ポール・マッカートニー 語録

ポール・マッカートニー 語録

Paul McCartney In His Own Words

当ブログは公表された著作物の出所を明示した上で、
規定に従って正当な範囲内で引用しています。

ビートルズ(The Beatles)は自分たちを守るため、

ツアーをやめなければならなかった。

60年前、サンフランシスコのキャンドルスティック・パークで、彼らは誰にも別れを告げないまま最後の公演を行った。

バンドの運命を変えた夜に何が起こった?

喝采に背を向け、未来へ

 

60年前の1966年8月29日、ビートルズはサンフランシスコの

キャンドルスティック・パークで最後のライブを行った。

それはファブ・フォーにとって大きな転機となる夜だった──

ジョン、ポール、ジョージ、リンゴがツアー生活に終止符を

打った夜だ。凍えるような霧と風のなか、

4人は最後に「Long Tall Sally」を思いきりぶちかまし、

自分たちは今なお最高のロックンロール・バンドであり、

ポップ界の頂点に立つ存在なのだと、

最後にもう一度、自分たち自身に証明した。だが、

そのあと4人は最後の一礼をして、それですべてが終わった。

最後のひと捻り。最後の叫び。

ライブ・バンドとしてのビートルズ、最後の戦いだった。

キャンドルスティック・パークで、彼らは何も発表しなかった──観客の誰ひとりとして、これが最後だとは知らなかった。

だがビートルズの4人は全員わかっていた。

自分たちの演奏すら聞こえない、わずか25分ほどの慌ただしい

公演のために街から街へ飛び回る生活には、もううんざりして

いた。複雑さを増した新しいサウンドをステージ上で

探求する余地などないスタジアム公演にも、飽き飽きしていた。毎晩「それでは次へ進みたいと思います」

と言い続けることにも、もううんざりだった。

 



キャンドルスティック公演は、結果的に新たな始まりとなった──ようやく彼らは空港やホテルや楽屋から解放され、

スタジオでの実験に四六時中打ち込めるようになった。

これから彼らは、世界を一変させる新たな音楽的冒険へと

飛び立とうとしていた。だが当時の4人には、

自分たちにそもそも未来があるのかどうかすらわからなかった。イギリスへ戻る飛行機のなかで、

ジョージ・ハリスンはついにそれを口にした。

「まあ、これで終わりだな」と彼は記者に言った。

「僕はもうビートルじゃない」

 

それでも、このコンサートには謎めいたコーダがあった。

「Long Tall Sally」を終えたあと、

ジョン・レノンは「In My Life」の冒頭のギター・リフを

ちらりと弾き、観客をじらした。それは、

ビートルズがライブでは演奏できなかった類いの曲だった──

絶叫するファンで埋め尽くされたスタジアムで鳴らすには、

あまりにも繊細だったのだ。だが同時に、

それは彼らの未来をほんの少し覗かせるものでもあった──これから先、自分たちが作っていくと心に決めた音楽だった。

「In My Life」のリフは、

ジョンからライブの観客へ贈る別れの挨拶だった──

だが同時に、その先の未来へ一緒についてきてほしいという

招待状でもあった。

1966年8月のアメリカ・ツアーは、最初から最後まで

論争につきまとわれた、長い悪夢のような日々だった。

メンフィス公演の会場外で開かれたクー・クラックス・クラン(KKK)の抗議集会には8000人が集まった。

だがキャンドルスティックでの4人は、

これが最後だとわかっているからこそ、いつもより肩の力が抜け

、浮かれているように聞こえる。互いを笑わせ合い、

どうせ誰も自分たちの言葉など聞いていないのをいいことに、

仲間内だけに通じる悪ふざけを飛ばしているのが聞き取れる。

ある場面では、ポール・マッカートニーがこうアナウンスする。「それでは次の曲をやりたいと思います。

このツアーで素晴らしい仕事をしてくれている

裏方のみんなからのスペシャル・リクエストです。

曲は『I Wanna Be Your Man』!」

だが誰も気づかなかった──そして、そのこと自体が、

彼らがツアーをやめる必要があった理由をよく物語っている。

ブライアン・エプスタインでさえ、

ポールのその冗談を聞いていなかった。

エプスタインは公演を欠席し、ロサンゼルスに残っていたのだ。彼を脅迫しようとしていた悪質な元恋人に

金を払って事態を収めようとしていた。

ビートルズが演奏したのは11曲。

「Rock And Roll Music」、「She's A Woman」、

ジョージの見せ場となる「If I Needed Someone」、

「Day Tripper」、「Baby's In Black」、「I Feel Fine」、「Yesterday」

、リンゴ・スターが声を張り上げる「I Wanna Be Your Man」、「Nowhere Man」、「Paperback Writer」、

そしてフィナーレの「Long Tall Sally」だ。

最初と最後を、少年時代から憧れてきた

2人のアメリカ人アーティスト、チャック・ベリーと

リトル・リチャードの曲で飾っていることにも注目してほしい。

だがもうひとつ注目すべきなのは、

ほんの数週間前にリリースしたばかりのニューアルバムから、

1曲も演奏していないことだ──その名は『Revolver』。

ビートルズ自身も、ほかの誰もがそうだったように、

アルバムの素晴らしさに驚いていた。

だが収録曲はスケールが大きくなりすぎ、

奇妙になりすぎて、ステージでは再現できなかった。

テープ・ループ? クラシックの弦楽八重奏? 

シタールにタブラ? ポールはNMEで、いかにもマッカらしい

崇高なまでの自信をみなぎらせ、こう宣言している。

「僕らがこんなことをやったのは、少なくとも僕自身は、

誰かに『前にも聞いたことがある音だ』と言われるような

サウンドを作るのに、もううんざりしていたからだ」

春にアビー・ロードで一緒にこの音楽を作っていたとき、

彼らはまるで神になったような気分だった。

ところが今では、野球場を転々としながら、雨に濡れて

一夜限りのライブをこなしている──なんという落差だろう。

その軋轢がバンドを引き裂いていてもおかしくなかった。

だが実際には逆だった。それは彼らをひとつにし、

これまでで最も困難な決断を下させた──

喝采に背を向け、未来へと歩き出すという決断を。

 

 

災難に次ぐ災難

その夏のツアーは、抗議活動と殺害予告につきまとわれた。

アメリカのタブロイド紙が、かつて『Evening Standard』に

掲載されたインタビューを掘り起こしたからだ。そこでジョンは「今では僕らのほうがイエスより人気がある」と発言していた。政治家や聖職者たちは、神への冒瀆だ、堕落だとビートルズを

非難し、彼らが公然と公民権運動を支持している事にも反発した

。メンフィスで公演を行った際も、バンドはいつもどおり、

会場で人種隔離を行うことを認めなかった。

ジョンは後にこう振り返っている。

「外ではKKKがビートルズのレコードを燃やしていた」

公演中、「If I Needed Someone」の演奏中に、

ひとりの少年がステージへ爆竹を投げ込んだ。

それはリンゴのドラムのすぐ前で爆発した。

「僕ら全員──たしか映像にも残っていると思うけど──

顔を見合わせたんだ」とジョンは語っている。「みんな、

ほかの誰かが撃たれたと思ったから。それくらいひどかった」

冒瀆発言をめぐる騒動を鎮めるため、

ジョンはシカゴで記者会見を開いた。そう、じつに素晴らしい

アイデアだ──ジョン・レノンを外交使節に仕立てるなんて。

もちろん、結果は大失敗だった。

本人に謝ったふりをする気がまるでなかったからだ。彼がしたのは、「僕は自分が熱心なキリスト教徒だなんて言ってない」から「イギリスは警察国家になりつつある」まで、

火に油を注ぐような発言を次々と繰り出すことだった。

彼はイブニング・スタンダード紙の記者に責任を押しつけることも拒んだ(モーリーン・クリーヴは信頼する友人であり、

あのインタビューは真剣な知的対話だった。

彼女を身代わりにする気など、ジョンにはまるでなかった)。

さらには、もしイエスが今も生きていたなら、

「『Eleanor Rigby』も、あの人にとってはそれほど大した意味を持たなかっただろうね」と推測してみせる程の大胆さだった。ジョンに「しゃべってこの窮地を切り抜けてくれ」と

頼んだ者がいたのは、彼の人生で間違いなくこれが最後だった。

8月最後の数週間は、災難に次ぐ災難だった。14日の

クリーブランド公演では、何千人ものファンが警備柵を突破し、会場は大混乱に陥った。ビートルズは演奏を中断し、

再びステージへ戻って最後まで演奏できるだけの安全が確保されるまで、30分間バックステージに避難しなければならなかった。その1週間後のシンシナティでは、土砂降りの雨のなかで演奏し

、自分達は今にも感電死するのではないかと本気で思っていた。ポールは『ザ・ビートルズ・アンソロジー』でこう振り返って

いる。「バンドとして演奏を始める前から、

これまでやったなかで最悪のライブみたいな感じだったんだ」

その夜が転換点だった──ポールが、ツアーをやめたがる

ジョージとジョンを説得するのを諦めた夜だ。

「あの瞬間、みんなが『ああ、もうこのクソみたいなツアーにはうんざりしてるんだよ』って言ったんだ」

とポールは振り返っている。

「僕もついに同意した。

それまでは『いや、ツアーはいいものだし、

僕らを研ぎ澄まされた状態に保ってくれる』

って言おうとしていたんだけど……

でも最後には、僕も彼らに同意した」。いやはや──ポールが

ジョージの言うことが正しかったと認めるほどなのだから、

どれほど切羽詰まっていたかがわかる。

だが、まだ終わりではない──彼らにはあと1週間残っていた。そして、それは散々な1週間だった。

キャンドルスティック公演の前夜、ロサンゼルスの

ドジャー・スタジアムでのライブは暴動同然の事態となり、

7000人ものファンがビートルズの脱出用バンに殺到した。公演後、ビートルズは2時間に渡って楽屋から出られなくなった。

キャンドルスティック・パークでの公演も、また別の忌々しい

野球場でやる、どうでもいいライブのひとつになっていても

おかしくなかった──そこは野球界でもっとも嫌われた球場で、冷たく湿った風が吹き荒れることで悪名高く、

「湾岸の灰皿(Ashtray by the Bay)」と呼ばれていた。

サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地であり、

そのジャイアンツも1966年には苦いシーズンを送っていた。

ドジャースに1.5ゲーム差で及ばず、リーグ優勝を逃したのだ(ビートルズが公演を行った夜、

ジャイアンツはフィラデルフィア遠征中で、

ジム・バニングのスライダーに翻弄され、1対5で完敗した)。

 



だがどういうわけか、この夜のビートルズは心底楽しんでいる。自分たちだけが知っている小さな秘密を楽しむように。

彼らは新たな喜びを噛みしめるように、楽曲へ勢いよく

飛び込んでいく──なかでも「Baby's In Black」は格別だ。

ジョンとポールが真正面から目を合わせて歌うデュエットで、

ほかの誰も自分たちほどこの曲を愛していないと

十分わかっていながら、それでも2人は歌わずにはいられない。曲間のトークも、自分達自身を戯画化するようで最高におかしい

。ジョンはこうアナウンスする。

「それではこのまま続けたいと思います……みんなで一緒に続けて……僕らはみんなひとつで、ひとりはみんなのために……で、次の曲は、ええと、ずいぶん昔にシングルだった曲です。

ちょっとお行儀の悪い女性についての歌で、『Day Tripper』!」

 

 

最後の「Long Tall Sally」

8月にベイエリアを訪れた人なら誰でもそうなるように、

彼らもあまりの寒さについて話さずにはいられない。

ポールは「Frisco butchered」とつぶやく。

これは、アメリカ盤『Yesterday And Today』の

発禁・差し替えとなったジャケット、

いわゆる「ブッチャー・カバー」を茶化した言葉だった。

「この素晴らしい潮風のなか、

ここに来られて本当に最高でした」と最後にポールは言う。

「こんな天気でごめんなさい。それからみなさん、ぜひ一緒に

手を叩いて、歌って、しゃべって──というか、もう何でも

好きにやってください。とにかく最後の曲です。おやすみ!」。彼らが締めくくりに選んだのは、

1956年のリトル・リチャードの名曲「Long Tall Sally」。昔からビートルズが演奏するのをとりわけ好んでいた曲のひとつだ。

だがこの曲には、彼らだけに通じる密かな意味もあった──

9年前、ポールがジョンと初めて出会った日に、ギターで弾いて聴かせた曲なのだ。2人の友情は、この曲から始まった。

ビートルズは「Long Tall Sally」を、それまでに何百回も

演奏してきた。キャヴァーン・クラブからハンブルク、

シェイ・スタジアムからハリウッド・ボウルまで。

銃の手入れをするドイツのギャングたちがたむろする

いかがわしいバーでも演奏したし、

絶叫する少女たちで埋め尽くされた劇場でも演奏した。

だがこの夜、彼らがライブ活動の最後を締めくくる曲として

選んだのがこれだった──なんとも胸を打つ選曲だ。

彼らは本当に、自分達がかつていた場所へと戻っていったのだ。

そして──最後に「In My Life」のギター・フレーズを

ほんの少し弾いてみせると──すべてが終わった。

『San Francisco Chronicle』のラルフ・J・グリーソンは

この公演を「私がこれまで観たなかでもっとも短いロック・

コンサート」と評し、「人形劇」と切り捨てながらも、

「これほど理性的で、知的で、才能に恵まれた4人の人間に

とって、これが魅力的であり続けるとは到底思えない」と

先見の明に満ちた指摘をしている。ビートルズの中でただ一人、まだツアーへの意欲を失っていなかったポールでさえ、

その夢が終わったことを悟った。

サンフランシスコ公演から数時間後、帰りの飛行機で、

彼はTeenSet誌のジュディス・シムズにこう語っている。

「実を言うと、僕らはあまり優れたライブ・パフォーマーじゃ

ないんだ。むしろレコーディング・スタジオのほうが得意だよ。そこなら物事をコントロールできるし、

納得がいくまで手を入れられるから」。

彼らがその後、再びライブを行うところまで最も近づいたのが、『ザ・ビートルズ:Get Back』の最後に登場する、

あの屋上での演奏だった。

彼らの友人でありライバルでもあったキース・リチャーズには、ひとつの持論があった。「3000人もの女の子が絶叫していたら、その声に会場ごとかき消されちまう」と、

彼は2015年にエスクァイアで語っている。

「客席を見れば、女の子たちが汗だくになって、

叫び、痙攣しながら運び出されていくのが見えた」。あのキースでさえ、そんな仕打ちに耐え続けることなど想像できなかった。「俺たちのことはいろいろ言われるけど、

ビートルズはあの女の子たちに完全に消耗させられたんだ。1966年にはツアーをやめた──もうインドに行ったり、

そういうことをする段階に入ってたんだよ」

 

 

ツアー後の休暇がもたらした「新しい未来」

1966年秋、ビートルズにはツアー後の重要な“プロジェクト”が

待っていた──振り返ってみれば、

それは彼らが下したなかでも最も賢明な決断のひとつだった。

彼らは3カ月の休暇を取った。

4人はそれぞれ個人的な活動に取り組みながら、

ツアー生活で溜まった毒を抜いていった。

ジョンはスペインへ渡り、

アート映画『ジョン・レノンの僕の戦争』に脇役で出演。

髪を切り、その後、

生涯にわたってかけ続けることになる丸眼鏡を身につけた。

ポールは映画『ふたりだけの窓』のサウンドトラックを手がけた──ビートルズのメンバーがバンドの外で制作した

初のアルバムだった。

ジョージはインドへ赴き、

新たな師ラヴィ・シャンカールのもとでシタールを学んだ。

リンゴは自ら建設会社Bricky Buildersを立ち上げた。

だが離れて過ごしているあいだに、

4人の友情はそれまで以上に深まっていった。

リンゴは、ただお互いに会いたかったという理由だけで、

スペインまでジョンを訪ねている。

ジョンも、ほかの3人から遠く離れていることを嫌がっていた。「ツアーをやめた後、ひとりでやっていこうとはしてみたんだ」と、当時ジョンは伝記作家ハンター・デイヴィスに語っている。「映画の現場では何度か大笑いもしたし、

モノポリーをやったりもした。でもダメだった。

ほかに好きになれる人間には出会えなかったんだ」

これは、ある意味では音楽史上最も実り多い休暇だったと

言っていい。4人が再び集まったとき、

創作へのエネルギーはすっかり充電されていた。

「ほかの3人に会えて、あんなにうれしかったことはなかった」とジョンは語っている。

「みんなの顔を見たら、また普通の自分に戻れた気がした」。

そこから、『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』、

「Penny Lane」、「I Am the Walrus」といった

1967年の輝かしい成果が生まれていく。

そしてもちろん、スペインの海辺で、孤独に沈んでいたジョンが書いたささやかな1曲もある──「Strawberry Fields Forever」。休暇中の仕事としては悪くない。アビー・ロードに戻った

ジョンが最初にほかの3人へ聴かせたのが、この曲だった。

しばし呆然とした沈黙が流れたあと、ポールが言った。

「これは本当に素晴らしい」。4人はたちまち刺激を受け、

そのまま徹夜でレコーディングすることになった──

今日私たちが知るあのバージョンに刻まれているのは、

4人のビートルズが再び同じ部屋に集まれたことを

心から喜んでいる、その音なのだ。

キャンドルスティック・パークが、そのすべてを可能にした。

ビートルズはバンドを守るために、

ツアーをやめなければならなかった。

あの夜、最後の一礼をしたとき、彼らは自分たちが築き上げて

きたすべてを壊してしまうのではないかと恐れていた。だが

実際には、その決断こそが彼らに新たな未来を開いたのだった。

 

2026/09/02 Rolling Stone JAPAN )元ネタに写真あり

 ポールの動物への愛情は、

何十年にもわたり彼の人生と音楽に織り込まれてきました。

『マーサ・マイ・ディア』のインスピレーションとなった彼の

愛犬、オールド・イングリッシュ・シープドッグのマーサから、もう一つの大切な犬にちなんで名付けられたウィングスの名作『ジェット』まで、ペットたちはしばしばポールの世界に

入り込み、時には彼の歌にも登場します。

 

多くのペットオーナーにとって、

私たち自身も含めて、旅行で最も難しいことの一つは、

あなたが不在の間に誰が動物の世話をするか決めることです。

今月の質問はディミトリオさんからで、

ポールが旅に出ているときに彼のペットたちに何が起こるのか、そして最近のマッカートニー家にファーリー

(あるいは実はあまりファーリーではないかもしれない)

のメンバーがいるかどうかを知りたがっています。

 

ディミトリオが尋ねます。あなたとナンシーは最近、

素敵な白黒の犬を迎えたと聞いています。

これだけ旅をしている中で、ペットはどうしていますか?

ツアー中はどこに泊まっていますか?

 

ポール:彼らはニューヨークにいて、

犬の世話がとても上手な家政婦がいてとても幸運なんだ。

だから、僕達がいないときは彼女が世話をするんだ。 

 

PaulMcCartney.com:あなたがいない間、彼らが安心して

管理されていると知って、とても安心できるでしょう? 

 

ポール:うん、そうだね。

動物がいるなら、きちんと世話されているか知りたいものさ。

僕達はとても幸運だ。彼らは幸せで落ち着いているので、

特に心配する必要はない。 

 

PaulMcCartney.com:最近、他にペットは飼っていますか?

もちろん、あなたはかつてマーサについて

かなり有名な歌を書いたことがありますね。

猫についての歌を書くことはありましたか? 

 

ポール:アメリカにいるのはローズとジェットという2匹の犬だ。それから、カメ、つまりテリー・ザ・テリフィック・テラピン

というカメがいる。 

 

PaulMcCartney.com:それはまさに速報だと思います! 

 

ポール:これは速報です! 

 

PaulMcCartney.com:テリーはどのくらい飼ってるの? 

 

ポール:もうかなり前のことだよ。テリーはただそのまま

やっていける。文句も要求もない。とても気さくな奴だ。 

 

PaulMcCartney.com:じゃあ、テリーについての歌が

待っているのかもしれませんね? 

 

ポール:たぶんね。何が起こるかわからない! 

 

PaulMcCartney.com:もし曲があるなら、

テリーは特別扱いを受けるべきだと思う... 

 

ポール:テリーの面白い話を知ってるでしょ:

僕は彼女のためにぶどうの皮をむいてるんだ。彼女はとても

幸運だ。世界中の誰も僕からぶどうの皮をもらえない! 

 

PaulMcCartney.com:それはかなり排他的クラブですね! 

 

ポール:本当にそうだ。僕がぶどうの皮をむいた奴は

あまりいない。テリーだけかもしれない! 

 

27.08.2026 PaulMcCartney.com )自動翻訳を一部修正

「Jolene」「9 to 5」「I Will Always Love You」などの

名曲を生んだ“カントリー音楽の女王”ドリー・パートンが、

2026年8月25日に米テネシー州ナッシュビルで死去した。

80歳だった。

訃報を受け、ポール・マッカートニーは

Instagramに追悼文を投稿し、

パートンを「偉大なるスター」「すばらしい女性」と表現した。

「素晴らしいスター、ドリー・パートンが亡くなり、

とても悲しいことです。彼女は本当に素晴らしい女性でした。

 

私が彼女に初めて会ったのは

ナッシュビルのグランド・オール・オープリーで、

彼女はカントリースターのポーター・ワゴナーと共演しており、ソロキャリアを始めようとしていたところでした。

 

彼女はとても明るく生き生きしていたので、

亡くなったという知らせを受け入れるのは辛いほどでした。

 

彼女の作詞、歌唱、慈善活動はカントリーミュージック界で比類なく、ドリーのいない世界で生きることは想像しにくいです。

彼女は非常に聡明なビジネスウーマンで、自分の音楽の価値、

そして何よりも世界中の人々に与える影響を理解していました。

 

彼女に私の曲『Let It Be』を歌ってもらうことほどの名誉は

ありませんでした。たとえ私が少しだけ貢献したとしても、

彼女がそれを歌ってくれたことをとても光栄に思います。

 

彼女と知り合えたことをとても誇りに思い、

彼女の独特な才能を尊敬しています。」
 
最後にポールは、パートンの代表曲「I Will Always Love You」を思わせる言葉で投稿を締めくくった。

「ドリー、あなたがくれた美しい音楽をありがとう、

そして世界中に。私たちはいつもあなたを愛し、

神の祝福と安らかな安らぎを。君は最高だった。」

2026.08.26 cula [キュラ]

 ポール・マッカートニーの言葉に出合うとワクワクします。
飽きる事無くもう50年以上続いているでしょうか。

本と言えばそればっかりを読んで来たと言っていいでしょう。
本屋さんへ行けば先ずはそこへ一直線でした。

自分の好きな子が大勢の中に居る感じです。
いつだって目ざとく見つけてしまうでしょ。

おかげでビーとポーとマッに敏感になってしまいました。
今でも自然とそれらに反応してしまいます。

 ジョニー・マーは英Mojoの新しいインタビューの中で、

ザ・スミスの解散を受け入れるのに

ポール・マッカートニーがどのように助けてくれたかを

明かしています。

1987年のザ・スミスの険悪な解散の後、

マーは、ポールと彼の妻リンダと

「信じられないほど濃密な長い一日」をともに過ごしたという。その出会いが前に進むための感情的なエネルギーを

与えてくれました。

「リンダは、本当にとても寛大だった。

彼女は僕の人生について、いろいろ聞いてくれてね。(ポールも)そこに座っていたから、僕はバンドの解散について話したんだ。彼の方を見て、返事を待ったら、彼はただ

バンドっていうのは、そういうものさ”と言ったんだ。

彼が言うからこそ、本当に素晴らしい答えなんだよ。

僕もこれまで何度もアドバイスを求められてきた。

でも、ただ“バンドっていうのは、そういうものさ”

と言うべき時もあるんだ」

マーはさらに、ザ・スミス解散後、

すぐに別のバンドを結成する準備ができていないと感じたため、セッションへの誘いを受けるようになり、

そこに「安息の地」を見いだしたという。

「一緒に仕事をした人たちには、本当に感謝しなくちゃいけない

。(ザ・ザの)マット・ジョンソンは、

今でも僕の親しい友人の一人だ。

バーナード・サムナーやクリッシー・ハインド――そういう人

たちとのつながりだね。僕は仲間とすごく深い関係を築くんだ。

履歴書みたいな視点で見れば、あちこち飛び回っているように

見えるかもしれない。でも、自分がいい仕事をしているときは

ちゃんと分かるんだ。たとえばブライアン・フェリーと一緒に

演奏したり、彼の曲に参加したりしたときとかね。

物事をあまり深く考えないほうがいい時もあるんだよ」

 

2026/08/13 amass

 ポール・マッカートニーは、ビートルズの中で最も愛されて

いる曲のいくつかを一人の女性について書いたが、

その女性の名前は一度も口にしなかった。

これはジェーン・アッシャーの物語で、最初の楽観主義から

静かな終わりまでの5年間の関係をたどる6曲で語られます。

「And I Love Her」から「For No One」まで、歌詞の背後にある実際の出来事、議論、そして分離を発見する。

これらはポール・マッカートニー自身の言葉

(『The Lyrics』(2021年)と

バリー・マイルズの『Many Years from Now』(1997年)から

直接引用されている。

📌 章:0:00 

Jane Asher meets The Beatles at the Royal Albert Hall in 1963
00:43 Jane Asher and Paul McCartney
02:05 And I Love Her (1964)
03:01 Things We Said Today (1964)
03:42 We Can Work It Out (1965)
04:36 You Won't See Me (1965)
05:24 I'm Looking Through You (1965)
06:20 For No One (1966)
07:19 Paul and Jane's relationship ends

 

 以前の『オタク』という言葉は、

現在『推し』に置き換えられたのでしょうか。
鉄道オタクには何とか鉄という、

〇鉄〇〇鉄が多数存在し分かれていました。

ビートルズファン然り、

様々な〇〇推しが存在しています。
音源だけでも正規版・海賊版・テイク違い等、

切りが無いです。

私は先ず音源に興味があり、

発言した言葉にも惹かれます。
ブログ『ポール・マッカートニー 語録』を

発信している理由もそこにあります。

では何故

『ビートルズ 語録』に成らなかったのか?
それは只単に本格的に聴き始めたのが、

ポール・マッカートニーの方が先だったからです。

ビートルズ『Rubber Soul』の拡張版スペシャル・エディション(10月2日発売)には、これまで未発表であり、

噂さえなかったジョン・レノンの未公開曲である

「Little Girl」も含まれています。

英MOJO誌は、この曲を独占で試聴し、

この曲についての詳細を報じています。

1965年に録音された「Little Girl」は、

ジョンがビートルズのメンバーと共に

完成させることのなかった楽曲のデモ音源です。

この録音は極秘中の極秘として扱われていたため、

熱心なビートルズ・ファンでさえ、

その存在すら知らなかったほどでした。

英MOJO誌のダニー・エクルストンはアビー・ロード・スタジオで、ジョージ・マーティンの息子ジャイルズ・マーティンから

この曲を聴かせてもらいました。

「♪Little girl, I’ve come to say / 

That this has been a lovely day / I love you, I love you…

(リトル・ガール、君に伝えたいことがあるんだ/

今日は素敵な一日だった/愛してる、愛してる……)」

そう歌うジョンの歌声は、静かに鳴るアコースティック・ギターをバックに、驚くほど甘く優しいという。

そして、その直後には、いかにもジョンらしい、

ひねりの効いた結末が待っていました。

「♪…If you’d have asked me yesterday / 

Then I’d have told you sweet FA…

(もし昨日、君にそう聞かれていたら/

何もないって答えていただろうけど……)」

ジャイルズ・マーティンはこの曲について、こう話しています。

「この曲は、当時のレノンの心境を如実に表している。

これはポップ・ソングだ。もしかすると、彼が一周回って、

後年の『Double Fantasy』の頃に作っていてもおかしくないような曲だよ。“sweet FA(※イギリスのスラングで【何もない】

の意味で、呆れ、開き直り、投げやりな感情が含まれます)”

というところが興味深い。彼自身、

“僕たちは、こういうタイプの曲から離れようと

しているんじゃないか?”と考えていたようにも思えるね」

「Little Girl」は、ビートルズ時代のジョンが録音した曲で

ありながら、バンドのごく近しい関係者以外、

誰一人として聴いたことのなかった音源です。

『Rubber Soul』新装版のライナーノーツを執筆した

ビートルズ研究家のケヴィン・ハウレットは

英MOJO誌に、こう話しています。

「テープを発見したのはアラン・ラウスだったと聞いています。アビー・ロードのごく限られた人たち以外には、誰もその存在を知りませんでした。本当に厳重に秘密にされていたんです」

アラン・ラウスは、ジャイルズ・マーティンの前任者として、

アビー・ロード・スタジオに保管されたビートルズの音源を

管理していた人物です。

そのテープには、ジョンがこの曲を試行錯誤しながら録音した

4つの断片が収められていました。

それらをジャイルズ・マーティンが編集し、

ひとつの演奏としてまとめたものが今回公開される音源です。

ラウスは録音時期を1965年と特定しています。

ハウレットは、録音時期を裏付けるさらなる証拠として、

ジョンがポストカードに書き残した歌詞を挙げています。

この歌詞はハンター・デイヴィスが2012年に刊行した

『The John Lennon Letters』にも収録されています。

そこには書き直しの跡があるものの、「little girl…」という

一節は、今回発見されたテープの歌詞と同じものでした。

 

2026/08/10 amass

 当ブログ『ポール・マッカートニー 語録』は、
タイトルは大きいですが、読者数は追いついていません。

そんな中、投稿すると直ぐに見て頂いていると思われる、
大変熱心な読者の方が約1名、おられます。

ありがたいと思うと同時に、
1つリクエストがあります。

そんな方だからこそ、ポールへの想い、
ポールとの関係性を、伺ってみたいです。

 フィル・コリンズは、ポール・マッカートニーとの

長年の確執に終止符を打ったことを明かしています。

コリンズは英Sunday Times紙の新しいインタビューの中で、

こう話しています。

「僕たちは仲直りしました。彼も、

この件についてちゃんと話し合えたことを喜んでくれているし、僕も話し合えて本当に良かったと思っています。

こうしてすべてが丸く収まったのは本当にうれしいです」

事の発端は2016年の英The Sunday Times紙のインタビューでした。コリンズは、かつて憧れの存在だったマッカートニーに

反感を抱くようになった経緯を初めて明かしました。

2人が初めて顔を合わせたのは1964年。

当時まだ子供だったコリンズがビートルズ主演映画

『A Hard Day’s Night』にエキストラとして出演した時でした。

コリンズは2016年の英The Sunday Times紙で、

こう話しています。

「彼にはさ、人と話すときに見せる、ある特徴があるんだ。

相手にこんな気持ちを抱かせるんだよ……

(見下したようなリヴァプール訛りをまねしながら)

“君にとっては大変なんだろうね。

だって僕はビートルズの一人だから。

僕はポール・マッカートニーだ。

こうして僕と会話するだけでも、

さぞかし(緊張して)大変なんだろうね”っていう感じなんだ。

2002年にバッキンガム宮殿で開かれたパーティーで

仕事をしていたときに、彼と再会した。

マッカートニーはヘザー・ミルズと一緒にやって来ていて、

僕はハンター・デイヴィス著の『The Beatles』初版本を持っていたから、“ねえポール、この本にサインしてもらえますか?”

と頼んだんだ。すると彼は“ヘザー、見てごらん。うちの可愛いフィルはビートルズのファンなんだよ”って言ったんだ。

その瞬間“この野郎、このクソ野郎……”って思ったよ。

あのことは今でも忘れられない」

このインタビューが公開された後、

米ビルボード誌の別のインタビューでコリンズは、

この発言がマッカートニーの耳にも入り、

マッカートニー本人からメールが届いたことを明かしています。

「彼はこの件について連絡をくれた。

僕の発言に気を悪くしたみたいだった。

もちろん花束なんてもらってない。

届いたのは“もうこの件は終わりにして、それぞれ前に進もう”

というような内容だった。

僕が彼について少し辛口なことを言ってしまって、

彼が気分を害したのは申し訳ないと思っている。

でも、そんなにひどいことを言ったわけじゃない。

時々“その態度、もう少し改善の余地があるんじゃない?”と

伝える人がいなければ、その人は良くなりようがないだろう?」

コリンズは2026年の英Sunday Times紙の新しいインタビューの中で、マッカートニーが2016年にメールを送っていたことを

明かしています。

「(そこには)“ちょっとがっかりしたよ”とか、

そんなことが書かれていた。

それから”そんなに……sacrosanct

(※「極めて神聖な」「不可侵の(侵してはならない)」

「批判や変更を許さない」の意味)”という言葉を使っていた。

正直、それがどういう意味なのかよく分からなかったけど、

でも、とにかくそのやり取りは僕に後味の悪さを残したし、

もちろん彼にとっても後味の悪さを残したんだ」

しかし最近、コリンズは11月にロサンゼルスで開催される

キングス・トラストのチャリティーオークションのため、

他のアーティストたちに記念品を寄付してくれるよう

依頼していたところ、マッカートニーからも連絡があって、

マッカートニーは自分も記念品を寄贈したいと申し出たという。

マッカートニーは寄付すると電話で伝えたうえで、

2人の不和の件をさりげなく持ち出しました。

コリンズはこう振り返っています。

「話がその方向へ向かうのは分かっていたから、

“その話をしてくれて、本当に良かった”と伝えたんだ。

だって彼は、僕の人生の一部とも言える存在だからね。

実際にそう言ってしまったのは事実だけど、

あの時、あんなことを言わなければよかったと思っているよ」

 

2026/08/04 amass