ビートルズ(The Beatles)は自分たちを守るため、
ツアーをやめなければならなかった。
60年前、サンフランシスコのキャンドルスティック・パークで、彼らは誰にも別れを告げないまま最後の公演を行った。
バンドの運命を変えた夜に何が起こった?
喝采に背を向け、未来へ
60年前の1966年8月29日、ビートルズはサンフランシスコの
キャンドルスティック・パークで最後のライブを行った。
それはファブ・フォーにとって大きな転機となる夜だった──
ジョン、ポール、ジョージ、リンゴがツアー生活に終止符を
打った夜だ。凍えるような霧と風のなか、
4人は最後に「Long Tall Sally」を思いきりぶちかまし、
自分たちは今なお最高のロックンロール・バンドであり、
ポップ界の頂点に立つ存在なのだと、
最後にもう一度、自分たち自身に証明した。だが、
そのあと4人は最後の一礼をして、それですべてが終わった。
最後のひと捻り。最後の叫び。
ライブ・バンドとしてのビートルズ、最後の戦いだった。
キャンドルスティック・パークで、彼らは何も発表しなかった──観客の誰ひとりとして、これが最後だとは知らなかった。
だがビートルズの4人は全員わかっていた。
自分たちの演奏すら聞こえない、わずか25分ほどの慌ただしい
公演のために街から街へ飛び回る生活には、もううんざりして
いた。複雑さを増した新しいサウンドをステージ上で
探求する余地などないスタジアム公演にも、飽き飽きしていた。毎晩「それでは次へ進みたいと思います」
と言い続けることにも、もううんざりだった。
キャンドルスティック公演は、結果的に新たな始まりとなった──ようやく彼らは空港やホテルや楽屋から解放され、
スタジオでの実験に四六時中打ち込めるようになった。
これから彼らは、世界を一変させる新たな音楽的冒険へと
飛び立とうとしていた。だが当時の4人には、
自分たちにそもそも未来があるのかどうかすらわからなかった。イギリスへ戻る飛行機のなかで、
ジョージ・ハリスンはついにそれを口にした。
「まあ、これで終わりだな」と彼は記者に言った。
「僕はもうビートルじゃない」
それでも、このコンサートには謎めいたコーダがあった。
「Long Tall Sally」を終えたあと、
ジョン・レノンは「In My Life」の冒頭のギター・リフを
ちらりと弾き、観客をじらした。それは、
ビートルズがライブでは演奏できなかった類いの曲だった──
絶叫するファンで埋め尽くされたスタジアムで鳴らすには、
あまりにも繊細だったのだ。だが同時に、
それは彼らの未来をほんの少し覗かせるものでもあった──これから先、自分たちが作っていくと心に決めた音楽だった。
「In My Life」のリフは、
ジョンからライブの観客へ贈る別れの挨拶だった──
だが同時に、その先の未来へ一緒についてきてほしいという
招待状でもあった。
1966年8月のアメリカ・ツアーは、最初から最後まで
論争につきまとわれた、長い悪夢のような日々だった。
メンフィス公演の会場外で開かれたクー・クラックス・クラン(KKK)の抗議集会には8000人が集まった。
だがキャンドルスティックでの4人は、
これが最後だとわかっているからこそ、いつもより肩の力が抜け
、浮かれているように聞こえる。互いを笑わせ合い、
どうせ誰も自分たちの言葉など聞いていないのをいいことに、
仲間内だけに通じる悪ふざけを飛ばしているのが聞き取れる。
ある場面では、ポール・マッカートニーがこうアナウンスする。「それでは次の曲をやりたいと思います。
このツアーで素晴らしい仕事をしてくれている
裏方のみんなからのスペシャル・リクエストです。
曲は『I Wanna Be Your Man』!」
だが誰も気づかなかった──そして、そのこと自体が、
彼らがツアーをやめる必要があった理由をよく物語っている。
ブライアン・エプスタインでさえ、
ポールのその冗談を聞いていなかった。
エプスタインは公演を欠席し、ロサンゼルスに残っていたのだ。彼を脅迫しようとしていた悪質な元恋人に
金を払って事態を収めようとしていた。
ビートルズが演奏したのは11曲。
「Rock And Roll Music」、「She's A Woman」、
ジョージの見せ場となる「If I Needed Someone」、
「Day Tripper」、「Baby's In Black」、「I Feel Fine」、「Yesterday」
、リンゴ・スターが声を張り上げる「I Wanna Be Your Man」、「Nowhere Man」、「Paperback Writer」、
そしてフィナーレの「Long Tall Sally」だ。
最初と最後を、少年時代から憧れてきた
2人のアメリカ人アーティスト、チャック・ベリーと
リトル・リチャードの曲で飾っていることにも注目してほしい。
だがもうひとつ注目すべきなのは、
ほんの数週間前にリリースしたばかりのニューアルバムから、
1曲も演奏していないことだ──その名は『Revolver』。
ビートルズ自身も、ほかの誰もがそうだったように、
アルバムの素晴らしさに驚いていた。
だが収録曲はスケールが大きくなりすぎ、
奇妙になりすぎて、ステージでは再現できなかった。
テープ・ループ? クラシックの弦楽八重奏?
シタールにタブラ? ポールはNMEで、いかにもマッカらしい
崇高なまでの自信をみなぎらせ、こう宣言している。
「僕らがこんなことをやったのは、少なくとも僕自身は、
誰かに『前にも聞いたことがある音だ』と言われるような
サウンドを作るのに、もううんざりしていたからだ」
春にアビー・ロードで一緒にこの音楽を作っていたとき、
彼らはまるで神になったような気分だった。
ところが今では、野球場を転々としながら、雨に濡れて
一夜限りのライブをこなしている──なんという落差だろう。
その軋轢がバンドを引き裂いていてもおかしくなかった。
だが実際には逆だった。それは彼らをひとつにし、
これまでで最も困難な決断を下させた──
喝采に背を向け、未来へと歩き出すという決断を。
災難に次ぐ災難
その夏のツアーは、抗議活動と殺害予告につきまとわれた。
アメリカのタブロイド紙が、かつて『Evening Standard』に
掲載されたインタビューを掘り起こしたからだ。そこでジョンは「今では僕らのほうがイエスより人気がある」と発言していた。政治家や聖職者たちは、神への冒瀆だ、堕落だとビートルズを
非難し、彼らが公然と公民権運動を支持している事にも反発した
。メンフィスで公演を行った際も、バンドはいつもどおり、
会場で人種隔離を行うことを認めなかった。
ジョンは後にこう振り返っている。
「外ではKKKがビートルズのレコードを燃やしていた」
公演中、「If I Needed Someone」の演奏中に、
ひとりの少年がステージへ爆竹を投げ込んだ。
それはリンゴのドラムのすぐ前で爆発した。
「僕ら全員──たしか映像にも残っていると思うけど──
顔を見合わせたんだ」とジョンは語っている。「みんな、
ほかの誰かが撃たれたと思ったから。それくらいひどかった」
冒瀆発言をめぐる騒動を鎮めるため、
ジョンはシカゴで記者会見を開いた。そう、じつに素晴らしい
アイデアだ──ジョン・レノンを外交使節に仕立てるなんて。
もちろん、結果は大失敗だった。
本人に謝ったふりをする気がまるでなかったからだ。彼がしたのは、「僕は自分が熱心なキリスト教徒だなんて言ってない」から「イギリスは警察国家になりつつある」まで、
火に油を注ぐような発言を次々と繰り出すことだった。
彼はイブニング・スタンダード紙の記者に責任を押しつけることも拒んだ(モーリーン・クリーヴは信頼する友人であり、
あのインタビューは真剣な知的対話だった。
彼女を身代わりにする気など、ジョンにはまるでなかった)。
さらには、もしイエスが今も生きていたなら、
「『Eleanor Rigby』も、あの人にとってはそれほど大した意味を持たなかっただろうね」と推測してみせる程の大胆さだった。ジョンに「しゃべってこの窮地を切り抜けてくれ」と
頼んだ者がいたのは、彼の人生で間違いなくこれが最後だった。
8月最後の数週間は、災難に次ぐ災難だった。14日の
クリーブランド公演では、何千人ものファンが警備柵を突破し、会場は大混乱に陥った。ビートルズは演奏を中断し、
再びステージへ戻って最後まで演奏できるだけの安全が確保されるまで、30分間バックステージに避難しなければならなかった。その1週間後のシンシナティでは、土砂降りの雨のなかで演奏し
、自分達は今にも感電死するのではないかと本気で思っていた。ポールは『ザ・ビートルズ・アンソロジー』でこう振り返って
いる。「バンドとして演奏を始める前から、
これまでやったなかで最悪のライブみたいな感じだったんだ」
その夜が転換点だった──ポールが、ツアーをやめたがる
ジョージとジョンを説得するのを諦めた夜だ。
「あの瞬間、みんなが『ああ、もうこのクソみたいなツアーにはうんざりしてるんだよ』って言ったんだ」
とポールは振り返っている。
「僕もついに同意した。
それまでは『いや、ツアーはいいものだし、
僕らを研ぎ澄まされた状態に保ってくれる』
って言おうとしていたんだけど……
でも最後には、僕も彼らに同意した」。いやはや──ポールが
ジョージの言うことが正しかったと認めるほどなのだから、
どれほど切羽詰まっていたかがわかる。
だが、まだ終わりではない──彼らにはあと1週間残っていた。そして、それは散々な1週間だった。
キャンドルスティック公演の前夜、ロサンゼルスの
ドジャー・スタジアムでのライブは暴動同然の事態となり、
7000人ものファンがビートルズの脱出用バンに殺到した。公演後、ビートルズは2時間に渡って楽屋から出られなくなった。
キャンドルスティック・パークでの公演も、また別の忌々しい
野球場でやる、どうでもいいライブのひとつになっていても
おかしくなかった──そこは野球界でもっとも嫌われた球場で、冷たく湿った風が吹き荒れることで悪名高く、
「湾岸の灰皿(Ashtray by the Bay)」と呼ばれていた。
サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地であり、
そのジャイアンツも1966年には苦いシーズンを送っていた。
ドジャースに1.5ゲーム差で及ばず、リーグ優勝を逃したのだ(ビートルズが公演を行った夜、
ジャイアンツはフィラデルフィア遠征中で、
ジム・バニングのスライダーに翻弄され、1対5で完敗した)。
だがどういうわけか、この夜のビートルズは心底楽しんでいる。自分たちだけが知っている小さな秘密を楽しむように。
彼らは新たな喜びを噛みしめるように、楽曲へ勢いよく
飛び込んでいく──なかでも「Baby's In Black」は格別だ。
ジョンとポールが真正面から目を合わせて歌うデュエットで、
ほかの誰も自分たちほどこの曲を愛していないと
十分わかっていながら、それでも2人は歌わずにはいられない。曲間のトークも、自分達自身を戯画化するようで最高におかしい
。ジョンはこうアナウンスする。
「それではこのまま続けたいと思います……みんなで一緒に続けて……僕らはみんなひとつで、ひとりはみんなのために……で、次の曲は、ええと、ずいぶん昔にシングルだった曲です。
ちょっとお行儀の悪い女性についての歌で、『Day Tripper』!」
最後の「Long Tall Sally」
8月にベイエリアを訪れた人なら誰でもそうなるように、
彼らもあまりの寒さについて話さずにはいられない。
ポールは「Frisco butchered」とつぶやく。
これは、アメリカ盤『Yesterday And Today』の
発禁・差し替えとなったジャケット、
いわゆる「ブッチャー・カバー」を茶化した言葉だった。
「この素晴らしい潮風のなか、
ここに来られて本当に最高でした」と最後にポールは言う。
「こんな天気でごめんなさい。それからみなさん、ぜひ一緒に
手を叩いて、歌って、しゃべって──というか、もう何でも
好きにやってください。とにかく最後の曲です。おやすみ!」。彼らが締めくくりに選んだのは、
1956年のリトル・リチャードの名曲「Long Tall Sally」。昔からビートルズが演奏するのをとりわけ好んでいた曲のひとつだ。
だがこの曲には、彼らだけに通じる密かな意味もあった──
9年前、ポールがジョンと初めて出会った日に、ギターで弾いて聴かせた曲なのだ。2人の友情は、この曲から始まった。
ビートルズは「Long Tall Sally」を、それまでに何百回も
演奏してきた。キャヴァーン・クラブからハンブルク、
シェイ・スタジアムからハリウッド・ボウルまで。
銃の手入れをするドイツのギャングたちがたむろする
いかがわしいバーでも演奏したし、
絶叫する少女たちで埋め尽くされた劇場でも演奏した。
だがこの夜、彼らがライブ活動の最後を締めくくる曲として
選んだのがこれだった──なんとも胸を打つ選曲だ。
彼らは本当に、自分達がかつていた場所へと戻っていったのだ。
そして──最後に「In My Life」のギター・フレーズを
ほんの少し弾いてみせると──すべてが終わった。
『San Francisco Chronicle』のラルフ・J・グリーソンは
この公演を「私がこれまで観たなかでもっとも短いロック・
コンサート」と評し、「人形劇」と切り捨てながらも、
「これほど理性的で、知的で、才能に恵まれた4人の人間に
とって、これが魅力的であり続けるとは到底思えない」と
先見の明に満ちた指摘をしている。ビートルズの中でただ一人、まだツアーへの意欲を失っていなかったポールでさえ、
その夢が終わったことを悟った。
サンフランシスコ公演から数時間後、帰りの飛行機で、
彼はTeenSet誌のジュディス・シムズにこう語っている。
「実を言うと、僕らはあまり優れたライブ・パフォーマーじゃ
ないんだ。むしろレコーディング・スタジオのほうが得意だよ。そこなら物事をコントロールできるし、
納得がいくまで手を入れられるから」。
彼らがその後、再びライブを行うところまで最も近づいたのが、『ザ・ビートルズ:Get Back』の最後に登場する、
あの屋上での演奏だった。
彼らの友人でありライバルでもあったキース・リチャーズには、ひとつの持論があった。「3000人もの女の子が絶叫していたら、その声に会場ごとかき消されちまう」と、
彼は2015年にエスクァイアで語っている。
「客席を見れば、女の子たちが汗だくになって、
叫び、痙攣しながら運び出されていくのが見えた」。あのキースでさえ、そんな仕打ちに耐え続けることなど想像できなかった。「俺たちのことはいろいろ言われるけど、
ビートルズはあの女の子たちに完全に消耗させられたんだ。1966年にはツアーをやめた──もうインドに行ったり、
そういうことをする段階に入ってたんだよ」
ツアー後の休暇がもたらした「新しい未来」
1966年秋、ビートルズにはツアー後の重要な“プロジェクト”が
待っていた──振り返ってみれば、
それは彼らが下したなかでも最も賢明な決断のひとつだった。
彼らは3カ月の休暇を取った。
4人はそれぞれ個人的な活動に取り組みながら、
ツアー生活で溜まった毒を抜いていった。
ジョンはスペインへ渡り、
アート映画『ジョン・レノンの僕の戦争』に脇役で出演。
髪を切り、その後、
生涯にわたってかけ続けることになる丸眼鏡を身につけた。
ポールは映画『ふたりだけの窓』のサウンドトラックを手がけた──ビートルズのメンバーがバンドの外で制作した
初のアルバムだった。
ジョージはインドへ赴き、
新たな師ラヴィ・シャンカールのもとでシタールを学んだ。
リンゴは自ら建設会社Bricky Buildersを立ち上げた。
だが離れて過ごしているあいだに、
4人の友情はそれまで以上に深まっていった。
リンゴは、ただお互いに会いたかったという理由だけで、
スペインまでジョンを訪ねている。
ジョンも、ほかの3人から遠く離れていることを嫌がっていた。「ツアーをやめた後、ひとりでやっていこうとはしてみたんだ」と、当時ジョンは伝記作家ハンター・デイヴィスに語っている。「映画の現場では何度か大笑いもしたし、
モノポリーをやったりもした。でもダメだった。
ほかに好きになれる人間には出会えなかったんだ」
これは、ある意味では音楽史上最も実り多い休暇だったと
言っていい。4人が再び集まったとき、
創作へのエネルギーはすっかり充電されていた。
「ほかの3人に会えて、あんなにうれしかったことはなかった」とジョンは語っている。
「みんなの顔を見たら、また普通の自分に戻れた気がした」。
そこから、『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』、
「Penny Lane」、「I Am the Walrus」といった
1967年の輝かしい成果が生まれていく。
そしてもちろん、スペインの海辺で、孤独に沈んでいたジョンが書いたささやかな1曲もある──「Strawberry Fields Forever」。休暇中の仕事としては悪くない。アビー・ロードに戻った
ジョンが最初にほかの3人へ聴かせたのが、この曲だった。
しばし呆然とした沈黙が流れたあと、ポールが言った。
「これは本当に素晴らしい」。4人はたちまち刺激を受け、
そのまま徹夜でレコーディングすることになった──
今日私たちが知るあのバージョンに刻まれているのは、
4人のビートルズが再び同じ部屋に集まれたことを
心から喜んでいる、その音なのだ。
キャンドルスティック・パークが、そのすべてを可能にした。
ビートルズはバンドを守るために、
ツアーをやめなければならなかった。
あの夜、最後の一礼をしたとき、彼らは自分たちが築き上げて
きたすべてを壊してしまうのではないかと恐れていた。だが
実際には、その決断こそが彼らに新たな未来を開いたのだった。
( 2026/09/02 Rolling Stone JAPAN )元ネタに写真あり