名作と名高い鮎川哲也 さんの『黒いトランク』です。
本作は『鮎川哲也』としての、そして後にシリーズ化しTVドラマにもなった
鬼貫警部のデビュー作でもあります。
発表されたのが半世紀以上前の1956年で、それより前に原型は出来ていたらしいので
当然作品内の世界は今とはかなり異なり、本作ではまだ国内便が飛んでいません。
人や社会といった描写の至る所で今とのギャップを感じるのですが、
それがまた味わい深さとなっていて、古臭いというマイナスイメージにはなりません。
冒頭では汐留(新橋)の歴史、中盤では北原白秋について等、
勉強になる知識が厭味にならずに盛り込まれているのも魅力でしょう。
さて、内容はというと汐留駅に死体が詰められたトランクが届く場面から始まります。
読み始めて数ページでいきなり死体が登場というハイペースです。
私が読んだ他の鬼貫シリーズもそうなんですが、
“事件までがプロローグ”ではなく“鬼貫警部の登場までがプロローグ”なので
事件発生自体は早く、スッと話に入っていきやすいです。
そこからはゆっくりと進行していきます。
短期間のうちに事件が解決するクローズド・サークル物と違って
時間を掛けながら刑事が“足で”情報を獲得し、少しずつ新事実が明かされていきます。
これがまた上手に書かれていて、情報を得ては壁にぶつかり、なかなか
真相には近づけないものの、場面ごとに何が重要なのか・何が目的の捜査なのかが
明示されているので、飽きる事無く一つずつ処理しながら読む事が出来ます。
勿論鮎川さんの代名詞とも言える時刻表を用いた鉄道のアリバイトリックも登場します。
以前私はこれが苦手と書きましたが、そういった方も心配は無用です。
当然このアリバイ崩しは重要なのですが、それが全てではなく
時刻表以外の部分にもポイントはありますし、アリバイトリック以外の事も
解き明かさないと解決には至りません。
なので時刻表をすっ飛ばしたとしても楽しめるハズです。
途中トランクに関してはかなりややこしく、メモの容易をしたのですが
作中に丁寧に表が載せられている親切設計なので電車の中でも布団の中でも大丈夫です。
鬼貫警部と共に謎を解き明かしてみましょう!
『黒いトランク』は今までに様々な出版社から数多くのバージョンが発刊されています。
私が読んだのは2002年に東京創元社から出版された物です。(上画像の表紙)
この作品は出版される毎にかなり加筆・修正が為されたらしく、
創元社文庫の物は鮎川さんと東京創元社の戸川安宣さんで作り上げた
各版の良いとこ取りもとい決定版とも言える様です。
また、巻末には作品を書く契機や執筆中、執筆後の様子を鮎川さん自身が振り返った
『創作ノート』と、戸川安宣さん・北村薫さん・有栖川有栖 さんの三方による
『解説鼎談』が掲載されており、この作品や鮎川さんについて興味深い内容が
書かれているので、既に他版を読了済みの方も改めて読んでみては如何でしょうか。
ネタバレ感想
例の如く、推理小説のお手本の様な作品という印象を受けました。
これがキャリア初期の作品とはさすがですね。
やはり全体の雰囲気がとても落ち着いていて、上品です。
表現一つを取っても言葉が選び抜かれていて、
とても文学的で情緒豊かな文章が並んでいます。
作品の最後に鬼貫警部が独身を貫く理由を語る場面なんかは
感慨深いモノがあります。
ミステリ部分に目を向けると、今回はミステリの基本がポイントになっていたと思います。
“見た目がそっくりの二つの物”・“服装でしか認識されていない謎の人物”
これ等が出てきたら入れ替えを疑うべし!というヤツです。
更にトランクの入れ替えに関しても“最初から入れ替わっていた”という
入れ替えについて考える時に忘れてはいけない定番の盲点でした。
私のミステリ力は初読で色々と見抜ける領域には程遠く、
今回も何一つ見抜く事は出来なかったのですが、
この作品を読んだ事でミステリ読者としての心得を再確認する事が出来ました。
次からはこうはいきません!
『綾辻行人 と有栖川有栖 のミステリ・ジョッキー』という、
ミステリ界の大御所お二方がミステリ小説を紹介しながら対談をする本がありまして、
そこでも“鮎川さんの作品は教科書の様だ”と書かれていました。
これは“作家として”という意味合いの言葉だったのですが、
“読者として”も鮎川さんの作品は教科書の様に思えます。
鮎川さんの作品を読む事でミステリ力をつけ、よりミステリを楽しめる様になりたいモノです。
