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ポール・マッカートニー 語録

Paul McCartney In His Own Words

当ブログは公表された著作物の出所を明示した上で、
規定に従って正当な範囲内で引用しています。

 ポール・マッカートニーの『McCartney III』が

リリースされてから数日後の12月23日、

NMEのウェブサイトにアルバム全収録曲について

ポール本人が語ったコメントが掲載された。

 

各曲について、その制作経緯や背景を率直に語ってくれている。

 

以下、その和訳。

 

Long Tailed Winter Bird

「Long Tailed Winter Bird」は映画の音楽から始まったんだ。タイトルの由来は、それが引き延ばされて長い曲になったために、「長い尾っぽの冬鳥」と呼ぶことになった。実際に鳥類の

本の中で私は「長い尾をした冬のカモについての5つの事実」

というのを見たんだ。

 

Find My Way

ピアノで書き始めた曲で、車の中で思いついたアイデアが元に

なっている。車の中で音楽を聴いていたらラジオから好きな

ビートが流れていたので、それに合わせて歌い始めたんだけど、自分で言葉と曲調を作ってみた。車の中で歌い始めて、

家に帰ってからピアノで書いて、スタジオに持って行った。

実際には詩の部分に別のアイデアがあったんだけど、それが気に入らなかったから、最終的には新しいアイデアを入れたんだ。「you never used to be afraid of days like these」

という部分で、元のアイデアよりもずっと良かったと思うよ。

 

Pretty Boys

私は新聞である男性モデルの記事を読んだ。

その男性モデルたちはあまりにも攻撃的で少し虐待的な

カメラマンに悩まされていたんだ。そこでその男性モデルたちについての架空の物語を想像し始めた。ニューヨークの通りを

歩いていたとき、自転車のたくさんの列を見て、

「here come the pretty boys, objects of desire, a line of bicycles for hire」を思い付き、

「いいね、いいアイデアだ」と思ったよ。

つまりこの曲は、仕事を与えられる男性モデルたちの歌なんだ。

 

Women and Wives

ロサンゼルスにいた時に書いたんだけど、ちょうど

ブルース・アーティストのレッドベリーの本を読んでいた。

ブルージーな気分になろうと思って、ピアノで弾いて、簡単なコードを弾いて、私がブルージーだと思うイメージで歌い始めた。こうして出来上がって、イングランドに戻ってから

レコーディングしたんだ。

 

Lavatory Lil

「Lavatory Lil」はあなたが好きではない人、

仲良くなれなかった人のことで、

私たちの生活の中にはそういう人がたくさんいると思う。

だれか特定の人の事ではなくて架空のキャラクターなんだけど、誰かを「Lavatory Lil」と呼ぶのが気に入ったんだ。これは

ジョンの昔の曲「Polythene Pam」を思い起こさせるもので、

キャラクターについて途中まで仕上がったアイデアを取り出し、その人が何をしているか、どんな人なのかというフィクションを作り上げていくんだ。

 

Deep Deep Feeling

これはジャムのようなものから出来た曲なんだけど、

ある特定のムード、空っぽな空間が広がっているような

感じのムードにしたかった。いったんそれを作り上げて、

ヴォーカルをかぶせて、この歌が出来上がった。だからいくつ

かのアイデアをくっつけたものが8分間の曲になったんだ。

もっと短くて聞きやすい長さに編集しようと思っていたん

だけど、最後まで聴いてみたらとても気に入ったから、

8分間のままにしたよ。

 

Slidin'

「Slidin'」はドイツのデュッセルドルフで演奏していた時の

サウンドチェックのジャムから生まれた。サウンドチェックで

自分のギターをチェックしている時に何かを作ってみるのが

好きで、バンドが参加してくれて、音声担当が僕のギターの音を拾って、それを後にショーで使うことになるんだ。それで僕は

ジャムを始めたんだけど、気に入ったリフが出てきて、それを

発展させていって「これで何かを作らなくちゃ」と思った。

リフとして本当に気に入っていたし、頭の中に残っていたから、バンドと一緒に(2018年のアルバム)『Egypt Station』の

ためにレコーディングしたんだけど、うまくいかなかった。

半分くらい完成した状態で残っていたから、あちこち手を加えて歌詞をつけ、この曲が完成したってわけだ。

 

私にとっての「Slidin'」は・・オリンピックや冬季オリンピックのときにアナウンサーが「sliding」と言っているのを耳にする。彼らは「sliding」という言葉を言い続けているけど、それは

スノーボードやスキー、トボガンで滑ることを意味していた。

だから私はこうした競技すべてを指す名前としてとても優れて

いると思い、スノーボードやスキーの選手たちのことを

考え始めて、それがこの「Slidin'」という曲になったんだ。

 

The Kiss of Venus

友人が小さくてヒッピーな本をくれたんだけど、それは魅力的な本で、惑星や地球、金星、火星、月の動きについて書かれて

いる。その中には、時間をかけてすべての軌道を見てみると、

本当に魅力的なパターンが描かれていて、蓮の花のようなものもあって、なんだかすごい、魔法のような感じがするんだ。私は

この本に夢中になって、曲を作り始めていた時に読んでいた。

アイデアをこの本の中で探していたら、「ヴィーナスのキス」

というフレーズがあって、これは地球が金星に最も接近する時のことをヴィーナスのキスという、意味だったんだ。私は

「よし、これは歌のための素晴らしいアイデアだ」と思ったよ。

 

Seize The Day

農場の家でピアノを弾きながら書き始めた。何についての曲に

なるのかわからないまま言葉がこぼれ出るにまかせていたら、最終的には「Yankee toes and Eskimos can turn to frozen ice」というフレーズにたどり着いたんだ。これは何のことだ?

と思ったんだけど、歌詞はあまり深く考えすぎないほうがいい。だからすごい意味があるというよりも、ちょっとシュールな感じになってしまうんだ。とにかく、それがとても寒い日のことを

歌ったコーラスのところにつながって、「寒い季節になったら、その日を楽しもう」ということを思いついて、「carpe diem」(※訳注)の英語にあたる「Seize The Day」という歌に

なったんだ。

※訳注:ローマの詩人ホラティウスの詩に登場する語句。

「一日の花を摘め」の意味。

 

Deep Down

あれはただのジャムだったんだ。気に入ったビートとコードが

あったけど、大したアイデアはなかった。でも「深いところへ、深いところに潜りたい」という言葉がアイデアとしてあったんだ。君と深い関係を持ちたいとか、そういうこと以外は自分でも「deep down」が何を意味するかよくわからなかったから、

ただひたすらそれを続けていた。曲によっては、自分がどこに

向かって作っているのかよくわからないこともあるものだよ。

途中までのアイデアしかなくて、ただただグルーヴを楽しんで

いるだけで、これもそんな曲の一つだった。作っているうちに

アイデアが浮かんできたんだ。

 

Winter Bird/When Winter Comes

「Winter Bird」が目的でスタジオに入り、まず最初に短編映画のオープニングタイトルを少しやって、それからエンドタイトル、クレジット、そしてもう一つの小さなインストゥルメンタル曲をやっていたんだ。これがとても気に入ったので、1分に満たない長さの映画音楽を完成させた後、「よし、このまま続けよう」と思って同じアイデアでジャムを始め、それを長くして

いってギターとドラムとベースを乗せてみたんだ。

 

とにかく映画用の小品から始まってこれを引き延ばしていったんだ。そしてこれを「Winter Bird」と呼んでいたんだけど、

その映画は「When Winter Comes」という曲についての

短編アニメーション映画のために作られたものだったから、

これで全部が一周したことになる。だから、アルバムの最初から最後までやってきて、全体の始まりとなった曲があって、

それが「When Winter Comes」なんだ。

 

この曲は、農場でのヒッピーのような生き方 - 木を植えたり、

フェンスを修理したりと、穏やかな生活を送っている様子 - 

を理想的に表現したものだ。つまり、僕は自然が好きだし、

腰を下ろして泥作業をするみたいなことが好きで、この曲は

そういう生活についての曲だし、アルバムの最後のトラックに

なったんだ。

 

2021-01-01 ロックの歴史を追いかける

( 23rd December 2020 Paul McCartney: read the exclusive track-by-track story of‘McCartney III’ )

 ポール・マッカートニーが2013年11月に来日した際、

イギリスの新聞「The Daily Telegraph」紙が東京ドームの

控え室で取材を行い、ポールについての特集記事を掲載した。

 

その記事には、ポールのパーソナル・アシスタントと

楽器のローディーを長年務めてきたジョン・ハンメル氏への

短いインタビューが含まれている。

 

このインタビューでは、ポールが現在し使用している楽器に

ついてごく簡単にではあるが説明がされていて、興味深い。

 

以下、その和訳。

 

東京ドームのステージは準備が整い、コンサートの開始まで

1時間を切った。5万人のファンはすでに座席につき、コンサート前のうきうきした雰囲気は徐々に盛り上がりを見せている。

 

サー・ポール・マッカートニーの長年のアシスタントで

ギター・ローディーのジョン・ハンメルは、

自分のボスの仕事道具の詳細を説明してくれた。

 

「これが「Taxman」のギターソロを弾いたときのエピフォン。そしてこれが1963年製のヘフナーだ」

とハンメルはこのベースを器用に持ち上げて言った。

 

ハンメルは過去40年間にわたって、サウンドチェックを

終わらせた後の暗がりの中で、勤勉に両手を動かしてきた。

 

「以前はセットリストが貼り付けられていたんだ。タバコケースの裏に書かれたもので、ポールがキャンドルスティック・パークで書きつけたものだった」とハンメルは語る。

1966年8月29日、サンフランシスコの野球場で行われた

ビートルズ最後の公式コンサートのときのことである。

 

「だんだんボロボロになっていったから

剥がしてしまったんだ」。

 

この2台の楽器が「歴史的」な楽器だ、と彼は言う。

つまりビートルズ時代からのビンテージ物、と言う意味だ。

 

しかし、ここにある2台の航空運搬用ボックスの中には、

もっとたくさんの歴史が詰め込まれている。

 

ハンメルはまずエピフォン・アコースティックを取り出した。

 

「これは1964年に『エド・サリヴァン・ショー』で

ポールが「Yesterday」を演奏したものだ」

 

全米で7,300万人が視聴した世界的に有名なこのテレビ中継は、ビートルズの全米デビューであり、50年前に世界的な

ビートルマニア地獄の火をつけたのである。

 

間違いなく「歴史的」なギターではないか。

 

(注:この記事ではポールがYesterdayを歌ったエド・サリヴァン・ショーがビートルマニアの発端となったかのように書かれているが、実際は、ビートルマニアと呼ばれる現象は1964年に始まっており、ポールがYesterdayを歌ったのは1965年である。)

 

ハンメルは次に、1960年製ギブソン・フレーム・トップ

手に取って見せてくれた。

 

「これはとても珍しいギターなんだ。左利き用で、

何年も前にリンダがポールに買ってあげたものなんだよ」。

 

(注:左利き用ギブソン・レスポールは、

1960年には3本しか製造されていない。)

 

10本ほどのベースやギターの横には、

1920年代物のウクレレがある。

 

「これはジョージがポールにプレゼントしたものだ。

きっと『アンソロジー』をやっていた頃だと思う…」

とハンメルは眉をひそめた。

 

ジョージとはもちろんジョージ・ハリスン

『アンソロジー』とは1995年に発表された

ビートルズのドキュメンタリーとCDのシリーズである。

 

そして「ジョニー・デップがポールにこのギターをあげたんだ」と言い、「バラット」の葉巻箱ギターを持ち上げた。

 

これは、フー・ファイターズのデイヴ・グロールが監督した2013年のドキュメンタリー『Sound City』に登場した

ギターである。

 

このドキュメンタリーの出演により、

ポールはグラミー賞を受賞した。

 

彼は他にもウィングスのアルバムのリイシュー盤、

そして2012年リリースのカヴァーアルバム

『Kisses on the Bottom』でもノミネートされた。

 

最新アルバム『NEW』は

2014年のグラミーにノミネートされていない。

 

「それからこのマンドリンで、ポールは娘のベアトリスのためにちょっとした曲を書いたんだ」。

 

その曲は「Dance Tonight」で、2番目の妻ヘザー・ミルズ

との間に生まれた娘にインスパイアされ、2007年リリースの

アルバム『Memory Almost Full』に収録されている。

 

「ポールはキッチンでこの曲を書いたんだ。プロモーション

ビデオでは、ナタリー・ポートマンとそれを再現しているよ」

 

2015-04-21 ロックの歴史を追いかける

(「ポールが語るエピフォン・テキサン1964年モデル その2
から続く)

https://ameblo.jp/paulmihow/entry-12862052932.html

 

 

【父親の演奏していた音楽】

 

僕の親父がやっていた音楽はスキッフルでも、ブルースでも、

ロックンロールでもなかった。僕が生まれた時から聴いていた

ようなスタンダード・ミュージックだったよ。「スターダスト」とかそういうやつだ。僕はホーギー・カーマイケルが大好きだよ。今でもこういう音楽に立ち返る時がある。僕の書く曲を

バラエティに富んだものにしてくれるし、みんなをアッと

言わせたいようなときには持ってこいの音楽なんだ。

 

 

【ギターを弾き始めたころ】

 

僕とジョンはそれぞれアコースティックギターを持ってきて、

まずE、A、そしてBコードから始めた。そしてだんだんのめり

込んできて、C#とかセヴンス・コードとかをやりだした。

それまで使ったことのないコードを発見した時のすごい興奮を今でも覚えているよ。それだけで新しく5曲書くことができるし、今書いている曲をもっといいものにすることもできるんだ。

 

 

【初期ソロのアコースティック】

 

ビートルズとしてやっていたときは、ギタリストが2人いたから

僕もギターを弾くとギターが3本になった。3人でアコースティ

ック・ギターで曲を弾いてみて、そこからエレキに発展させた

ものによっては元のヴァージョンが良くて、アコースティックのままにしたものもある。僕の最初のころのソロ・アルバムでは、一緒にセッションをして曲を発展させる人がいなかった

つまりジョンもジョージもいなかった。だから「ジャンク」

「テディ・ボーイ」「ハート・オブ・ザ・カントリー」など、

アコースティックのままの曲があるんだ。もちろんアコースティックのままのほうがよく聞こえるからだけどね(笑)。

 

 

【変則チューニング】

 

僕はチューニングを変えて弾くことはしない。たまにDコードの曲のとき、低いEの弦をDに下げることがあるけどね。僕も運営にかかわっている「リヴァプール・パフォーミング・アーツ」の音楽部門の学校管内に「当校では「Blackbird」を演奏するための特別なチューニングをお教えします」って書いてあるんだ。

それを見て、おい、そんなことする前に僕に見せろよ、

と思ったね。

 

別にビートルズだからと言って特別なアプローチがあったわけ

ではないんだ。それなのに、みんなは、僕たちがやったこと

以上のことを分析しようとする

 

 

【ポールに影響を与えた先人たち】

 

僕がフィンガーピッキング奏法に興味を持ったのは

チェット・アトキンスのおかげだ。彼の『ダウン・ホーム』

というアルバムに入っている「トランボーン」という

インスト曲があって、みんなこれを覚えようとしたんだ。

 

カール・パーキンスチャック・ベリーバディ・ホリーデニー・ライト(ロニー・ドネガンのバックでギターを弾いていた)たちは素晴らしく、僕は大好きだった。

 

ウッディ・ガスリーランブリン・ジャック・エリオット

アコースティック・フォークも好きだったよ。

レッドベリーもよく聞いた。でもどれもピンとこなかった。

 

あるとき、これだ!と思うのがあった。

それがチャック・ベリーだったんだ。

次にこれだ!と思ったのはスコッティ・ムーアだったよ。

(スコッティ・ムーアはエルヴィス・プレスリーの

バックでギターを弾いていた。)

 

僕はいろんなものが好きだった。いろいろなものを取り上げては、だんだん消化していったんだ。僕のヴォーカル・スタイルもそういうところがあるね。僕はエルヴィスが大好きで、

彼の曲のいくつかを彼になりきって歌ってみた。

同時にリトル・リチャードも大好きだったんだよ。

 

『マッカートニー』に収録されている「Man We Was Lonely」では、ジョニー・キャッシュになりきった。よくできたと思うよ。ジョニー・キャッシュ本人に聞かせたこともあるんだ。

 

そのころ使っていたのは「マーティン D-28」だった。

僕はいくつか家を持っているけど、それぞれの家に1つずつ

アコースティック・ギターを置いてある。

 

 

【機材へのこだわり?】

 

腕のいいエンジニアのおかげで、今でもいいアコースティックの演奏ができるよ(笑)。これは、いい音を録りたいと思っている人への、僕からのアドバイスだ。腕のいいエンジニアを得よ。彼らはマイクを用意して、僕は歌うだけ。それでいい音が録れる。もし音が良くないと手を加えることがあるけど、だいたいは

エンジニアを信頼するよ。

 

僕が機材について無頓着なことを証明してしまうエピソードが

あるよ。ニューヨークの楽器店に行った時のことだ。

店員が僕のことに気づいて「私もベースを弾くんです。前から

知りたかったんですが、あなたはどの弦を使っているんですか」って聞いてきた。僕は「長くて光っているやつを使っているよ」って答えた。別に笑わそうと思って言ったわけじゃないんだよ。本当に自分の弦を知らなかったんだ。僕にとっては重要なこと

じゃないからね。どんなものでも僕は弾くよ。僕は機材については全然うるさくない。機材より演奏と曲のほうが重要なんだ。

 

(終わり)

 

2014-10-01 ロックの歴史を追いかける

(「ポールが語るエピフォン・テキサン1964年モデル その1

から続く)

https://ameblo.jp/paulmihow/entry-12862044171.html

 

 

「イエスタデイ」などのフィンガーピッキング奏法

 

みんな僕が正しいフィンガーピッキング奏法を身につけていると思っているけど、よく近づいてみると分かるけど、僕はそんなのはできないんだ。ジョンと僕は正しいフィンガーピッキング奏法を習いたかったけど、僕はついにそんなチャンスがなかったよ。でもジョンはちゃんと身につけて、「Julia」とかほかの曲で

やっているね。

 

フィンガーピッキング奏法をマスターすることはなかったけど、でもあの音は大好きだ。だから自分独自のやり方を編み出したんだ。自分が演奏する楽器についてはすべてそんな感じで覚えて

いった。「Yesterday」とか「Blackbird」なんかでは、低音を

つま弾きながら高音をはじく、そんな感じで弾いているんだ。

 

コードを弾く場合は平らなピックを使う。でも僕独自の

フィンガーピッキング奏法で弾いたものがとても多いね。

困るのは、僕独自の奏法でコードとかメロディーを演奏すると、爪がダメになってしまうんだ。

 

何年か前、(当時の)妻のヘザーがアクリルのネイルを塗ったら

どうかと提案してくれた。僕はいやだよ、そんなことできない、って言ったんだ。でも最近のツアーではネイルを塗っていて、

これがとても助けてくれるんだ。

 

 

「ブラックバード」の演奏

 

子供のころは誰でも自慢したいものがあるだろう。

ジョージと僕はバッハの「ブーレ E短調」を習った。

実際のところは、この曲を何回か聴いて、

弾きやすいように簡単に変えていったんだ。

この曲のアプローチを借りて「Blackbird」を書いた。

間の取り方とかは書いているうちに出来上がった。

あの時が唯一僕たちがなんとなくクラシック風だった時だね。

 

 

「ミッシェル」で使われているコード「F7#9」

 

「Michelle」のF7#9というコードは、リヴァプールにある

「ヘッシーズ」という店のジム・グレッティから教わったんだ。あの店で働いていた人はみんなジャズの専門家だった。

ジャズができないと仕事にありつけなかった。

グレッティがジャズのコードを教えてくれたんだよ。

 

(インタビュアー:「ジャズ・ミュージシャンの中には「ジャズ・コード」と言うと気を悪くする人がいますが・・・」)

 

申し訳ないけど、僕はそう呼んでいるよ。F7#9のコードはとても美しいし、僕たちが学んだ音楽(エルヴィス、ジーン・ヴィンセント、エディ・コクランなど)には存在しないコードなんだ。

 

グレッティが演奏している時に、ジョージと一緒に店の中に

いたことを覚えているよ。「え、その音は何?」って聞いたら、これは基本的にはFコードだけど、第4フレットの上の2弦を小指で抑えるんだ、って教えてくれた。僕らはそれをすぐに覚えて、しばらくはそれが僕らの知っている唯一のジャズ・コードだった。その後も彼からほかのコードを教わったよ。

 

僕はよくパーティとかそういう集まりにはギターを持って

行って、女の子をひっかけられないかなぁとか思いながら、

謎めいた雰囲気で片隅に座っていたものだ。あるパーティでは

僕はフランス人になりきり、黒の襟のシャツを着て、グレッティが教えてくれたF7#9のコードをジャンジャンジャンと、

謎めいた雰囲気で弾いていたんだよ。何年かして、ジョンが

あのフランス風の曲覚えているか?あれに歌詞をつけてみろよ」って言ったんだ

 

 

「マザー・ネイチャーズ・サン」や「ジャンク」のイントロ

 

僕はこういうコード進行を聞きながら育ったんだ。僕の親父は

とても音楽好きだった。プロのミュージシャンだったし、

家でもピアノを弾いていた。だから僕も音楽好きになったし、

自然と音楽に対する耳が育ったんだよ。

 

聴いていてとても気に入り、すごく興味を持って、音楽として十分楽しめる、って感じるものがあった。でも、ちょっと待てよ、これは何だ?コードの中で一音一音下がってゆく、

そんなのを演奏しているぞ?そこで僕はこれを調べて、

自分自身のお気に入りのものにしたんだ。

僕は自分の歌の曲調をリフレッシュするために、

昔聴いていたこういうものを自分の歌に取り入れるんだ。

 

(「ポールが語るエピフォン・テキサン1964年モデル その3」
へ続く)

https://ameblo.jp/paulmihow/entry-12862060668.html

2014-09-30 ロックの歴史を追いかける

 ポール・マッカートニーが今でも「イエスタデイ」を

歌うときに演奏するアコースティック・ギター

エピフォン・テキサン 1964年モデル」。2004年に

その完全レプリカである「ポール・マッカートニー・モデル」が製造され、限定発売された。 

 

その時に行ったインタビューでは、

ポールの金銭感覚なども含め、興味深いコメントがある。

 

出典:Classic interview: Paul McCartney talks acoustic guitar, 2004 | MusicRadar

 

以下、全3回に分けて紹介したい。

 

 

自身のシグネチャーモデルについて

 

シグネチャーモデルのギターとかについては、僕は一度も関わ

ったことがなかった。でも今回のものは「Adopt-A-Minefield」というチャリティにお金が回るようになっているはずだ。

だからやることにしたよ。

 

何年もたって、またエピフォン・テキサンをツアーで弾き始めた。昔の映像で自分が演奏しているのも見た。僕のギターを

メンテしてくれているジョン・ハメルと話したんだ。そうしたら、このギターはとても歴史的な楽器だってことがわかった。

 

自分の持っている楽器が歴史的なものだなんて考えてもみなかった。単に僕の楽器でしかなかったからね。でもスクリーンでこの楽器を持っている自分を見ると、僕が特別に見えてくるんだ。それ以来、このギターを再現するのはとても楽しいと思ったんだ。そしてギブソンとこのモデルの制作について打ち合わせを始めた。この一連のプロセスがとても名誉あることだと思ったよ。

 

モデルを作った人は僕のギターのすごく細かいところまで正確に再現していて、驚くよ。でもこのモデルはとてもいい演奏ができる、そこがとてもエキサイティングだ。

 

実際に僕は、このプロジェクトをギブソンと進めてくれた

パット・フォリーに言ったんだ。「僕の持っているギターに

ついている小さな割れ目まで正確にコピーしているけど、

やっぱりいい音のするギターじゃなければいけない」ってね。

だからこうやっていい音がするんだ。

 

 

エピフォン・テキサンは200ドル未満の低価格ギター】 

 

(1965年にビートルズがエド・サリヴァン・ショーに出演した時も、ポールはこの175ドルのエピフォン・テキサンで「Yesterday」を弾いている。)

 

僕は父親から受け継いだ考え方に縛られているとこがあって、

すこし気恥ずかしくなることがあるよ。親父は僕に絶対借金を

してはいけない、って教えたんだ。子供のころは、決して貧しくはなかったけど、大金が転がり込んでくる状態ではなかったからね。

 

はじめてのギターはエピフォン・ゼニスで、15ポンドだったのを分割払いで買った。だから毎月一定額を支払わなければいけな

かった。このせいで僕は親父の前で震える羽目になったんだよ。

親父の顔に何かを恐れている表情が現れた。つまり「借金だ!」って感じだった。「絶対に他人に負債を負ってはいけない

と親父に教わったんだよ。

これはとても素晴らしい助言だったと思う。

 

もちろん今までいつも素晴らしい楽器を求め続けてきたけど、

同時に高すぎないものでなければいけなかった。たとえ自分が

払えたとしてもね。これは僕がフェンダー・ベースを手に入れる何年も前のことだよ。

フェンダー・ベースの音は素晴らしいことは知っていたけど。

 

僕が引いているヘフナーは形が左右対処で、逆さに持ってもおかしく見えない。でも同時に、ヘフナーは値段が高すぎなかった。たぶんエピフォンについても同じ選び方をしたと思うよ。

エピフォンは最高品質・最高金額のギターじゃない、

でも親父が僕に植え付けた考え方があったんだ。

たぶん僕はそれをずっと無くすことはないだろうね。

 

 

エピフォン・テキサンで作曲した曲

 

どの楽器でどの曲を書いたかはあまり覚えていないな。

僕はテクニカルな面はあまり得意じゃないから、

たまに恥ずかしくなることがあるよ。

曲をまとめて聴いてみると分かるかもしれない、

この曲はこのギターだ、とかね。でも自分で演奏する楽器に

ついては僕は結構無頓着だったりするんだ。

 

その日に気の向いた楽器を手にする。昨日はマーティンを

引いたから、今日はエピフォンにしようかな、いや待てよ、

ギブソン・エヴァリー・ブラザーズにしよう、といった感じだ。

 

 

「イエスタデイ」について

 

「Yesterday」は夢の中で聞こえた曲だったけど、ギターのフィンガーピッキングは夢の中で聞こえたわけじゃないよ(笑)。

ただ「Yesterday」のメロディが聞こえてきたから、目が覚めてベッドを出たら、ピアノに向かったんだ。作曲はふつうピアノかアコースティック・ギターでやる。その両方を使う感じかな。

 

(「Yesterday」はFコードで始まりますが、あなたはチューニングを一音下げてGコードの押さえ方で演奏できるように

していますね。あれは低音が良く流れるようにですか?)

 

それも理由の一つだよ。あと、Gのままだと歌うのには

少し高すぎた。それから、バックで流れている

ストリングス・カルテットにとってもFのほうが良かったんだ。

 

(「ポールが語るエピフォン・テキサン1964年モデル その2」へ続く) 

https://ameblo.jp/paulmihow/entry-12862052932.html

 

 

2014-09-29 ロックの歴史を追いかける

 1966年2月3日、ポール・マッカートニーは

ロンドンのウェストミンスターにある

「スコッチ・オブ・セントジェームズ」というクラブにいた。

 

そこではアメリカから来たモータウンの歌手が出演しており、

彼の年齢はわずか15歳であった。

 

この写真は、その時のものであるといわれている。

 

 

 

【スコッチ・オブ・セントジェームズ】

 

1960年代のロンドンでナイトクラブといえば

「アドリブ・クラブ」と呼ばれる有名な場所があった。

 

このアドリブ・クラブはビートルズやローリング・ストーンズ、またファッション・デザイナーのマリー・クワントなどが

頻繁に訪れ、いわゆる「スウィンギング・ロンドン」の

メッカとして知られていた場所であった。

 

しかし1965年7月に「スコッチ・オブ・セントジェームズ」が

オープンすると、みんながこの新しいクラブに通い始めるようになった。

 

このクラブ内には、ビートルズやストーンズらに

専用のテーブルが用意されていたといわれている。

 

他にもザ・フー、スペンサー・デイヴィス・クループ、

ジ・アニマルズなど、当時を代表するブリティッシュ・ロック

ミュージシャンたちがこのクラブに頻繁に出入りしていた。

 

 

【すでに全米No.1ヒット歌手であった

スティーヴィー・ワンダー】

 

スティーヴィー・ワンダーは1961年に

11歳でモータウンとレコード契約をした早熟の天才であった。

 

翌62年には「モータウン・レビュー」のメンバーとして

全米ツアーを行っている。

 

さらに翌63年にはライヴアルバム『The 12 Year Old Genius』のヒットに加えシングルカットされた「Fingertips Pts. 1 & 2」も全米No.1を記録した。

 

この1963年はビートルズがイギリスで「Twist and Shout」「Please Mr. Postman」「You Really Got a Hold on Me」

などのモータウン・ミュージックのカヴァーを

リリースした年である。

 

彼らもスティーヴィー・ワンダー(当時のアーティスト名は

「リトル・スティーヴィー・ワンダー」)のことは、

当然知っていたはずである。

 

 

【若き天才二人の出会い】

 

1966年2月の時点でポール・マッカートニーは23歳、

スティーヴィー・ワンダーは15歳。

 

年齢では8歳の違いがあるものの、

ミュージシャンとしてのキャリアはほぼ同じ。

 

むしろ全米ヒットに関していえば、

スティーヴィー・ワンダーのほうが「先輩」であった。

 

しかしこのイギリスに滞在中に音楽雑誌「NME」から受けた
インタビューで、スティーヴィー・ワンダーはこう述べている。

 

「僕はツアーに出ると、

行った場所について文章を書くことになっているんです。

(アメリカに)戻ってから書く今回のツアーについての文章には、必ずポール・マッカートニーと会ったことを書きます。

彼とはスコッチ・オブ・セントジェームズで会いました。

彼はとてもスウィンギングな人でした。

私が会ったことのある唯一のビートルです。」

 

むしろあこがれのビートルズのメンバーに会えた、

という雰囲気すらうかがえる。

 

この16年後にこの二人は「Eony and Ivory」でデュエットし、

世界的大ヒットを飛ばした。

 

 

【その後のスコッチ・オブ・セントジェームズ】

 

スコッチ・オブ・セントジェームズは、

1980年代まで経営され続けたが、その後閉店した。

 

しかし2012年に再開の話が持ち上がり、

2013年に再オープンしている。

 

今ではステラ・マッカートニーがこのクラブで

ファッション・パーティーを開くことがあるという。

 

2016-02-01 ロックの歴史を追いかける
3 February 1966:Paul McCartney meets Stevie Wonder )

ーー三好さんのキャリアのスタートは東芝音楽工業からですね。

 

三好:僕は早稲田大学 理工学部の出身なんですが、学生時代に「どうせアルバイトをやるのなら、ビートルズに関係する仕事がいい」と思って、選んだのが東芝EMIの前身である東芝音楽工業だったんです。そこでアルバイトを始めたのが音楽業界での

スタートでした。

 

ーーアルバイトではどんな仕事をしていたんですか?

 

三好:レコード会社はサンプル盤を地方のラジオ局とかメディアに渡すために送るんですが、その梱包をする作業が最初の仕事でした。それを大学1年生から4年間ずっとやっていました。

 

ーー大学4年間、ずっと東芝でバイトしていたんですね。

 

三好:僕は学生時代に結婚したので、給料が少なくても食べて

いくために働かないといけませんでしたし、足りないお金は

彼女の親からの仕送りなどで補っていました。

 

ーーその彼女というのが

安見さん(妻で訳詞家の山本安見氏)ですか?

 

三好:ええ、そうです。彼女は小さい頃から父親の仕事の関係で香港に住んでいて、英語をしゃべっていました。

 

ーーそして4年間のバイトのあと正社員になったんですか?

 

三好:そうですね。僕はビートルズに憧れて東芝を選んだの

ですが、ビートルズの担当は最初が高嶋(弘之)さんで、

その次が水原(健二)さんという人がやっていたんですが、

その人が会社を辞めて、石坂(敬一)さんになったんですよ。で、石坂さんも僕が東芝に入る直前に邦楽をやりたくなって

担当を下りたので、僕が入社したらそのままビートルズ担当に

なったんです。

 

ーーみんなが羨むような流れですよね。

 

三好:ラッキーなことに僕が4代目のビートルズ担当になりました。その後、ビートルズが解散して、ビートルズの代わりになるアーティストを探していたときに出会ったのがボブ・マーリー

だったんです。だから、大元はビートルズなんですよね。

 

ーー三好さんにとってもビートルズの存在は大きかったですか?

 

三好:大きかったですね。もし、ビートルズがいなかったら

今みたいな音楽スタイルにはならなかったわけじゃないですか? ビートルズが出てくる前というのはフランク・シナトラとかそんな感じで、歌い手で1人いて、プロの作家がいて、オーケストラがバックにいたわけでね。ビートルズは作詞も作曲もやって、

アレンジもやって、演奏もして、歌って。

だから爆発的に当たったんですよね。

 

2024年7月30日 Musicman

 

関連リンク

ヒットの法則はビートルズが教えてくれた ビートルズ初代

担当ディレクター / プロデューサー 髙嶋弘之氏インタビュー
https://www.musicman.co.jp/interview/19181

第82回 石坂 敬一 氏 ユニバーサル ミュージック合同会社 

最高経営責任者 兼 会長
https://www.musicman.co.jp/interview/19586

ラスティ・アンダーソン(ギター、ヴォーカル)

 

2009年7月「Paul McCartney's guitarist Rusty Anderson gives career advice」より

 

Q. あなたはギタリストですが、ポールもギタリストとして

優れています。そのせいで演奏しづらいことはありませんか?

 

ラスティ:(笑)彼は優れたギタリスト、ベーシスト、

さらにドラムもキーボードも弾く。他の楽器だって演奏できる。でもいっしょに演奏しづらいことはないよ。

もちろん、心のどこかで「彼はポール・マッカートニーだぞ。

私なんかいっしょに演奏する資格なんかないじゃないか!」

と思っていた(笑)。でもまた心の別のところで、「ポールが

私をバンドに入れてくれたんだ。自分の実力を証明してみよう」と思う部分もあって、それが打ち勝った。

結局私にできることは、ラスティ・アンダーソンという

自分自身になること、いいギタリストであることだけだった。

結局そこに行きつくんだ。洗濯をしているよりもギターを

弾いている方が気分がいい。ギターは私の土台を作ってくれる。ギターなしでは自分が何をしているのか分からないよ(笑)

 

Q. ポールと演奏している曲のうち7割はビートルズ・ナンバー

ですが、ポールはあなたに指示を与えるのですか?

レコードどおりに弾いてほしがっているのか、

それともあなた独自のやり方に任せているのでしょうか?

 

ラスティ:それは彼の気分によるんだ。

私にとってビートルズの曲は侵すことのできないものだ。

でもそれはポールにとっても同じなんだ。

同時に世界中にビートルズのカバーバンドがいて、

ポールはそれをよく知っている。

ポールは自分自身のカバーバンドになんかなりたいとは

思っていない。カラオケをやろうとしているんじゃないんだ。

 

Q. あなたがポールと演奏しているのをみると、ビートルズの

曲をたくさん演奏していますがとても新鮮に聞こえます。

 

ラスティ:それこそまさにポールが求めていることなんだ。

彼は「OK、じゃあ昔のヒット曲でもやろうか」みたいな感じ

には絶対ならない。彼は今まで何度同じ曲を演奏したとしても、どの曲も新しく生き生きしたものにしたいんだ。

 

 

 

ブライアン・レイ(ギター、ベース)

 

2013年10月「Brian Ray: The Epiphone Interview」より

 

Q. ポールがビートルズの曲で弾いたベースラインをあなたが

弾くときに難しいのはどんなことですか?セットリストの中には今まで一度もライヴで演奏されたことのない曲もありますね。

 

ブライアン:何よりもポールのもとで弟子のベーシストとして

演奏できるのは素晴らしい栄誉なんだ。音楽の歴史の中でもっとも重要なベースラインのいくつかを演奏できるんだからね。

ポールには曲と対称的になる(※)メロディアスかつリズミカルなベースラインを創り出すという超人的な才能がある。

(※訳注:音楽用語の「対位法」の意味か)

 

たとえば「Being for the Benefit of Mr. Kite」を聴けば分かるように、ジョンのリードヴォーカルにポールのベースが重なっていくのはオーケストラのようだ。そしてそれが続いて行く。

この美しいウォーキング・ベースこそが、

ヴォーカルと完璧な対称をなすリズムとメロディになるんだ。

そして今、ポールはその「Being for the Benefit of Mr. Kite」

を自分でベースを弾きながら歌っちゃうんだ。

普通の人じゃないよ(笑)

 

Q. そのポジションをどうやって手に入れたんですか?

 

ブライアン:ポールが探していたのは単なるベーシストじゃ

なくてベースも弾けるギタリストだった。

私はエレキギター、6弦アコースティック、12弦エレキ、

リードギター、リードスライドギター、リズムギター、

そしてベースをすべて弾く。

だから1回のコンサートで37曲演奏する中で、

いつも楽器を取り替えているんだ。

3曲連続で同じ楽器を演奏するってことはめったにない。

ポールは自分がギターやキーボード、マンドリンやウクレレを

弾くときにベースをやってくれる人を探していたんだと思う。

もちろん私は幸運にもそのチャンスを手に入れて、

もう11年になるんだよ。

 

 

 

エイブ・ラボリエル Jr.(ドラムス)

 

2014年1月「Modern Drummer」より

 

Q. あなたはポールとともに歌いながらドラムを叩くという

リンゴ・スターの役割を再現していますね。

 

エイブ:そこがポールとの共演で素晴らしいことのひとつなんだ。リンゴは優れたプレイヤーだ。彼のパートはいつも興味深いし、すべての歌にすっかりはまり込んでいる。

リンゴは静かに優しく演奏するかと思うと、

ぶちのめすようなガレージロックを演奏したりもするんだ。

 

Q. リンゴのパートを演奏するときには

どんなアプローチをしているんですか?

 

エイブ:私は元のグルーヴを大切にするようにしている。

でもポールは音楽を博物館に展示されているものみたいに

扱ったりはしない。音楽を命あるものとして演奏するんだ。

私たちの一人ひとりがお互いの目に輝きを持って、

自分のキャラクターを少し付け加えながら演奏するときもある。

 

私はビートルズのレコードを聴きそれを学びながら育ったんだ。リンゴがやるみたいに左手でフィルインをするほどまでは

いかないけど、でもオリジナルのグルーヴにあわせて

演奏することが多い。

オリジナルに忠実であることが必要な曲もいくつかあるんだ。

 

オリジナルとは変えて演奏する例もある。例えばウィングスの「Let Me Roll It」ではポールがドラムを叩いていて、

とても小さくてバイブの効いたプレイをしている。でもライヴでやるときはこの曲から「Foxy Lady」のジャムに移行していく

から、強く叩くロックチューンにして演奏しているんだ。

 

ウィングスの曲の中でも私たちが今やっているものの多くは、

ポールがドラムを叩いている。でも「Live and Let Die」では

デニー・シーウェルが素晴らしい演奏をしている。

インストルメンタルのパートに入り込む部分での

彼の演奏スタイルをできる限りキープできるよう、

私はベストを尽くしているよ。彼の強弱の付け方は完璧だ!

 

「Junior’s Farm」も演奏するのが楽しい曲だ。

レコードではジェフ・ブリトンがドラムを叩いていて、

前進するような動きがある。「Listen to What the Man Said」ではジョー・イングリッシュがドラムで、やっぱり楽しいんだ。素晴らしいグルーヴだよ。彼も演奏しながら歌えるドラマーだった。ポールはこうした素晴らしいミュージシャンたちと

長い間演奏してきた。自分がその中に加えてもらえるのは

とても名誉なことだよ。

 

 

 

ポール・ウィッケンズ(キーボード、アコーディオン、

ギター、ハーモニカ、パーカッション、他)

 

2017年12月

「Wix Wickens - Zen and the Art of Multitasking」より

 

Q. バンドで演奏するとき、

ポールはどのくらいあなたの演奏に指示を出すんですか?

細かい「木」よりも「森」全体をみる人なんでしょうか?

 

ウィックス:両方だね。オリジナルを聴いて、

ライヴでどう演奏するか細かく音を拾っていくこともある。

ビートルズの曲の多くはライヴで演奏されたことがないものが多いからだ。ツアーをやめた1967年以降の曲はすべてそうだよ。

 

私がポールのバンドに加入したとき、

ポールは1979年のウィングス以来ツアーをやっていなかった。10年間ツアーをしていなかったんだ。

私たちはアルバム『Flowers in the Dirt』を制作し、

エルヴィス・コステロがポールといっしょに曲をたくさん書き、ミッチェル・フルームたちとアルバムを完成させた。そのときのツアーは主にアルバムのプロモーションが目的だったけど、

私たちはビートルズやウィングスの曲も演奏しようとした。

ウィングスの曲の中にはリンダ(・マッカートニー)が

キーボードを弾いているのもあった。

ずっとライヴで演奏したことのない曲をどうやって演奏するか、検討する必要があったんだ。

 

Q. コンサートを観ていると

今でもポールがエネルギッシュなのに驚かされます。

彼はすでにこの世界のプロになって60年たちますが、

それでもまだ新曲を演奏しているんですよね。

 

ウィックス:彼は音楽を愛しているんだ。

だから私たちは1時間以上もかけてサウンドチェックをする。

リハーサルをしていると、みんなのエネルギーが湧き上がって

くるようなんだ。ポールがあらわれて、みんなとにかく演奏を

続ける。演奏が楽しくて仕方がない。私たちはバンドとして一緒に演奏するのが大好きだ。だから単にセッションミュージシャンが集まって曲を上手に再現しているんじゃなくて、

バンドとして感じられるんだ。

 

今のバンドメンバーは今までで一番長い間続いているラインナップだし、ポールが参加したバンドの中でも最も長く続いている。この全体がひとまとまりになるエネルギーが、

伝える力を持っているんだと思うよ。

 

2018-10-17 ロックの歴史を追いかける

 ポール・マッカートニー(82歳)はなぜ、ツアーを引退しないのか? 2002年から20年以上にわたってポールのツアーに

同行してきたギタリストのブライアン・レイは

ニューヨークのラジオ局WAXQの新しいインタビューの中で、

その理由を語っています。

「彼はそれ(ライヴ・パフォーマンス)に情熱を注いでいる。

歌うのが大好きだし、人を楽しませるのが大好きなんだ。彼は

その遺伝子を持っている。彼はそれをするために生まれてきた。僕は心の中で思う。“なぜ、なぜやるんだ?”とね。

誰にとっても骨の折れる仕事だけど、彼はそれが好きなんだ。

ポールであろうと誰であろうと、大変なことには変わりない。

起きて、飛行機に乗って、バスに乗って。骨の折れる仕事

なんだ。本当にそれを望んでいなければできないよ。

確かに彼には(引退は)必要ない。そうじゃないんだ。

彼は、ジョン・リー・フッカーやB.B.キング、チャック・ベリーのような、それ(ライヴ・パフォーマンス)を続けている人たちを見てきたんだと思う。僕の記憶が間違っていなければ、

チャックは90歳代前半までライヴをやっていたと思う。

ポールはそれを見て、こう考えたんだと思うよ。

“なぜやめるんだ?なぜ、いまやめるんだ? 

大好きなんだ。楽しいんだ。みんな喜んでくれている”とね」

 

2024/07/30 amass

 “ブリティッシュ・ブルースのゴッドファーザー”

ジョン・メイオールの訃報を受け、

ポール・マッカートニーが追悼コメントを発表しています。

「英国の偉大なブルースの先駆者、ジョン・メイオールが

90歳で亡くなりました。僕から、少しお話させてほしい。

1960年代、僕たちは深夜のミュージック・クラブで出会い、

彼が膨大で素晴らしいレコード・コレクションを持っていた

彼の家によく行きました。そんな時、彼は良き助言者となり、

当時活躍していた多くのブルース・ギタリストについて

僕に教えてくれました。

僕はアームチェアに座ってくつろぐと、

彼はB.B.キング、バディ・ガイ、アルバート・キングなどの

多くの偉大なプレイヤーの曲を聴かせてくれました。

そして、後に彼のバンド、ブルースブレイカーズで活躍する

エリック・クラプトンの曲も聴かせてくれました。

彼が弾けば弾くほど、これらの偉大なギタリストたちの

つながりが見えてきました。とても面白かっただけでなく、

これらの素晴らしいギタリストたちの共通点に気づいたことは、とても勉強になりました。

ジョンはイングランド北部の出身で、

実直で素敵な人だったので、

僕たちはすぐに打ち解けることができたし、

彼の音楽とブルースへの愛、

そして彼が知っていることを他の人にも伝えようとする姿勢に、僕はいつも感謝しています。

ありがとう、ジョン、愛してるよ!」

 

2024/07/26 amass

 

 

“ブリティッシュ・ブルースのゴッドファーザー” 

ジョン・メイオール死去

2024/07/24 amass

 

 

ジョン・メイオールの訃報を受け、
エリック・クラプトンが追悼コメント発表
2024/07/25 amass

 

 

ジョン・メイオールの訃報を受け、

ミック・ジャガー/ミック・フリートウッド/

エリック・ジョンソン/ウォーレン・ヘインズ/

ザ・キンクスが追悼コメント発表

2024/07/25 amass