昨日のブログで、
美術館で外国人男性から親切に声をかけられた
親子連れのことを書きました。
「もらった親切を、次は私がまた別の人に」
と考えられたお母さんもえらいですが、
ひょっとしたら、
その声をかけた外国人男性にも、
≪親切にしたがゆえの幸い≫があったのかもしれない。。。
そんなふうに考えさせてくれる素敵な投稿に出会いました。
今日も広報ジャーナリスト・堀美和子のブログにお越しくださり、
ありがとうございます。あなたに感謝ですっ!
新聞投稿からの気づきが続いてスミマセン。(^0^;A
しかし新聞投稿って、
短い中にそれぞれの人の考えがギュッと凝縮されてて、
自分と全く違う価値観に出会えるから、好きなんです。
私が「そういう考えもあるのか~、素敵だなぁ」と思ったのは、
「親切にする 自分の価値創る」と題された投稿でした。
一般的に「情けは人の為ならず」というと、
情けをかける行為は回り回っていつか自分に返ってくる。
その情けに救われる、という意味ですよね。
西洋にある「ペイフォワード」という概念も、
自分が受けた恩恵を、返すというより、
次々と必要としている人に渡していくこと。
その投稿の主は、
「どちらも納得できるが、私の考えはこうだ」として、
「私たちは人に親切にした時点で、
すでに大切なものを手に入れている」と。
引用ここから
例えば、道で転んだ人を「大丈夫ですか」と
助け起こしたとしよう。
もし私が木であったら、困っている人が目の前にいても
手を差し伸べることはできない。
石であったら、
倒れた人とともに転がっていることしかできないであろう。
何もしなければ私は木や石と同じなのだ。
しかし、手を差し伸べ、大丈夫ですかと声をかけた時点で、
私は「自分が生きた人間なのだ」と実感する。
そして「ありがとう」の言葉が聞けたときには
自分の存在価値を認めてもらえたように感じる。
親切を繰り返すことで、
私たちはこの存在価値を少しずつ積み上げていくのだと思う。
引用ここまで
「そっか~~~」って思いました。
人間だからこそ、他の人に手を差し伸べることができ、
差し伸べられた方ではなく、
差し伸べた側が、その行為ゆえに、
ほんの少し、ごくごくわずか、
~意識するともしないとも・・・くらいのビミョーなレベルで~
「自分、やるやん。d(^_^o)」と、自らに“肯定・Yes”を出せる。
そんな、気づかないほどのちょっぴりちょっぴりが積み重なり、
やがて、“自信”を支える支柱の一本になる。
そう思うと、
あだや「親切にしてやってる」なんて考えられない。
「親切にさせてもらってる」
「親切にさせてもらってありがとう」
こちらの方が本当に思えてきます。(・.・*)(._.)
聖人君子では全然ないけれど、
少しでもこういう考え方をしていきたいな、
と思わせてくれた投稿でした。
ご訪問ありがとうございました。m(_ _)m
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