ポール・マッカートニー 語録

ポール・マッカートニー 語録

Paul McCartney In His Own Words

当ブログは公表された著作物の出所を明示した上で、
規定に従って正当な範囲内で引用しています。

 ビートルズが1969年1月に伝説的パフォーマンス

「ルーフトップ・コンサート」を行ったのは、

ロンドンのサヴィル・ロウ3番地にあった

アップル・コア旧本社の屋上でした。

英ガーディアン紙によると、

アップル・コアは旧本社があったこの建物を新たに再取得し、2027年に新しい観光スポットとして一般公開する予定です。

サヴィル・ロウはオーダーメイドの名門高級紳士服店が集中していることで有名ですが、ビートルズが設立した会社アップル・

コアの旧本社はサヴィル・ロウの3番地の建物にありました。

ガーディアン紙によると、アップル・コアは新たに再取得し、「ザ・ビートルズ アット 3 サヴィル・ロウ

(The Beatles at 3 Savile Row)」と名付けて一般公開する予定。この施設は7階で、アップル・コアのアーカイブ資料の展示に

加え、企画展やショップも設けられる予定です。

最大の見どころとなるのは、

バンドが最後のアルバム『Let It Be』を録音したスタジオの

再現と、「ルーフトップ・コンサート」が行われた屋上への

立ち入り許可でしょう。

最近ここを再訪したというポール・マッカートニーは、

こうコメントしています。

「屋上はもちろん、この建物の中には本当にたくさんの特別な

思い出がある。チームがとても素晴らしい計画をまとめてくれたので、完成した時にみんなに見てもらえるのが楽しみだよ」

リンゴ・スターも「まるで家に帰ってきたみたいだ」

と表現しています。

アップル・コアは1976年にサヴィル・ロウを離れましたが、

現在のCEOであるトム・グリーンが、

この大規模な“帰還プロジェクト”を率いているという。

グリーンはこう話しています。

「今でも毎日のように、ファンがサヴィル・ロウ3番地の

外観の写真を撮りに来ています。

でも来年からは、中にも入れるようになるんです。

(屋上については)1969年のあの日から、

手すりさえもそのまま残っているんです」

ロンドン市長のサディク・カーンは、

「ザ・ビートルズ アット 3 サヴィル・ロウ」の計画について「非常にエキサイティングだ」と述べ、

この施設は「ロンドン市民だけでなく、

世界中から訪れる観光客を魅了するだろう」と語っています。

 

2026/05/11 amass )元ネタに写真あり

 チャーリー・ワッツは言っていた。

「ビートルズには、見せ場が無かったよね。

一度でも観ていれば分かるさ。

4人の男が突っ立てるだけだった。

見どころは特に無くて、単に名前に惹かれて皆が行っていたんだ

。でも僕らの場合は、リッチモンドでプレイしていた頃から、

例えステージがカーペット1枚分程度の広さしか無くても、

ミックが必ず見せ場を作っていた。

そういうのは必要なんだよ」P-92

 

ビル・ワイマンも言う。

「今思い返しても、ビートルズの方がうちのバンドよりも

良い曲を書いていたし、歌も上手かったよ。

でもライヴでは、ストーンズが遥かに上を行っていた。だから

ビートルズは、僕らと会場が一緒になると緊張したそうなんだ。ロイヤル・アルバート・ホールでやったポップ・プロム(1963年9月)やNME(1964年4月の同誌ポール・ウィナーズ・コンサート)でもそうだったらしい。そういう話を本人達が後になって

教えてくれたんだ。こっちだって緊張していたんだけどさ。

ビートルズは旋風を巻き起こしていたんだもの。

つまり互いを尊重し合う社会がそこに出来ちゃってたから、

ビートルズともあんなに仲良く成れたんだ。そもそも音楽性が

全く被らなかったから、邪魔し合う事も無かったしね」P-93

 

「ジミ・ヘンドリックスをサヴィル・シアターで観たんだ。

ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・

クラブ・バンド』が発売されて1週間もしないうちに

曲を演奏していたよ」とチャーリー・ワッツは言っていた。

確かに公演日は6月4日で、そのアルバムが出たわずか3日後

だったにも関わらず、ヘンドリックスはタイトル・ナンバーで

幕を開けたのだった。こんなにも素早く曲を覚えた事を、作者

ポール・マッカートニーが後に「光栄の至り」と絶賛している。当日の目玉はプロコル・ハルム。また、かつてはムーディー・

ブルースのメンバーとして、後にはウイングスでも活躍する

デニー・レイン率いるエレクトリック・ストリング・バンドも

フィーチャーされていて、

そのライヴもチャーリーは高く評価した。P-142

 

「チャーリーは愉快で最高なヤツだったよ」

と、古い友人の訃報を受けて語ったリンゴ・スター。

「70年代に、うちに来てくれた事があってね。

ジョン・ボーナムもいて、ドラマー三人で適当に遊んでたんだ。そのうちにボーナムがキットを叩き始めた。

ところがちゃんとした会場という訳じゃないし、

床に固定していなかったから、チャーリーと僕が

バス・ドラムを両方とも、手でずっと押さえる羽目になってさ。あれは写真に撮っておけばよかったなぁ」P-367

 

( チャーリー・ワッツ公認評伝 人生と時代とストーンズ )

 ポール・マッカートニーは現地時間5月5日にロンドンのアビイ

・ロード・スタジオで開催された50人の幸運なファン向けの

新作試聴イベントで収録曲にまつわるエピソードを語っている。

 

ファンは携帯電話を預け、伝説のスタジオ・ツーへと案内されている。ここはビートルズがキャリアを通してレコーディングを

行ったスタジオで、イベント開始前にはコントロール・ルーム

からポールの声が聞こえ、ファンは首を伸ばして

伝説のミュージシャンを一目見ようとしていた。

その後、ポールは階段を下りてメインスタジオへと姿を現した。レコードや額入りの写真、その他様々な品々

(ニュー・アルバムのタイトルが書かれた道路標識も含む)

が飾られた、まるでリヴィング・ルームのような空間に

彼は腰を下ろす事となっている。

 

ポールはくつろぎながら語っている。

「こんにちは、ようこそ、アビイ・ロードへ。

皆さんにニュー・アルバムを聴いてもらって、

その事について話をしたいと思う」

その後の90分間、この伝説的人物による回想録が語られ、

リヴァプールでの青春時代やビートルズのメンバーとの

友情が芽生えた初期の頃を振り返っている。

 

ポールはニュー・アルバムについて

「過去を振り返る」曲が「かなり多く」収録されていると述べ、なぜ自分が過去について多くの曲を

書く事になったのかについて語っている。

「ふと気づいてみれば、そこには多くの情報が貯められて

いたんだ。チャールズ・ディケンズだったら、

父親が刑務所に居た事なんかを書くはずだ。

過去というのは非常に豊かな情報源なんだよ」

 

そうした「思い出の曲」の中には

アコースティックを主体とした“Down South”もあり、

ジョージ・ハリスンと初めて友達になった頃、

ヒッチハイクをした時のエピソードが歌われているという。

「ジョンとジョージに『ヒッチハイクに行こう』

と提案したのは僕だった。

ジョンがそんな事をやるとは思えないし、

ジョージもそうだ。あれは僕だったね」

 

ポールはリヴァプール訛りを強調して、

もう一度「ヒッチハイクに行こう」と口にしながら、

ジョージ・ハリスンと牛乳配達車をヒッチハイクした時の

エピソードを披露している。

ジョージはその際にバッテリーの上に座らなければならず、

ジーンズのジップがバッテリーに「触れていた」ために

火傷を負ったという。

 

ポールは話の最後に語っている。

「記憶というのは不思議なものだ。

オリヴィア・ハリスンにこの話をしたんだけど、彼女は

『ジョージもその話をしてくれたわ。ジップで火傷したってね』と言っていてね。そう、あれは間違いなくジョージだったんだ」

 

新作『ダンジョン・レインの少年たち』からの

ファースト・シングルとなる“Days We Left Behind”では

ジョン・レノンに言及しているが、ポールは今でも

ジョンの事を話すと「感情的になる」と語っている。

 

一方、活気あふれる“Home To Us”は、

ポール、ジョージ、リンゴが育った

リヴァプールの労働者階級の地域を振り返る曲となっている。「僕達3人はかなり貧しい環境で育ったんだ」とポールは語り、アメリカ人に自分達の住んでいた地域のことを話すと、

「ドラマ『ダウントン・アビー』の事みたいに聞こえるんだ」

と冗談を飛ばしている。

「どんなに荒れていようとも、

そこは僕達にとっては故郷なんだ」

 

“Home To Us”についてはリンゴがドラムとヴォーカルを担当し

、リンゴとポールが交互に歌う形となっている。

しかし、この曲が完成するまでには紆余曲折があったという。

ポールによると、リンゴはアンドリュー・ワットのロサンゼルスのスタジオでドラム・トラックをレコーディングしたが、

それが何にも使われていないことにポールは「腹を立てた」

という。ポールはアンドリューにそのトラックを聴かせてもらい

「素晴らしい。まさにリンゴだ」と思ったとの事で、

「トラックを完成させて、リンゴに渡して、

『ほら、これが君が望んでいたものだ』と言ったんだ」

と語っている。

 

ポールがリンゴにこの曲で歌ってほしいと頼んだところ、

リンゴは快諾したものの、

コーラス部分のヴォーカルしか送ってこなかったという。

「『もしかして気に入ってないのかな』と思った」

とポールは語っている。

リンゴと話し合った結果、二人はようやく意気投合して、

初の「ポールとリンゴのデュエット」曲が

完成する事になったという。

 

『ダンジョン・レインの少年たち』には

ポールが初めて両親について書いた曲だという

“Salesman Saint”(「そうせざるを得なかったから」

耐え続けた厳しい時代を歌った楽曲)、

グラストンベリー・フェスティバルの

「ヒッピー的雰囲気」から影響を受けた“Mountaintop”、

妻のナンシーへのラヴ・ソングである

“Ripples In A Pond”といった曲も収録される。

 

アルバムの再生中、ポールは曲に合わせて口パクで歌ったり、

エアギターやエアドラムを披露したり、時折アコースティック・ギターを手に取って観客に演奏してみせたりした。

“Life Can Be Hard”について語る際には、

まさに曲のメインとなるギター・パートを演奏したが、

音を外すと、「練習してなかったんだ。こんなことをするって

分かってるなら、練習するべきだったね」と打ち明けている。

しかし、いたずらっぽい笑みを浮かべながら、

ポールは「気にしてないけどね」と続けている。

 

新作『ダンジョン・レインの少年たち』は

アンドリュー・ワットのプロデュースで

ロサンゼルスとイースト・サセックスで

レコーディングされており、5月29日にリリースされる。

 

また、ポールはローリング・ストーンズによる

ニュー・アルバム『フォーリン・タングス』に

ゲスト参加している事も発表されている。

 

2026.5.7 NME JAPAN )元ネタに写真あり

 ローリング・ストーンズはニュー・アルバム

『フォーリン・タングス』の発表記念イベントを

現地時間5月5日にニューヨーク州ブルックリンで開催している。
ニュー・アルバムは7月10日にリリースする事を発表している。

 

ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ロニー・ウッドは

司会のコナン・オブライエンと共に

ポール・マッカートニーとコラボした事を語っている。

「前作でポール・マッカートニーとはセッションを

やったんだけど、今回の曲もそのセッションからの曲なんだ」

とミック・ジャガーは語り、

アルバムが以前のセッションでレコーディングされた4曲と

新たにロンドンでレコーディングされた10曲で

構成されている事を明かしている。

 

コナン・オブライエンがローリング・ストーンズとの仕事に

気後れしていたコラボレーターはいたかと尋ねると、

ミック・ジャガーは次のように答えている。「ポールについては参加したがっていたね。彼は隣のスタジオにいたんだ」

ロニー・ウッドは冗談交じりに次のように続けている。

「ポールについては気後れなんてまったく無かったよ。

ただ俺たちと一緒に演奏したかったんだ。

その経験を埋めておきたかったんだろうね。ポールは

『これでローリング・ストーンズと演奏したって言える。

ワオ!』って言っていたよ」

2026.5.7 NME JAPAN )元ネタに写真あり

ポール・マッカートニーの18枚目のソロ・アルバム『The Boys Of Dungeon Lane(邦題:ダンジョン・レインの少年たち)』が5月29日にリリースされる。

アンドリュー・ワットがプロデュースを手がけた同作には、

ジョン・レノンとの友情を歌った楽曲など、

マッカの若き日を振り返る曲が多く収められている。

 

ポール・マッカートニーは、

1962年にビートルズの黄金ラインナップが固まって以来、

ずっとリンゴ・スターと共に音楽を作り続けてきた。

しかし、ポールが近日発売予定のニューアルバム

『The Boys Of Dungeon Lane』の制作を開始するまで、

実際に一つの楽曲で彼らがデュエットしたことは一度もなかった

。新曲「Home To Us」(5月8日先行リリース)は、自分と一緒にリンゴがボーカルを務めるのに自然な場所だと感じられたのだ。

「この曲を書くにあたって、

僕らがどこから来たのかについて話しているんだ」と、

5月5日に新作アルバムの試聴のために

アビー・ロードに集まった記者団にポールは語った。

「誰しも同じように、何もないところから出発して、

自分を築き上げて行くものだよね。

リンゴはディングルの出身で、あそこは本当にタフな場所だった

。彼は働いていたから、帰宅途中によく強盗に遭ったと言って

いたよ。めちゃくちゃなところだったけれど、

僕らにとってはそこがホームだったんだ」

「そのアイデアをもとに曲を作って、リンゴに送ったんだ。

そうしたら、彼からコーラスに数行だけ歌を足したバージョンが返って来たので、もしかしたら気に入らなかったのかなと思った

。彼に電話をしたら、僕が一行か二行だけ歌ってほしいのだと

思ったと言うので、僕は一曲丸ごと君が歌っているのを聴きたいんだと伝えた。そうして、僕が最初の一行を、

リンゴが次の一行をという風に歌ってデュエットになった。

こんな事は今まで一度もやった事がなかったよ。

それからバッキング・ボーカルが欲しくなって、

女の子達の声が聴けたら良いなと思いついた。

クリッシー・ハインドとシャーリーン・スピテリが

引き受けてくれたよ、彼女たちは仲間だからね。

それで、彼女達が歌ってくれたんだ」

 

アンドリュー・ワットがプロデュースした

『The Boys Of Dungeon Lane』に収録されている多くの曲と

同様に、「Home To Us」は強いノスタルジーを込めて

ポールの人生を振り返っている。アルバムのタイトルは

「Days We Left Behind」の一節に由来しており、

そこではポールが子供の頃に遊んだリヴァプールの

マージー川近くの地域について言及されている。

また、子供時代の家でジョン・レノンと共有した

「秘密の暗号」についても回想している。

「自分の言ったことに嘘はない」と彼は歌う。

「交わした約束が破られる事は決してない」

ポールは記者団に語った。
「これは僕にとってリヴァプールのたくさんの思い出なんだ。

でも同時に、僕らが置き去りにしてきた全ての日々の事でも

ある。学校や昔の仲間……誰にだってあるだろう。

(この曲の)中盤にはジョンの思い出があって、

そこへ立ち返るのは素敵な事だよ」。

レノンとどんな「秘密の暗号」を共有していたのか問われると、ポールは笑った。「教えないよ」と彼は言った。

「曲を書く時には、作り話をたくさん盛り込むものだからね」

 

 

ザ・ローリング・ストーンズとの数奇な縁

 

「Salesman Saint」で、ポールは自身の両親について歌い、

さらに遠い過去へと遡る。

「僕は戦時中の1942年に生まれた」と彼は語った。

「幼過ぎてその状況を理解出来てはいなかったけれど、

両親は違った。父は消防士で爆撃に依る火災を消し止めていた。母は看護師で助産師だった。

それでも彼らは、そうせざるを得なかったから、活動を続けた。今のウクライナやガザ、

その他の場所にいる人々と同じようにね」

「Down South」はビートルズ初期を反映したものであり、

「As You Lie There」はジャスミンという名の近所の女の子への

、報われなかった子供時代の初恋に触れている。

「彼女にどう近づけば良いのか分からなかった。

一度も話し掛けられなかったんだ」とポールは明かした。

「笑い話なんだけど、その年の後半に彼女が本当に現れて、

ドアをノックしたんだ。

でも僕は手が離せなくて――トイレに入っていたんだ――

だからジャスミンを逃してしまったのさ!」

 

宇宙的な偶然により、ポールがアンドリュー・ワット・

プロデュースの最新アルバムの宣伝でロンドンにて記者団と

面会したのと正に同じ日、ザ・ローリング・ストーンズもまた、アンドリュー・ワット・プロデュースの新アルバム

『Foreign Tongues』の宣伝のためにニューヨークで

記者団と面会していた。そのアルバムには、

2023年の『Hackney Diamonds』セッションで録音された、

ポールをフィーチャーした楽曲が1曲収録されている。

ストーンズとポールには、現時点で公演の予定はなく、

ストーンズが再びツアーを行う計画があるかどうかも不明だ。

一方で、最近プロデューサーのT=ボーン・バーネットと組んで

最新ソロアルバム『Long Long Road』を

制作したリンゴ・スターは、5月28日にカリフォルニア州

テメキュラでオール・スター・バンド・ツアーの

新たな公演をスタートさせる予定だ。

 

2026/05/07 Rolling Stone JAPAN )元ネタに写真あり

 キャスターでジャーナリストの安藤優子が、

5日放送のテレビ東京『開運!なんでも鑑定団』に出演。

持参した“お宝”の鑑定額に驚いた。

 

「ホテルウーマン」を夢見た高校生時代、

キャスターになるまでの道のりを当時の写真と共に紹介した。MCの今田耕司も「初めて知りました…」と驚いていた。 

 

日本を代表するジャーナリスト・安藤優子。
1958年、千葉県市川市で3人きょうだいの末っ子として生まれ、名門・都立日比谷高校に進学。当時の夢はホテルウーマンで、

英語力を磨く為高校2年生でアメリカ・ミシガン州へ留学した。
 

帰国後は上智大学外国語学部に進学。

そこで人生を変える出来事が起きる。
渋谷「パルコ」でエレベーターガールのアルバイト中、

外国人客と流暢な英語で会話する姿を

テレビ朝日のプロデューサーが見て、

「君、テレビに出てみない?」とスカウト。こうして1980年、報道番組「BIG NEWS SHOW いま世界は」(テレビ朝日系)の

アシスタントとして出演することになった。

1981年のポーランドからの生中継を皮切りに数々の

歴史的現場を取材。1986年のフィリピン政変での取材では

「ギャラクシー賞」個人奨励賞を受賞した。
さらに28歳で「FNNスーパータイム」(フジテレビ系)の

メインキャスターに就任。1991年の湾岸戦争では、

日本人女性ジャーナリストとして唯一、現地取材を行った。
当時の報道業界は男社会の色が濃く、「女が出しゃばるな」と

批判されることもあったが、毅然と立ち向かい地位を確立。2023年度からは大学で講義も行い、

自身の経験を次世代に伝えている。 

 

そんな安藤が持ち込んだ“お宝”は、世界的ロックバンド、

ビートルズのポール・マッカートニーの直筆サイン。

 

 

安藤は言う「ビートルズの中では断トツでポールが好き。
雑誌からこの写真を拾い出してきたの。
それを額装してずうっと家のキッチンに飾ってたの。
ポールは時に油まみれになりながら、
私のキッチンライフをずっと見守ってきたの。」

 

「1990年にポールが来日してある小学校を見学に行く。
でそこに行ったならばインタビュー出来るかもと言われたの。
私、突撃インタビュー大得意なんで・・・アポ無しで。
で只行くのも何なのでこれを持って行ったの。
で近づいて行って写真をこう見せたの。
そしたらポールが「オォー」って驚いたの。
「なんでこんなの持ってるの?」って言って、
額装した上からサインをくれたの。
でガラスの上に書いてくれたので、
もう一枚劣化しないように二重ガラスなの。」

 

10分位に及ぶインタビューに成功。

今田が「まさにスクープってことですか!?」と問いかけると

「ま自分で言うのもなんですけどね!」と笑顔を見せた。  

 

「タダなわけですよ」と本人評価額を悩みつつ、5万円と提示。しかし、結果は25万円という結果に、

安藤自身が「え~すごーい!?」と驚がくした。

 

鑑定した「ビートルズ研究所」代表の本多康宏氏は「1990年にポールの初めてのソロコンサートの記念すべき時のもの」とし「ポールってビートルズのメンバーの中で1番筆跡が早い。このサインは大きくて丁寧」とサインの中でも貴重なものだと分析。「ただ、残念なのは写真にサインしてない。もしこれが、

直接サインしていたら45万円くらい」と話した。

 

最後にMCの今田耕司から

「保存するときは、くれぐれも油の近くに置かないように」

と注意されると、安藤は大笑いしつつ、

大切なお宝の価値をかみしめていた。

 

なお、TVerで見逃し配信中。12日午後21時54分終了予定。

 

2026/5/7 オリコンニュースを編集 )
2026/5/6 dmenu ニュースを編集 )

 ポール・マッカートニーの新スタジオ・アルバム『The Boys of Dungeon Lane(邦題:ダンジョン・レインの少年たち)』

からの2ndシングルとして、

リンゴ・スターとのコラボレーション曲で、

ポールとリンゴによる初のデュエットとなる

「Home to Us」が5月8日(金)にリリースされます。

ポールは先日、アビー・ロード・スタジオ2にて、

幸運なファン50名を招いて特別な試聴会を行いました。

ポールは「Home to Us」がどのようにして

生まれたかについて、次のように語っています。

「リンゴがスタジオにふらっと来て、

ちょっとドラムを叩いてくれたんだよ。

それで僕はアンドリュー(ワット)に

“曲を作って彼に送ろう”と言った。

だからこの曲は完全にリンゴの事を念頭に置いて作ったんだ。

歌詞では、自分達がどこから来たのかについて歌っている。

多くの人と同じで、何もないところから始めて、

自分を築き上げて来たんだ。

リンゴはディングルの出身で、あそこは本当に荒れていた。

彼は仕事帰りによく襲われたって言ってたよ。

“働いている”ってだけでね。どれだけめちゃくちゃな場所でも、そこは僕達にとって故郷だったんだ。

僕はそんなイメージを基に曲を作ってリンゴに送った。

彼から返ってきたのは、サビに数行加えただけのヴァージョン

だったから、“もしかして気に入らなかったのかな”と思ったよ。でも電話してみたら、

彼は“1~2行だけ歌って欲しいのかと思った”と言うから、

“ぜひ全部歌って欲しい”と伝えたよ。それで結局、

僕の最初の一行と、リンゴの二行目を組み合わせて、

デュエットにしたんだ。そんな事をしたのは初めてだったよ。

それからバック・コーラスも欲しくなって、

女性の声が入ったらいいなと思った。すると

(プリテンダーズの)クリッシー・ハインドがやると言ってくれて、(テキサスの)シャーリーン・スピテリも参加してくれた。

2人は友達なんだ。そうして彼女たちが参加してくれたんだよ」

アルバムは5月29日発売。ポールは過去5年間にわたり、

ローリング・ストーンズやオジー・オズボーンなどの

プロデューサーであるアンドリュー・ワットと共に

本作を制作し、最近ワールドツアーの合間を縫ってロサンゼルスとサセックスでのスタジオ・セッションで楽曲を録音しました。ポールはほとんどの楽器を自ら演奏しています。

「これまでで最も内省的なアルバム」

と評される『The Boys Of Dungeon Lane』は、ポールが

リヴァプールで過ごしたビートルズ以前の人生を振り返る内容。プレスリリースによると、

ポールが「率直で無防備、そして深く内省的な心境」で

「戦後リヴァプールでの幼少期や、両親のたくましさ、

そして世界がまだ“ビートルマニア”を知るはるか以前に、

ジョージ・ハリスンやジョン・レノンと共有した初期の冒険に

ついて、かつてない程の率直さで綴っている」という。

また「それは歴史家達が今なお検証し続けている時代であり、

知らぬ間に一つの文化的革命の礎を築いていった、

静かで飾らない日々であった。

ポールはそれらを神話や伝説としてではなく、

あくまで自身の記憶として辿っている」とも紹介されています。

 

2026/05/06 amass )元ネタに写真あり

 ドミニカ共和国の北、タークス・カイコス諸島の

パロット・キーが俺の隠れ家になった。

(2005年1月?)、ビーチを歩いて岩を登っていたら、

海岸伝いにポール・マッカートニーがやって来た。

あの年、あいつがスーパー・ボウルに出演する直前の事だ。

 

本当に久しぶりの再会をするには随分妙な場所だが、

最高の場所だったのも確かだ。

二人共じっくり話せる時間があったからな。

あいつはひょっこりやって来て、俺の隣人の

ブルース・ウィリスから住んでる所を聞いたんだと言った。

 

「ああ、ちょっと寄ってみただけだ。迷惑でなけりゃ

いいんだが。電話もしないで悪かった」と言う。

ポールはいかにも休養が必要って感じがしたな。

後から思えば、奴には色々あった時期だったんだ。

あの旅に一緒に来ていたヘザー・ミルズと、

あれから直ぐに破局を迎える事に成る。

 

ポールは毎日やって来るようになった。

子供が寝ている間に、こっちに来るんだ。

ポールの事は、そんなよく知ってた訳じゃない。

ジョンとは気心が知れてたし、

ジョージとリンゴともそうだったが、

ポールとはあんまり一緒に過ごした事が無かったからな。

 

会う時間が出来て、俺もあいつも凄く嬉しかった。

たちまち意気投合して、昔の事を話し、ソングライティングの

話をした。ビートルズとストーンズとの違いみたいな、

不思議な位率直な話もした。

 

ビートルズは全員がリードボーカルをやれるからボーカル・

バンドで、ストーンズはどっちかと言えば楽器弾きのバンドだ、

みたいな。ストーンズにフロントマンは一人しかいないからな。

 

自分は左利きだから、ジョンとは合わせ鏡のようにギターを弾けた、とあいつは言う。それで二人して、その形で弾き始めた。

一緒に作曲にまで取り掛かった。マッカートニー/リチャーズのナンバーだ。その歌詞は何週間も壁にピンで留めてあった。

 

スーパー・ボウルで「プリーズ・プリーズ・ミー」をやれよと

けしかけたんだが、演奏曲については何週間か前に通告する必要があったらしく実現はしなかった。

あの曲は、以前あいつがおちゃらけてロイ・オービソン風に

歌ったのを憶えていたから。一緒に歌ったりしたな。

 

中に入れる犬と同じデザインを施した空気注入式犬小屋についての議論にも突入した。ダルメシアン用のやつを見た事がある、

とか何とか。その後話題は特別プロジェクトに移った。

有名人に寄付をしてもらって、そいつらをシェラックで

コーティングして、大物芸術家に飾り付けてもらうってやつだ。

 

エルトンなら話に乗るぜ。良い奴だからな。

ジョージ・マイケル、あいつもやるだろう。マドンナはどうだ? こんな話で大笑いして、一緒に楽しい時間を過ごしたんだ。

 

( キース・リチャーズ自伝ライフ P-608-610:楓書店 )

 フランスで販売されている「ジョン・レモン」と名付けられたビールが、あることをきっかけに大きな注目を集めた──芸術家のオノ・ヨーコ氏が、商品の販売を中止するよう求めたのだ。

 

ブルターニュ地方にある小さな醸造所

「ブラッスリー・ドゥ・ランプリームリー」は3月下旬、

オノ・ヨーコ氏の弁護士から、ブランド名の使用を中止するか、ビートルズの伝説的なメンバーである故ジョン・レノンの名前に対するロイヤルティを支払うよう求める通知を受け取った。

 

オーナーのオーレリアン・ピカールさんがAFPに語ったところによると、通知には「10万ユーロ(約1840万円)」や

「1日あたり150~1000ユーロ(約2万7600円~18万4000円)

の罰金」といった数字があった。

「基本的に、すべての製品を回収し、

即座の名称使用停止が求められた」とピカールさんは説明した。

しかし交渉の末、7月1日以降は同じ名称を使わないとの約束を

条件に、それまでに残りの5000本を販売する許可を得た。

 

メディアがニュースとして報じると、人々はこの「社会問題」に注目した。その結果、大きな宣伝効果が生まれ、

「ジョン・レモン」ビールの売上は大きく伸びることとなった。

「すごい効果で、残りは1000本以下となった」

とピカールさんは言い、「まさに不幸中の幸いだ」と続けた。

 

5年前にレモンを使ったビール「ジョン・レモン」

の販売を開始したこの醸造所では、

他にもセレブの名前をもじったビールをいくつか販売している。従業員は2人で、年間の販売本数は5万本から8万本。

 

醸造所では現在、「ジョン・レモン」に代わる

新たな商品名を模索している。ピカールさんによると、

代替案の「ジョーヌ・レモン(Jaune Lemon、黄色いレモン)」については、オノ・ヨーコ氏側が難色を示しているという。

 

2026年5月5日 AFP BB News )元ネタに写真あり

 1972年に盗まれたポール・マッカートニーの

ヘフナー・ベース・ギターは51年後に見つかり、

ポールの手元に戻ってきました。

このベースギターに関するドキュメンタリー

『Paul McCartney: The Hunt For The Lost Bass』

英BBCで先日放送されたのですが、

その内容にホークウインド(Hawkwind)の創設者で

バンドリーダーのデイヴ・ブロック(Dave Brock)

怒りと落胆をあらわにし、

「頭にきたよ。これはバンドに対する侮辱だ」と語っています。

ポールはビートルズの2度目のハンブルク遠征中の1961年、

18歳の時に、ハンブルクでこのヘフナー・エレクトリック・

ベース・ギター「ヘフナー500/1 ヴァイオリンベース」を

購入しました。ポールはバンドの初期のライヴやデビュー・

アルバムを含む初期のレコーディングで使用しました。

ウイングスがロンドン各地のスタジオで『Red Rose Speedway』をレコーディングしていた1972年10月、

ウェスト・エンド・ロンドンのノッティング・ヒルに近い

ラドブローク・グローブのケンブリッジ・ガーデンズに

駐車されていた、ウイングスの機材を積んだトラック/バンから複数の楽器が盗まれました。

そのうちの1本が1961年製ヘフナー・ベースでした。

ドキュメンタリー

『Paul McCartney: The Hunt For The Lost Bass』は、

予想外の展開として、地元の住人だったホークウインド

特に彼らのローディーで、後に電子音奏者となる

マイケル “ディクミク”・デイヴィス

有力な容疑者として名指ししています。

当時その一帯は戦後のスラム街で、

不法居住者、労働者階級の家族、ヒッピーのクリエイター、

そしてホークウインドのようなバンドが暮らしていました。

ディクミクの地下アパートは、

バンが停められていた場所のそばにあったという。

このドキュメンタリーの中で、

このベースを管理していた元ウイングスの

サウンドエンジニア/ローディーのイアン・ホーンは、

「(ウイングスのクルーメンバーである)トレヴァー(ジョーンズ)は、ディクミクのことを、ちょっと怪しいと思っていた」

と言っていますが、その裏付けは示せないまま、さらに

「自分も、あの連中の誰かだという気はしていた。

みんな僕達がポールのために働いているのを知っていたからね」と続けて、さらにホーンは、

自分とトレヴァーがレンチを手にディクミクの部屋へ押し入り、中で驚いた様子のディクミクを見つけたものの、

ベースやウイングスの他の機材は見当たらなかった、

と振り返っています。

ブロックは英Classic Rockの取材に応じ、こう話しています。

「本当にそうだったのか? 

俺には大げさな作り話にしか聞こえない。

1972年の俺たちはものすごい数のツアーをしていたし、

その時期はロンドンにいなかったかもしれない。それに、

もしレンチを持った2人組がディクミクの部屋に押し入って、

“ポール・マッカートニーのベースを盗んだ”

なんて責め立てたなら、

俺たち――バンドやマネージャーのダグ・スミス――は

間違いなく彼からその話を聞いていたはず。

でも、そんな話は一度も聞いていない。俺は信じないよ。

(ドキュメンタリーの中でホークウインドが

“アンチ・ビートルズとして有名で、

アンチ・ビートルズの曲を作った”と主張しているが)

まったくのデタラメだよ。

メンバー全員が『Magical Mystery Tour』や

『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』を

持っていたと思う。レミーはビートルズが大好きだったし、

彼にとってロックンロールのヒーローだった。

アンチ・ビートルズの曲……

何を言っているのかさっぱり分からないね。

(ドキュメンタリーの中で、

盗難の動機として、もう一つ挙げられたのは、

ホークウインド自身が直前に約1万ポンド相当の機材を

盗まれていたということでした)

それは(1972年5月の)Bickershaw Festivalの時の話だ。

機材もバンも盗まれた。でも、だからといって

他のバンドに同じことをやり返すなんてありえない。

俺たちは格好の標的なんだよ。反体制的だし、

ヘルズ・エンジェルスとも付き合いがあったからね。

ピンク・フロイドみたいな連中には、

こんな扱いはしないだろう」

ドキュメンタリーの終盤、ベースは見つかり、

ポール・マッカートニーがその楽器と再会を果たす頃には、

ホークウインドは完全に潔白だったことが明らかになります。

ヘフナー・ベースを盗んだのは

ジョージ・グレニスターという人物で

「小遣い稼ぎになるだろう」と軽い気持ちで盗んだという。

しかし自分が手にした楽器の正体に気づくと、

このヘフナー・ベースがあまりにも有名すぎて売れないと

気づきます。そこで彼は、ラドブローク・グローヴにあるパブ「アドミラル・ブレイク」の店主に、

ビール数杯と引き換えにヘフナー・ベースを渡しました。

ブロックはこう続けています。

「30分で済むような退屈な話だったから、

何か刺激的な要素を加える必要があったんだろう。

ポール自身は、この件にそこまで関わっていなかったと思う。

制作者たちには、こう言ってやりたいね。

腹を立てているファンがたくさんいるし、

そして、もしディクミクがまだ生きていたら、

間違いなくを訴えていたはずだって。

見終わった後、本当に腹が立ったよ。

ディクミクに対しても失礼だし、バンドに対しても失礼だ。

しかも結局、

そんな演出をする必要なんてまったくなかったんだよ」

 

2026/05/01 amass )元ネタに写真あり