春から初夏に向かうこの時期、強すぎる風に辟易しながらも駅から歩く道が嫌いではない。
盛夏までのこの季節が長いのが東京。
田舎に比べれば明るいが、綺羅びやかな夜景に囲まれて働いていると、この道すがらも故郷を歩いているようだ。
階段を登り戸を開ける。
パタパタと子供の足音が近づいてくる。
風呂上がりの濡れた髪を拭うこともせず、屈託のない笑顔でやってくる。
風邪ひくよ、と妻の元へ追い立てながら長女の幼い頃に思いを馳せる。
歳の離れた妹が産まれるまで、天真爛漫で我が家のアイドルだった。
言ってきます、は泣き声で見送られ、帰ってくると犬のように足を踏み鳴らして抱きつく手を伸ばしてきたものだ。
妻は体があまり強くない。
ただいま、と声を掛ける。
髪をドライヤーで流しながら、目でおかえりと返事。
幼い娘が眠りに着くまでの、騒がしいこの時間はそれほど長く続かない。
何度近所迷惑と言っても歌うことを止めない長女の成長を見ながら、そう思う。
荷物を片付け、汗を流すと炭酸で喉を鳴らした。
「あなた、長女の饅頭食べた?」
ん?何のこと?この前貰ったのは食べたよ?
春になり、高校に進学した娘は遠足で饅頭を買ってきた。
自分の10代を振り返ると、チョイスが逆に現代風なのだろうか。
「無いんだって」
?
「無くなってるんだって」
噴き出すと、妻も合わせる。
甘いものに執着するのも、このくらいの世代だったかな。
記憶は薄れたが、そうだったかも知れない。
ドライヤーの音を掻き消す勢いで歌う娘に声をかけた。
たまにはお菓子を買いに行ってやるか。
このところめっきり一緒に出歩くことも無くなった長女。
歳の離れた妹というのは、可愛くもあるが複雑なようだ。
近所のスーパーまで、と言うとさらりとお洒落をして来た。
お腹空くよね。
お父さんもそうだったな。
食べかすを見つからないように、壁の穴に隠したりとか。
カロリーメイトやアンパン的な物を買うかと思うと、お菓子の方が多い。
まだまだ子供だな。
その日は珍しく忙しかった。
ネクタイを緩め、いつもの道を駅から帰る。
風が少し生暖かくなってきた。
雨が近いのか?
物音を恐れ、そっとドアを開ける。
遅く帰ると娘たちの出迎えは無い。
「パパ?パイの実食べた?」
ん?
「無いの」
ん??
長女曰くお菓子が無いらしい。
いや、食べるならば自分で買うが。
妻に聞くと弁当と一緒に流し込むようにバッグに入れて学校に行っているらしい。
雑な娘に育ったものだ。
テーブルに座る場所、コップの位置、常に同じでないと嫌だった長女。
今では教科書も床に積み上げている。
さすがに制服のスカートくらいは脱ぎ捨てないで欲しい。
また買ってあげる。
満面の笑顔で、ありがとう、バタンと閉まる扉。
「あんなに分からないものかな?」
寝ながら食べてるのかもね。
昔話が最高のツマミになってきたのは、喜ばしい老いだ。
未来が育つことこそ、親の願いだ。
クールビズと言う単語が、一気に普遍的となったあの3.11を境に身近になったこの街。
ネクタイを緩めれば、初夏でもまだまだ春気分。
日も長くなり、夕刻が好きになる時期だ。
スーパー以外には灯りも殆どない道を歩く。
人とすれ違うこともまばら。
今日こそは赤ちょうちんを潜ろうか、と頭をよぎる。
「おかえり〜」走って娘がやって来る。
他愛もない話に頬が緩む。
革靴を脱ぐと靴下に汗を感じて不快だが、荷物を片付けに家に入った。
「パパ、じゃがりこ開けた?」
へ?どういうこと?
「何かね。開いてたの」
買った時から、と言うこと…?
記憶を辿る。
あの日、三女が欲しいと言ったじゃがりこを買った。
お姉ちゃんの分も買いな、ともう一つ買った。
そう言えば、三女は落とした。
あの衝撃か?
いや、エコバッグに詰めた時、確かに2つ重ねた。
開いていなかったはずだ。
5kgの米、牛乳4本、炭酸水2本。
確かに圧迫はされていたかも知れない。
数日前まで感じていた初夏も、日中はさながら盛夏となってきた。
時の流れは残酷で、いつかは故郷に錦を、という考えも失せてしまった。
この街で生きて、家族と過ごす日々も悪くない。
今日もパン屋は盛況だ。
郵便受けのダイヤルを回すと大手のかに料理チェーンのチラシが入っていた。
夏休みにはボーナスで行くかな。
捲ると回転寿司が目についた。
ドアを開けても誰も来ない。
娘達はテレビに夢中だった。
長女はどんな時も飛びついて来たものだ。
「ねえ、あなた」
ん?
「綿菓子食べてないよね?」
は?甘いよ。
妻によるとゴミ箱に綿菓子の空袋が入っていたらしい。
CMまで待って子供達が参戦。
二重奏で被害を訴える。
刹那、頭をよぎったのは長女だった。
部活でまだ帰っていない。
あの娘しかいない。
何かに気づいた妻がお菓子箱を開く。
次女「グミが無い」
何てことだ。
言えば買ってあげるのに、妹達のお菓子を食べたのか。
娘達を寝かしつけると、妻が呟く。
「育て方が悪かったのかな」
そんなことないよ。
我ながら虚しい気休めだな、と思いながらも言わずにはいられなかった。
汗を流してビールを飲む。
白米には青唐辛子のラー油を乗せた。
ミートボールにはホットソースを掛けると、ようやく食欲が出てきた。
ドアの音を鳴らして長女が帰宅した。
「お腹空いた〜」
だろうね。
妻と顔を見合わせる。
大事な話があるんだ。
「はぁ?何?」
綿菓子食べてないよね?
「何で?知らないよ?」
そうだよね。
たっぷり1時間湯に浸かり、これから1時間続くドライヤーの合間に声をかけた。
本当に知らないよね?
「知らないよ!」
前に饅頭無くなったよね?
「パパが犯人だと思ってる」
寝言の多い妻だが、さすがに寝ながらお菓子を食べるとは考えづらい。
本当に窃盗…?
タンス預金は…減っている。
使途を妻に問う。
しかし、当然の返しとして生活費だった。
釈然とはしないが、これ以上の詮索は厳しい。
明日は防犯カメラを設置しよう。
秋葉原まで行かずとも買えるはずだ。
意識は遠のいて行った。
「…なさい」
山道を歩いていると、足を滑らせた。
夢見心地で意識を半分飛ばすと、妻のようだった。
あぁ、今日は娘の検尿だった。
苦労してるな。
「…開けなさい!」
むにゃむにゃ、おやすみ。
「口を開けなさい!」
何だ?
「………!!」
強い口調で何かを言い放つと、妻が戻ってきた。
「食べてた」
?
「三女だった」
目は完全に覚めた。
〜エピローグ〜
放物線が途切れブランコが重量に引きつけられる。
ガシャンと音を立てた勢いを借りて、また弧を描く。
けたたましく笑いながら、そんな遊びを何度も繰り返す。
小学生の女の子達を眺めながら、順番を待つ三女。
あっちで遊ぼうか。
声を掛けると、名残惜しそうにしながら駆け出した。
季節は夏に様変わりし、半袖から伸びる腕はまだ白い。
長女は知り合いか否かなどに拘らず、勝手に遊びに参加する子だった。
「一緒に遊ぼう」
三女に女の子が声を掛けてきた。
恥ずかしそうに下を向く。
「一緒に遊ぼう」
2回目でやっと手を繋いだ。
楽しそうな笑顔は屈託なく、無邪気な様子が微笑ましい。
あの日、妻に捕らえられた三女は泣くばかりだった。
ちゃんとお姉ちゃんに謝るんだよ。
そう言うと、頷きながら「早く帰ってきて」と送り出してくれた。
あれから1週間、饅頭の行方は明らかになっていない。
パイの実は次女から、空いたビニールを三女の寝所で見たと報告があった。
妻は綿菓子を一気に食べたに違いないと言う。
幼い娘が高カロリーを摂取した後に、食事へ進むことは出来るのだろうか。
グミに至っては、一袋を口に頬張る訳にはいかない。
時間をかけて噛み締めていれば、気づかないのも難しい。
妻は疑いを払拭できず、繰り返し問い質した。
しかし証拠不十分のため、最終的に起訴は見送ることにした。
全ての答えが揃った訳では無いが、菓子泥棒はもう現れないだろう。
靴下を脱いで坂を登りだした三女を眺めながら、日差しに目を細めた。
※この話は若干フィクションです