私の母は軽度の発達障害だったようです。

それが分かったのは様々な病気、奇行を繰り返してきて母が50歳になった頃ですが。

 

私の両親は飲食店を自営していて、夜遅くまで仕事をし、私と弟は母方の祖母にほぼすべての生活を見てもらっていました。

 

私が小学3年生の頃、母親がうつ病で精神病院に入院しました。何ヶ月かして退院して少しずつ仕事に復帰しました。

原因は分かりませんが、母の父親(私の祖父)がよくお酒を飲んで道で寝て、迎えに行ったり、近所で有名な厄介な人で、何かと世話をしていました。母もお酒が好きでビールをよく飲んでいました。

 

その後、その祖父は殺人事件で殺されてしまいました。母は警察と立ち合い、押し入れに寝かされていた祖父の足を見たといっていました。

大騒動になり、家族は大変でした。犯人は顔見知りの女性でお金目当ての犯行と聞かされました。いくら厄介な父とはいえ、殺されたとなると母の精神的なダメージは相当であったと思います。

 

母が子供の頃から祖父は家にお金も入れず、お酒を飲んで暴れて、大変だったと。その代わりに母の母(私の祖母)が働きにでて、不在がちで弟の面倒を見るために学校もろくに行けず、兄弟達は苦労したそうです。

 

祖父が殺されて1年くらいして、母は男の子を出産。私にとっては一回り離れた弟になります。その翌月、母の兄が肝硬変で急に亡くなりました。私からするとやさしい叔父でしたが、やはりお酒好きで一升瓶をラッパ飲みしていました。お葬式にもいけないと嘆いていました。

 

それから母がおかしくなり始めました。その年の年末、母は生後半年の弟をおぶったまま、熱海の海へ身を投げようとしていたところを見知らぬ人に助けられました。

 

それから数年後、暴れて入院。病名はアルコール依存症。退院してはまたお酒を飲むの繰り返し。どうにか命をつなぎ暮らしていた。2歳下の弟は中学卒業後、非行に走り、前科一歩手前で更生した。私も子供だったから、すさんでしまった心を助けてあげることが出来なかった。

 

そのうち、気丈な母の母(私の祖母)が認知症になりました。認知症の母をアルコール依存症の発達障害のある娘が見る。母の奇行はエスカレート、自殺未遂、飲酒、暴言、万引き、刃物を持って部屋に立てこもるなど。私も結婚していましたが当然、近くに住みずっと援助していました。やがて、私が子供を妊娠、出産の頃、祖母の認知症がますます進み、産後2か月した時、赤ちゃんの世話、アルコール依存症の母、祖母の認知症の援助に過労はピーク。眠れなくなり、私はうつ病になりました。

 

少しずつ回復して、祖母が亡くなってからは母のアルコール依存症の援助。奇行が治ることはない。父も仕事をしながら出来る範囲で面倒みていました。そのうち、また暴れる日々を繰り返したため、命が危険を判断して入院させました。

 

アルコールは抜けても、精神が病んだまま、大腿骨、骨折、リハビリもしようとしないので歩けなくなり車椅子生活に。よって自宅に帰ることは不可能となり今に至る。命は守られたが、入院費のお金の工面が始まる。

 

5年くらいたった頃、父親が認知症になりました。アルツハイマー型。70代前半。脳は90歳くらいとの診断。

 

 

子供の頃からどうしてこんなに色々なことがあるのかと思っていた。よその家とは何かが違う。心配させると母が病気になる。弟達が悲しむ。お父さんが仕事出来なくて困ることになる。そんなことを考えていた。学校に行っていれば忘れられる。でも学校に行っている間に何かが起きていたらどうしようと思っていた。人から見たら、心配性、不安神経症とは思うのだろうか・・でもそこまで思うほどのことが起きてきた。

 

 

アルコール依存症、発達障害、認知症、うつ病、ヤングケアラー、子供の非行に悩み、苦しんでいる人はいる。全部経験してきた私。

 

通りすがりの、同じようなところに置かれている人の何かの役、一瞬の希望でもいいから這い上がるきっかけのほんの一ミリ、数ミリにでもなれたら。。

 

努力しても報われない、でも必ずどこかに助かる道があるはず。見えないかもしれないけど。

 

究極、命が大事。自分も家族も。そう思うことで幾度も落とされた、深いどん底から這い上がってきたように思う。

 

だから、私の子供達に「人の命は地球より重いんだよ」と話している。

 

塗炭の苦しみの経験したことのある人でなければピンとこないかもしれないけれど。

 

でもそうであるならば、私の子供達に負のスパイラルを負わせず、断ち切ってきたと思えば、よくここまでやってきたなと。