私は、現在、51歳。

 

13歳の時の記憶。

 

中学一年生の秋から冬にかけてだった。

一番下の弟は生後4か~5月くらいだったと思う。

 

夕方、学校から帰ってきて、その赤ちゃんの弟と母がいない。

買い物か散歩にでも行ったのかと思っていた。

 

5時になっても帰らず、さすがに心配になり、父、祖母と近所を探した。

 

最寄り駅に行き、駅員さんに「赤ちゃんをおぶった人を見かけませんでしたか?」と聞いて回ったり、(当時は改札で駅員さんが切符を切って通っていた。)

心当たりのあるところを探したが手掛かりがなく、暗くなってきたので一度自宅で待つことにした。

 

だんだん、心配と不安でどきどきしてきた。お腹がすいているのに、何も食べられず、水すら口に入れることができないほど嫌な緊張状態だったのを覚えている。

 

祖母は信心深い人だったので、仏壇の前で手を合わせて必死にずっと祈っていた。

何も手に付かず、私も横で同じように祈った。

 

それから3時間経った9時頃、家の電話が鳴った。当時はまだ黒電話だった。

 

祖母が電話に出て誰かと話していた。

 

その電話は、自宅から電車で4時間くらいかかる熱海の見知らぬ人からだった。

「お母さんと赤ちゃんをうちで預っています。」

 

電話の向こうで弟の鳴き声がしていた。まだミルクを飲んでいる頃、お腹がすいていただろうし、寒かったはず。

 

ひとまず、無事だったことの安心感で大泣きした。

 

あとから聞いたのですが、公園で赤ちゃんを背負ったまま泣いていたところを、心配して声をかけてくれたそう。

 

それからすぐに父がタクシーで迎えに行った。(誰も車の免許を持っていないので)

夜中の2時頃、父、母、弟が自宅に帰ってきた。

 

 

その日のその後のことはよく覚えていないけど、そんなところまで行った理由は後から聞いた。

 

母は、弟を連れて海に飛び込もうとしたが、出来なかったらしい。

出来なくてよかったと思った。母と弟が無事でよかったと心から思った。

 

 

見つけてくれたのは初老のご夫婦だったそう。命の恩人。ずっと感謝している。

 

 

人の命は何よりも大切。自分の都合で人の命を奪うのは許せない。

 

そんなことを中学一年生で考えさせられた。

 

その時、命が救われた弟はそんなことがあったとは知らない。

 

私は3人兄弟の一番上の長女。2番目の弟は、幼かったので当時の記憶は曖昧。

祖母はもう他界しているし、父も認知症だし、母本人もどうなのかの精神状態なので、そんな過去を知っているのは私だけ。

 

それでいいと思っている。私が一番上でよかった。こんな辛い出来事、記憶を弟達が背負わなくてよかったと心から思う。

 

これは、母の猟奇的な行動のひとつに過ぎない出来事。

 

弟二人には“幸せになってもらいたい”ってずっと願っている。

 

 

 

 

 

心が軽い。

 

父が認知症病院に入所してから、5ヶ月経った。もうなのか、まだなのか分からない。窮地に追い込まれる思いをしていないと実感できたのが今。これから私が克服したいのは、人間不信、恨み、怒り、やるせなさ、劣等感、不安、恐怖、脅迫感、金銭不安、悪夢。

 

50歳からやっと新しい人生が始まる。長かった。

何一つ、対処が間違えていたらここに至っていない。辛い家庭環境だったが、そのことで誰かの命を落とすことは防げた。

そこに達成感を感じる。

 

そしてここで、特別養護老人ホームに移れることになった。

今は金銭的にも国から援助してもらえて、生活の全てを病院、施設の方にお任せ出来ている。

 

私が背負ってきたことを、多くの人が一緒に背負ってくれている感覚。

ここに、「誰もに助けてもらえない」人間不信を芽生えさせた心に違う感覚を感じる。

 

世の中は嫌なことばかりではない。耐えるばかりではない。解放される時もくる。

 

子供は助けてもらう方法を知らない。というより、置かれている世界の中で、どうやって解決しようかと健気に考える。

「親を心配させると、もっと悪いことが起きる。私がどうにかしなくちゃ」と思い悩む。そう思い悩んでいることさえ、気が付かれないようにしようとする。

 

今は大人の発達障害やうつ病、アルコール依存症など病気の情報やサポートしてくれるところが昔より随分整ってきている。

私が子供の頃はこんなではなかった。

 

母がうつ病のような感じだったので、小学生の時、本屋さんでうつ病のことが書かれている本を立ち読みした。読んでもよく分からなかった。

それはそうだろう。確か、うつ病は心の病気といわれていた頃のこと。

 

中学生の頃、友達にうちに母がいないことが気が付かれ、「入院している」というと、「どこの病院?」と聞かれ、「○○病院」と答えると、その子の母親が看護師だったから知っていたのか、「それって、精神病院じゃん、なんでなんで・・・・・」とたくさんの友達がいる前で言われた。お母さんが入院してて大変だね。。くらいの言葉が返ってくると思っていたのが、母の為にも自分の為にも、母親が病気であることは人に言わない方がいいんだと認識した。

 

そんな認識する前の小学生の頃、母は自分のお腹に赤いマジックでぐるぐる落書きのようなことをしていた。不思議だった。その頃、父の友人の親切なおじさんが、私と弟をテーマパークに遊びに連れていってくれたことがあり、たわいもない話で母の話題になってしまい、そのおじさんに「不思議なんだよ、赤いマジックでね、ぐるぐる書いてて・・」と話してしまった。そのおじさんは「おじさんには話してもいいけど、他の人に話してはいけないよ」とやさしく言ってくれた。おじさんはその何年か後に、病気で亡くなってしまい、とても悲しかった。40年以上経っているけれどおじさんのことは忘れない。

 

私が50年で人より優れてできるようになったことは「心がやさしい人かどうがを見抜く力」だ。直観のようなもの。日常でも仕事場でも分かる。たいていあたっている。

 

日常は誰もが、気分、機嫌が悪いこともあるし、毎日ご機嫌というわけにもいかない。私も含めてみんなそうだと思う。そういう次元のものでないことの話。

 

この人ならという人には、くいつくように訴えて、思いがけないことが起こったり、窮地をしのいできた。だから、「仕事が出来る人を見抜く力」も育ったと思う。普通ではないこと過ぎて、普通では片付けられないことだらけだったから。

 

そう、自分一人ですべて背負ってきたわけでないこと、無数の人の手助けもあってここまできて、一人一人、お顔を思い出せるくらい感謝している。

 

これから、物心ついた頃からの順に記憶をたどって書いてみようと思う。

 

世の中には私よりもっと過酷な試練をたどっている人、今現在、その渦中にいる人もいる。過酷な試練に大きいも小さいもないし、そういう言い方もしっくりこないのだけど。そこに、幸せ、不幸せをあてはめることも違うと思うし。

 

でも、多くの人が置かれている環境を広く平均的にしたら、「子供が安心できない、家族の誰かの命が危ない、切羽つまった状態が50年近く強いられる」のは普通でないと思う。

 

そんな過酷な試練を受けた人が、部分的にも共感して差し上げることが出来たら、ほんの1㎜でも心の傷が癒えたり、前を向く力になったらと思うのです。これは実体験した私だから出来ることだなって。

 

★★★★もくじ★★★★

 

クローバーはじめに

クローバーブログを書くことにした・もくじ

クローバー未就学児の頃

クローバー小学生1~3年生頃

クローバー小学生4~6年頃

クローバー中学生の頃

クローバー高校生の頃

クローバー社会人になってから

クローバー天職と出会ってから

クローバー結婚してから

クローバー祖母の認知症

クローバー子供を産んでから

クローバー母入院・借金発覚

クローバー父の認知症

クローバー50歳になってから

クローバー衝撃の事件

クローバー自分を支えたもの

 

 

 

 

 

 

 

私の母は軽度の発達障害だったようです。

それが分かったのは様々な病気、奇行を繰り返してきて母が50歳になった頃ですが。

 

私の両親は飲食店を自営していて、夜遅くまで仕事をし、私と弟は母方の祖母にほぼすべての生活を見てもらっていました。

 

私が小学3年生の頃、母親がうつ病で精神病院に入院しました。何ヶ月かして退院して少しずつ仕事に復帰しました。

原因は分かりませんが、母の父親(私の祖父)がよくお酒を飲んで道で寝て、迎えに行ったり、近所で有名な厄介な人で、何かと世話をしていました。母もお酒が好きでビールをよく飲んでいました。

 

その後、その祖父は殺人事件で殺されてしまいました。母は警察と立ち合い、押し入れに寝かされていた祖父の足を見たといっていました。

大騒動になり、家族は大変でした。犯人は顔見知りの女性でお金目当ての犯行と聞かされました。いくら厄介な父とはいえ、殺されたとなると母の精神的なダメージは相当であったと思います。

 

母が子供の頃から祖父は家にお金も入れず、お酒を飲んで暴れて、大変だったと。その代わりに母の母(私の祖母)が働きにでて、不在がちで弟の面倒を見るために学校もろくに行けず、兄弟達は苦労したそうです。

 

祖父が殺されて1年くらいして、母は男の子を出産。私にとっては一回り離れた弟になります。その翌月、母の兄が肝硬変で急に亡くなりました。私からするとやさしい叔父でしたが、やはりお酒好きで一升瓶をラッパ飲みしていました。お葬式にもいけないと嘆いていました。

 

それから母がおかしくなり始めました。その年の年末、母は生後半年の弟をおぶったまま、熱海の海へ身を投げようとしていたところを見知らぬ人に助けられました。

 

それから数年後、暴れて入院。病名はアルコール依存症。退院してはまたお酒を飲むの繰り返し。どうにか命をつなぎ暮らしていた。2歳下の弟は中学卒業後、非行に走り、前科一歩手前で更生した。私も子供だったから、すさんでしまった心を助けてあげることが出来なかった。

 

そのうち、気丈な母の母(私の祖母)が認知症になりました。認知症の母をアルコール依存症の発達障害のある娘が見る。母の奇行はエスカレート、自殺未遂、飲酒、暴言、万引き、刃物を持って部屋に立てこもるなど。私も結婚していましたが当然、近くに住みずっと援助していました。やがて、私が子供を妊娠、出産の頃、祖母の認知症がますます進み、産後2か月した時、赤ちゃんの世話、アルコール依存症の母、祖母の認知症の援助に過労はピーク。眠れなくなり、私はうつ病になりました。

 

少しずつ回復して、祖母が亡くなってからは母のアルコール依存症の援助。奇行が治ることはない。父も仕事をしながら出来る範囲で面倒みていました。そのうち、また暴れる日々を繰り返したため、命が危険を判断して入院させました。

 

アルコールは抜けても、精神が病んだまま、大腿骨、骨折、リハビリもしようとしないので歩けなくなり車椅子生活に。よって自宅に帰ることは不可能となり今に至る。命は守られたが、入院費のお金の工面が始まる。

 

5年くらいたった頃、父親が認知症になりました。アルツハイマー型。70代前半。脳は90歳くらいとの診断。

 

 

子供の頃からどうしてこんなに色々なことがあるのかと思っていた。よその家とは何かが違う。心配させると母が病気になる。弟達が悲しむ。お父さんが仕事出来なくて困ることになる。そんなことを考えていた。学校に行っていれば忘れられる。でも学校に行っている間に何かが起きていたらどうしようと思っていた。人から見たら、心配性、不安神経症とは思うのだろうか・・でもそこまで思うほどのことが起きてきた。

 

 

アルコール依存症、発達障害、認知症、うつ病、ヤングケアラー、子供の非行に悩み、苦しんでいる人はいる。全部経験してきた私。

 

通りすがりの、同じようなところに置かれている人の何かの役、一瞬の希望でもいいから這い上がるきっかけのほんの一ミリ、数ミリにでもなれたら。。

 

努力しても報われない、でも必ずどこかに助かる道があるはず。見えないかもしれないけど。

 

究極、命が大事。自分も家族も。そう思うことで幾度も落とされた、深いどん底から這い上がってきたように思う。

 

だから、私の子供達に「人の命は地球より重いんだよ」と話している。

 

塗炭の苦しみの経験したことのある人でなければピンとこないかもしれないけれど。

 

でもそうであるならば、私の子供達に負のスパイラルを負わせず、断ち切ってきたと思えば、よくここまでやってきたなと。

 

 

 

 

一番初めに悲しい思いをしたのはいつだったのか?

 

記憶に残っているのは3歳頃のこと。

 

その時住んでいた家は3歳で引っ越しているから。

 

母と二人で部屋にいた時、「つまんない、つまんない、つまんない」と私が言った。

 

多分遊んでもらいたかったんだと思うんだけど。

 

すると母が怒ったような顔をして「つまんないなら死んじゃえばいい」と言った。

 

死んじゃう意味は多分まだよく分からなかったけど、怖いことだというのは分かっていたんだと思う。

 

その言葉を聞いて大泣きしたのを覚えている。

 

 

私、すごく悲しかったと思う。よく覚えているなとも思う。

 

それ以来、そのような何か怖いこと、悲しいことが起こると思い出してしまうから、「あの時もそうだった」って。

 

だから今もずーっと覚えているんだと思う。

 

 

母が入所し7年半。。

 

父も入所できるかも。。。

 

40年以上つけられた足かせ。

 

恐れ、惨めさ、悲しさ、悔しさ、せつなさ、つらいつらい試練、出来事、思い出。

 

 

新しい人生が始められるような気がしてきた。。

 

 

今、苦しんでいる人、耐え難い状況にある人。。。

 

勇気を出して「助けて」と誰かに伝えてほしい。。。

 

どんなに頑張っていても逃れられない環境。辛すぎることがずっと続くと、耐える力がなくなる。解決方法も浮かばなくなる、人間不信になる。

 

だけど。。救われる道にきっと繋がる。あきらめないで。。

 

私がそうだったから。。。。