次は“山家三方衆”のもう一家、奥平家の城を訪ねます。

戦国時代の大勢力に囲まれた小豪族と言えば、服属の難しい選択の中で犠牲を払い、戦場では先陣に立たされて消耗を強いられ、結局は衰弱して消滅してしまう場合が多いと思います。

 そんな中で時代の波を確実に掴み、そして運命の分かれ目では最大限に頑張って、飛躍を果たした豪族も居ます。

その代表的な氏族がこの奥平氏です。

 

 

三河の城  亀山城  愛知県  登城日:2020.10.28

 

 別名       作手城

 城郭構造    丘城

 標高/比高  540m/20m

 築城主     奥平定俊

 築城年     応永31年(1424)

 主な城主   奥平氏、松平忠明

 廃城年     慶長15年(1610)

 遺構       土塁、曲輪、空掘

 再建造物   なし

 史跡指定  新城市指定史跡

 所在地    愛知県新城市作手清岳

 

 

 室町初期の奥平氏は上野国甘楽郡奥平郷を地盤とする氏族でしたが、15世紀初頭の奥平定俊の時に三河国設楽郡須山郷(現:新城市作手)に移って来たと言われています。

 利根川支流の鏑川が造った甘楽の谷は本当に城址が多い場所で、山内上杉氏の勢力圏だった筈です。

 武蔵七党のひとつ児玉党の末裔とされる奥平氏移転の理由は定かではありませんが、当時の関東では“上杉禅秀の乱(1415)”が起こっているので、敗戦の流転なのか、戦功による恩賞なのか…などと想像します。

 

上野奥平城址 *高崎市HPより借用  永禄6年(1563)の信玄の侵攻まで奥平氏の居城でしたから、一族こぞって三河に移住した訳ではない様です

 

亀山城へは道の駅:つくで手作り村の第二駐車場をお借りします 左手の山が城址です

 

本丸、二ノ丸を横堀と小郭で取り囲む、関東の戦国初期の城に多い縄張りですね

 

 

 三河に着いた定俊は、須山郷北辺の高里に川尻城を築城し、拠点とします。

近郷の国人との諍いも有った様ですが、短期間のうちに彼らを従属させると、近郷にまで徐々に勢力を拡大して行きました。

 新たに亀山城を築城し、川尻城から越したのは応永31年(1424)だそうですから、かなり早期に移転した様ですね。

 

 定俊から貞久→貞昌→貞勝と四代のうちに七家の分家を立ち上げた奥平氏は、これらを領内の要所に配置します。

 さらに従属した土着の国人のうち五家を家老に登用し、この12人+当主の合議制で奥平家を運営するという、共和的な態勢を作り上げました。

 

作手歴史資料館にある立体模型  東三河の山地は標高500m余りの高原になっていて、随所に農村が散在しています

 

この三河高原を支配した奥平氏ですが、平地に下る間際に拠点を配していますね

 

駐車場から城址に登って行きます

 

虎口には枡形や石垣の痕跡は見られず、江戸時代の徳川大名の居城だったとは思えないシンプルさ

 

 

 広い領地を持った奥平氏ですが、守護や戦国大名には比するべくもなく、表向きは三河に侵攻した今川氏に従属していました。

しかし内実は反今川の声も強く、保身の為の便宜上の従属であったと思われます。

桶狭間で織田が勝利し、当主が貞能となった後の永禄7年(1564)、奥平氏は正式に今川氏を離れ、徳川家康に従属します。

 家康の幕下では遠江侵攻に従軍し、姉川でも活躍して家康の信頼を得て行きました。

永禄11年から元亀元年にかけて、奥三河には武田氏の秋山信友が散発的に侵攻して来ます。

 奥平氏は菅沼氏や徳川勢とともに出陣し、対峙するのですが、実際の戦闘になると武田軍の圧倒的な強さを目の当たりにしてしまいます。

 

それでも主郭に近付くと、郭の重なりに雰囲気がありますね

 

左手の本丸土塁の堀跡は見学者歩道

 

本丸虎口の前にある西曲輪は土塁で囲まれた武者溜まりになっています

 

本丸に入る大手虎口 城の格から言えば櫓門になっていてもおかしくないのですが、簡素な木戸門だった様ですね

 

 

 元亀2年(1571)、武田氏は信玄自ら本格的に東三河に侵攻して来ます。

しかしこの時には山家三方衆の大半がもう武田への寝返りを決めており、信玄は大した戦闘もなく、山間部から長篠までの占領地を確認すると、奥平領に馬場信春らを駐屯させて甲府へ引き上げています。

(この遠征は近年は否定傾向ですが、ここで古宮城が築城されたとしか…?)

 

 この一連の動きに対する奥平貞能の心中ですが、将軍:義昭による織田・徳川包囲網が着々と構築され、将来に一抹の不安がよぎる中で、武田信玄まで敵に回す事に明るい未来を見出せなかったのでしょうね。

 ただ計算外だったのは自身の領内、それも居城の目の前に城を築かれ武田軍が駐屯した事です。 おそらく相当な気遣いを要し、兵の乱暴狼藉などは日常茶飯事だった事でしょう。

 

本丸内部は平坦な削平地で、小規模な御殿は建ちそう

 

城址碑 周囲は土塁で囲まれていますが、特に櫓台の様なものはありません

 

移住何代には諸説ある様ですね

 

本丸から見下ろす南側の城下

 

 

 元亀3年(1572)、いよいよ信玄の西上作戦が開始されます。

三河へは山県昌景の別動隊が侵攻し、長篠城でこれを迎えた定能は道案内に立ち、西遠江の徳川方諸城を抜きながら進軍し、二股城で信玄の本隊と合流しました。

家康を三方ヶ原に破って遠江で正月を迎えた武田軍は、2月には東三河に進み野田城を攻略します。

 さあ次は吉田か一気に岡崎か? といった矢先の4月、武田軍は踵を返して甲斐へと引き上げて行ってしまいました。

 

 定能にはおそらく直感があって、陣中で観た信玄の衰弱具合や諸将の困惑の様子などから、死去を確信した事でしょう。

畿内での信長包囲網の瓦解も伝わって、状況は大きく変わりつつあり、また生き残りを賭けたターニングポイントですね。

 

北側の見通しは少し悪いのですが、武田の古宮城址(人工林の小丘)が間近に見えます

 

二ノ丸はさほど広くなく、補助的な居住区然としてますね

 

二ノ丸から東の堀切へは大きく降りて行きます

 

東端の堀切 もう戦国の城そのもので、松平(奥平)忠明が藩主の時も手が加えられた形跡はありません

 

 一方で大敗を喫した家康です。

『武田への対抗には奥平氏の誘降が欠かせない』と見て定能へ使者を送ります。

『娘を嫁がせてはどうか』との織田信長の助言もあり、これが決め手となって双方の利害はすぐに一致しました。

 奥平家中での徳川帰参は決まったものの、目の前の古宮城と奥三河全域には武田の強力な駐留軍が居ます。

これを襲って退散させるのは至難の事なので、自らが一族郎党を引き連れて徳川領に脱出する事になりました。

 

 8月21日未明、夜陰に乗じた脱出作戦が敢行されます。これに気付いた武田軍が追討の兵を出し、奥平の殿軍との戦闘が始まりましたが、この時の為に残しておいた別動隊が、手薄になった古宮城に火を掛けて廻ったので、“城の奪取が目的”と勘違いした武田軍は急いで引返し、脱出は成功しました。

 見事な変わり身を見せた奥平氏ですが、賛否で家を割らず一枚岩で動けたのは、定能の統率力に加え“七族五老”で議論が尽くされていたからでしょうね。

 ただ、武田氏に人質に出していた二男:千千代(13)と長男:信昌の妻:おふう(16)は処刑されてしまいました。

 

 

《後編》につづく