がいきなり現れることはないので、それらを橋渡しした者がいたはずなのです。
その謎は奥三河にあり、そこに登場してくるのが「児島高徳とその子孫」ではないかということです。
まあそれは、小説の方で。
第三章から入れます。http://daikiti431.blog112.fc2.com/blog-entry-54.html
大発見。国宝・挂甲の武人埴輪は誰かと戦っていた!
「大徳川展」を見てから、本館の方へ移動。「考古遺物」を見に行く。今回の上京の目的は「新田肩衝」を見ることと、埴輪「挂甲の武人」を見ること。
本館の方は静かでした。特に考古の遺物がある場所は人もまばらだった。今どき「考古学」もないだろうというぐらい、閑散としてましたね。大徳川展は大変な賑わいであったが、そのギャップが凄すぎる。
しかし埴輪を前にした私の心中は最高潮に達していた。ディズニーランドではしゃぐ女子中学生くらいハイテンションでした。(もちろん、嬌声を上げたりはしませんが)
「遮光器土偶」や埴輪「踊る人」「腰かける巫女」「犬」「馬」などを見て、まさに感激の連続。
大徳川展の「作られた美」、「仰々しいもの」を見た後なので、余計にプリミティブな美に感動してしまった。
また埴輪の良さはそこにユーモラスなことが感じられることでしょう。
縄文・弥生時代にも「芸術家」がいたんでしょうね。これらをどんな状況で、どんな心境で作ったのかを想像するのがとても楽しい。埴輪を学問的に見れば、古墳の装飾、儀式や呪術的要素と解説されるでしょう。しかしそれだけではない。このユーモラスな造形に「芸術家の遊び心」を感じてしまうのです。
「犬」「馬」なんてそんな感じですね。
当時の人々は、これらの埴輪を見てなんて言ったのでしょうか。子供らは「かわいい」とか言ったのでしょうか。子供の感受性はそれほど変わらないだろうから、この滑稽かつ素朴な形を、素直に喜んだでしょう。
また当時にも知りたかぶっりの人がいたでしょうから「特徴をとらえてますな」なんていったかもしれません。まあ当時の人々がどんな言葉を使っていたのかは分りませんが、人間の本質なんてそんなに変化はないでしょうから、今の人々とそんな変化のないことを言っているでしょう。
これらの埴輪は私たちを見て「千何百年経っても同じようなこと言ってら」と思っているかもしれません。
そんなことを考えるていると、とても感慨深いです。
さて、「挂甲の武人」ですが、これも前、横、後ろから、果ては下から覗くように、じっくりと鑑賞した。大賑わいの「新田肩衝」や「初花」とは違い、後ろからせっつかれる心配がないから、見放題ですよ。
そして、後ろから見ていて、ある「発見」をした。
後ろに背負っている矢を入れる武具だが、(この名称がわからない) この中の矢が1本足りない。4本ほど矢はあるが、あるべきはすの矢が1本だけないのである。確実にそこには矢があったはずで、そこに矢があったという跡はくっきりと残っている。
これは発掘したときにはなかったのか。それとも取れてなくなったのか。
あるいは元々、矢はそこにはないのか。「1本ない」ことを作者が意図して、これは制作したものなのか。
もし作者がそう意図したものならば「この武人は矢を1本放った」ことになる。
そこで、この武人埴輪をよく見れば、太刀に手をかけて、今にも抜こうと構えている姿だ。
顔が無表情だから分らないが、これは、まさに今戦おうとしている姿だということになる。
やはり、この武人は矢を放ち、太刀を抜き、敵と戦っている一瞬をとらえたものだ。
そう考えたい。
いやそうであった方が、この武人埴輪が作られた意味が一層深くなるだろう。
というわけでこれが私の大発見。 っていうか勝手な想像か?
追記 「大魔神」が再映画化されるらしい。角川映画制作で2008年夏に公開予定。監督は「ゼブラーマン」「妖怪大戦争」などの三池崇史。
ただし、計画段階らしいので、企画がポシャル可能性もある。
2000年に筒井康隆の脚本で再映画化される話があったが、これは頓挫してしまった。
のちに脚本が本として出版された。
さて今回は映画化されるでしょうか。
大魔神と武人埴輪の関係は前の記事で。http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-179.html
遂に「新田肩衝」とご対面。これも一種の「愛」なのか? 大徳川展にて。
11月3日に東京国立博物館「大徳川展」に行ってきました。
そしてついに「新田肩衝」を見ました。
いままで散々書きつつづけてきて「やっとかよ」と突っ込まれそうですが、これまでなかなか行く機会がなかった。茶器類は11月4日までということなので、まさにギリギリでした。
「新田肩衝」を水戸の徳川博物館では見ることが出来なかったから、10年越しで初対面ということになった。
とにかく博物館は凄い込みよようで、上野動物園なみだった。
じっくりと展示物を見ることが出来ずに、人波に押されるように順路を進み、ついに「格式の美」のコーナーへ。目的の場所はすでに黒山のような人だかりだった。それを器用にすり抜け展示物の前に出る。
おーこれが夢にまで見た「にったかたつき」
感慨無量だった。事実、思い入れが強かったので涙がこぼれそうでもあった。(本当ですよ)
まあ博物館で茶器を見て泣いている人なんていないでしょうね。こんなところで号泣でもしていたら、変態だと思われるでしょう。
もう、涙目でかぶりつくように見た。前から横から後ろから。あまりにも、ガラスに張り付いて10分くらい見ていたので、「ガラスには手を触れないでください」「見た方は前にお進みください」と学芸員の方に言われてしまった。手をガラスにつけてはいなかったんですけどね。
見た感想は「思っていたよりも小さい」「実物は銀色」だった。大坂城から焼け出され修復された箇所もよくわかった。来歴等などはこちら
説明書きには千利休が「天下一品の茶器と称した」と書いてありましたね。
千利休は新田源氏(里見氏の田中姓)ですから、やはり因果を感じます。
「初花」も色合いに品があってよかったです。もし、新田肩衝の来歴を知らなかったら、初花の方に趣を感じていたかもしれない。
とにかく博覧会は凄い混んでいて、他のものは余り見ることが出来なかった。残念。
で、帰りに「新田肩衝」の絵はがきとペンのセット350円を買いました。
さて、この絵ハガキを誰に書きましょうか。
やはり新田源氏の生まれ変わりだと(勝手に)思っている斎藤佑樹くんに「優勝おめでとう」の絵ハガキでも送りましょうか。とは言ってもどこへ送ったらいいのか分りませんが……。(もちろん冗談です)
次回は、武人埴輪と感激の対面です(笑)
自作小説の舞台地を訪ねる3。日枝神社編と徳川家康はなぜ新田源氏を名乗ったのか
自分で書いた「小説」に登場した場所を再び訪ねてみた。その3
愛宕神社から直線距離にして1・5km。30分ほどゆっくり歩いて日枝神社に着いた。
自作の小説の登場人物と同じように歩いて行く。
首相官邸や国会議事堂が近くなので、警視庁の警官や装甲車があちこちにあって物々しかった。スーツ姿の人が多く、やはり、上野公園とは違う。どこか冷めた感じのする街だ。
その中にある日枝神社は異質な空間だった。
雑多な印象の愛宕神社とはまた違った、超然とした世界である。真新しい社殿に、整然とした境内、どこか引き締まった、稟とした雰囲気がある。これもある意味「赤坂」という町の特色を表しているといえるのかもしれない。
日枝神社は、江戸時代まで山王様と呼ばれ、今でもその名が通る。「ひえ」は日枝、日吉のことで京都比叡山の日吉神社のことである。もともと川越の日吉神社は太田道灌が勧請したのが始まりで、江戸時代に天海が日吉神道である山王一実神道を広めたことにより、この日枝神社も隆盛を極めた。
よって山王権現の氏子の地域は広い。南は芝町、西は麹町、東は霊厳小網町あたりまで、北は神田と百六十町にも及ぶ。神田明神と隔年で行われる天下祭りには、壮麗な山車が半蔵門から江戸城に入ることが許され、徳川将軍が吹上で上覧したという。
日枝神社の特色は神門に猿の姿をした像があることだ。翁と嫗の衣装をつけた神猿が安置されている。また本殿前の両側には、狛犬の替わりに猿の置物が構えている。古くから山王権現の使いは猿であるといわれているのでこうゆう形になった。また山王権現の山王とはずばり山の神ということである。
日吉神社、天台宗は新田氏と徳川・松平氏を結びつける重要なものである、と私は考えている。
「太平記巻十七」に義貞が一人で日吉神社を参詣した話が出てくる。足利尊氏との戦に破れ、後醍醐天皇に捨てられ、北陸落ちする直前の出来事だ。
そのときに奉った願文が、私が「東毛奇談」を書く切っ掛けとなった。
『願ワクバ往路万里ノ末マデモ擁護ノ御眦ヲ巡ラサレ、再度大軍ヲ起コシテ朝敵ヲ滅ボス力ヲ加エ給エ、我レ、タトエ不幸ニシテ命ノウチニ此ノ望ミヲ達セズトユウトモ、子孫ノ中ニ必ズ大軍ヲ起ス者アッテ、父祖ノ屍ヲ清メン事ヲ請ウ』
現代語訳『いやしくもこれまでの私は、濁世に示された御仏の御願にすがって日々を送り、仏法に反する戦をしながらも、仏道にはいる因縁を結んで日もすでに久しくなります。願わくば、遠く征戦の路の果てまで神の御加護をお与えくださり、ふたたび大軍を起こして朝敵を滅ぼす力をお与えくださいますように。不幸にしてたとえ私の存命中にこの願いを達することがなかったとしても、我が祈念の心が神の御心にかなうならば、必ずや子孫のうちに大軍を起こす者が現れて、父祖の屍の無念を晴らしてくれることを請い願います。このふたつの願いのうちひとつでも達することができましたら、わが子孫は末永く当社の檀那となって、霊神の御威光を輝かすようにいたしましょう』
信心を込めてこのように誓いを立てて、義貞は新田家重代の家宝で鬼切という太刀を社前に奉納した、という。(実際は刀ではなく兜。しかし、鬼切と記述した太平記に何らかに意図を感ずる)
徳川家康は曲がりなりにも「新田源氏」を名乗り、将軍職を得て、天下を治めた。
そして、松平家とは何の関係もなかった天台宗が、江戸時代に隆盛を極める。
(徳川家の家紋と新田氏の家紋が並立している。群馬県世良田の長楽寺より)
東京国立博物館で開催されている「大徳川展」の展示物「寛永諸家系図」を見たが「源氏新田流」「世良田次郎三郎」の記述を確認することができる。また展示物「徳川家康任征夷大将軍宣旨」にも源氏長者の旨が書かれている。
徳川家が源氏を名乗ったことは、彼らに絶大なる利益をもたらした。
徳川家が源氏ではないことは分かっているし、詐称していることは当時の人にも分かりきっていた。しかも、現代でも「僭称」ばかりに注目がいっている。歴史を扱った本、歴史のブログでも「嘘をついている」「名門の名が欲しくて偽称した」「バレバレです」なんていう記事が多い。
その点だけを突くのは浅慮だ。
なぜ多くある源氏の中から「新田源氏」を名乗ったのか。
どこから「新田源氏」であるという系図や証拠を揃えたのか。
家康の祖父・清康がすでに「世良田」氏を名乗っているのはなぜか。
徳川・松平家の家臣に南朝・新田氏に関係の深い家系が多いのはなぜか。(天野氏・青山氏・荒井氏・奥平氏・成瀬氏・そして、酒井氏、大久保氏など)
などなど、徳川家康がなぜ新田源氏を名乗ったのかという問題を軽く見てはいけないのだ。
これら詳しくはここ
で書いているので今回は割愛する。
さて、遂に「新田肩衝」にご対面したので、次回書きます。
自作小説の舞台地を訪ねる2。 愛宕神社編
自分で書いた「小説」に登場した場所を再び訪ねてみた。
①「愛宕神社」
東京都港区にある愛宕神社は、1603年家康の命により、京の愛宕神社から勧請された。神社が建立された場所は標高26mの小高い山である。上野山で海抜18m、湯島台でも22mであるから、江戸時代には江戸湾を望み、江戸で一番の眺望の地であったという。
『江戸名所図絵』によれば「……見落とせば三条九陌の万戸千門は甍をつらぬいて所せく、海水は渺焉とひらけて千里の風光を貯へ、尤も美景の地なり」とその絶景を讃えている。京の愛宕山からは都が一望できるが、江戸でも同じ眺望のよい場所という理由から、この小高い山に愛宕神社が勧請されたのでしょう。
愛宕神社の印象は、こじんまりとした社であるが、高台に凝縮された鎮守の森といった感じがした。神さまを祀る「聖域」というよりも「荒神のおわす場所」といった雰囲気だ。
やはり、神よりも天狗を感じる。
「永谷園」が氏子総代になっているらしい。石柱に会長以下一族の名前があった。
自作の歴史ミステリー小説「東毛奇談」第4章では、男女2人が「本能寺の変」の謎を解こう東京の各地を訪ね、語り合います。
登場人物の一人は「真船千太」。群馬県地方新聞社の文化部記者で、地元の偉人や歴史を書いているという設定。よって新田一族にも詳しいということにしました。
もう一人は「龍舞琴音」でテレビのクイズ番組のスタッフ。問題を作ったり、資料集めをする「リサーチャー」という職に設定した。安直な設定かと思われるが、これは、後に「徳川埋蔵金」の謎に迫るという章があるので、これについて詳細に調べられることができる立場ということで、この職業にした。番組はTBSの「世界ふしぎ発見」をイメージしている。実際に「徳川埋蔵金」や「天海」など日本の歴史の謎も多く取り上げている。それに、愛宕神社や日枝神社はTBSの近くということもあって、設定としてはこれでいいかな、と思った。
ある程度、歴史の知識や調査することを職業にしていないと、人物設定としては違和感が生じてしまう。そのあたりの辻褄合わせで「地方紙文化部の新聞記者」「歴史教養のテレビ番組のスタッフ」ということにしてみたのだ。
創作活動で楽しいのは、こういった設定を考えること。考えた登場人物と実際の俳優を重ねたりすると、それはそれで楽しいです。まあ、プロ作家ではないんで、縛りはないから自由ですよね。
で、小説の中から愛宕神社での会話を少し載せます。
「それだけじゃない。愛宕には日本一の天狗がいるからさ」
「今度は天狗」
「まだまだ。愛宕山には、この世に恨みを残して死んだ政争の敗者たちが、変わり果てた姿となり、一大政変を起こそうと日夜謀議を重ねる場所なのさ。時代の波に翻弄され失意のうちにこの世を去り、死してなお現世に反乱を企む怨霊たち。崇徳上皇・源為朝・井上皇后・後鳥羽天皇、それに後醍醐天皇などが怨霊となり、天下が乱れることを望んで雲集してくる。まさに、光秀は一大政変を起こそうというときに、ここで誓いを立てたのである。この意味は大きい。これはただの戦勝祈願で、愛宕山に参詣しにきたという長閑な話ではないのだ。このときの光秀の心境を想えばいかばかりであったろう。愛宕の社殿を拝みながら、光秀自身も怨霊や天狗になってしまうのではないかと思ったろう。事実光秀も失意の内に死んでいったからね」
「そう京の愛宕山は、京都中部の丹波高原の山で標高924m。愛宕権現太郎坊と呼ばれ天狗の姿で立ち現れる、権現信仰が盛んで勝軍地蔵が祀られている。中世には修験道の修行の場となっていた。勝軍地蔵というのは、地蔵の姿をした軍神で、将軍と勝軍とが同じ響きであることから、武士たちに崇められてきた。したがって愛宕神社=勝軍地蔵ととらえられている。ここにある愛宕神社は、家康が、京都から勧請したものだ」
といった感じです。
次は日枝神社へ行きます。



