三河に戻って田峯城(だみねじょう)に向かいます。
戦国時代の奥三河は、奥平家、長篠菅沼家、そして田峯菅沼家の“山家三方衆”と呼ばれる三家によって分割統治されていました。
名前の通り、田峯菅沼家の居城だったのが田峯城です。
三河の城 田峯城 愛知県 登城日:2020.10.28
別名 蛇頭城
城郭構造 山城
標高/比高 453m/50m
築城主 菅沼定信
築城年 文明2年(1470)
主な城主 菅沼定信、菅沼定忠
廃城年 天正10年(1582)
遺構 曲輪、掘
再建造物 御殿、大手門、搦手門、物見台
史跡指定 設楽町指定史跡
所在地 愛知県北設楽郡設楽町田峯城9
設楽町田峯は豊川中流の狭い谷間にあり、豊橋から根雨に至る伊奈街道(R257)を扼す立地にあります。
根雨で尾張から来る飯田街道(R153)に合流し、信濃の伊那谷に至る訳ですが、信濃の勢力にとっては外界への主要な道筋のひとつでした。
菅沼氏は作手村菅沼を領していた土豪でしたが、永享10年(1438)の永享の乱で反乱側(足利持氏・北畠満雅)に与したので、幕府軍の土岐氏に滅ぼされ、領地は土岐定直に与えられます。
定直は菅沼に住み、菅沼氏を称したので、菅沼氏の氏族はここで入れ替わった訳ですね。
パンフで縄張り確認 復元建物のある本丸を中心に多くの曲輪が積み重なっています
広い専用駐車場が大手口のすぐ手前にありますが…
駐車場から大手口を見ると…(^^; これは無いから、調査・考証・見直しが必要ですね
丸馬出し形状の大手口 堀は埋まっていますが、ここに簡単な門があったのでしょう
定直は膨張策を採り、嫡子:定成を北東の田峯に置いて支配拠点とすると、南東の長篠に進出して二男の満成を置き、分家:長篠菅沼氏とします。
以後も島田菅沼氏、野田菅沼氏などの分家を立てて、菅沼一族で広く奥三河東部を支配する体勢を築いて行きました。
そんな中、宗家となる田峯菅沼氏の定成が、菅沼グループの総本山として本格的に築いたのが今回訪れた田峯城で、文明2年(1470)の事でした。
門内の武者溜りから見上げる本丸切岸 西側は急斜面が高く立ち上がり、麓に帯曲輪が一条あるだけ
東側は曲輪が段々に重なり、一部は農地に使われています
南側の最上段(本丸の下)は墓地になっています
菅沼氏は一族で団結しながらも、大きくは駿河の今川氏に従っていましたが、定成→定忠→定広→定継と世代を経た天文年間になると、尾張の織田信秀が台頭し、西から圧迫を加えて来ます。
今川氏の代替わり(氏親→義元)のブランクにも重なり、信秀の圧迫に耐えかねた定継は、作手の奥平氏と共に織田方に寝返りを決めました。
宗家のこの決断に、菅沼一族では追従する者、しない者に分かれ、田峯のみならず野田、島田の菅沼家内部をも二分する事になり、同族相争う事態に発展してしまいます。
墓地の曲輪は“道寿曲輪”とあり、首席家老:城所氏の屋敷跡みたいです
畷曲輪は本丸の鬼門をグルリと囲む曲輪で、防備の要ですね
畷曲輪と本丸の間にある『御台様屋敷』は読んで字の如く 北側の城下が見渡せ、真に北の方様です
弘治2年(1556)、定継は弟:定直の布里城を攻め、定直を逃走させ奪い取りました。
これに対し今川義元は三河の諸将に定継と奥平氏の討伐を命じ、強力な援軍を得た定直は布里城を奪回すると共に定継を自刃に追い込みました。
当主の居なくなった田峯城に侵攻した定直は、まだ3歳だった定継の嫡子:小法師丸を見付けると、布里城へ連れ帰り、自らの手で養育したそうです。
その間、田峯城は一族の者が管理しましたが、小法師丸が8歳になった永禄4年(1561)になると定直は小法師丸を伴って田峯城に入ります。
前年に桶狭間の戦いがあり、菅沼氏は新たな支配者:松平元康(家康)に所領安堵され仕えていましたが、小法師丸を当主として菅沼氏が再結束する事で了承されたのだそうです。
定直は自分を攻めた兄の子ながら、小法師丸を当主にし補佐する事で、家の筋目を立てた訳ですね。
いよいよ本丸へ登って行きますが… 思ったより立派な復元御殿だ(^^;
搦手入口の城戸門 本丸の見学は有料です
やはり麓で感じた通り、本丸御殿は礎石は利用したものの、上物は高級仕様で造られた別物ですね
内部には調度品などが展示されています。 城主のご子孫?寄贈の具足もありましたが、レプリカに見えます(間違ってたらごめんなさい)
小法師丸が元服して名を定忠と改めた後の元亀2年(1571)、徳川領の奥三河に武田氏の手が伸びて来ます。
信玄は山家三方衆の調略を命じて、秋山信友に兵3千を付けて遠征して来ました。
信友がまず菅沼氏の筆頭家老:城所道寿を調略すると、城所を信頼していた定忠は迷わず武田方への寝返りを決意します。
これには徳川家康との盟約を重んじた叔父:定直と次席家老の今泉道善が強く反対しましたが、同族の長篠菅沼氏や作手の奥平氏も追随して寝返った為、山家三方衆は武田方となりました。
唯一、野田城の菅沼定盈だけは頑として徳川方に残りました。
翌元亀3年の信玄西上作戦には定忠も40騎を率いて参戦しましたが、翌春に吉田城ではなく野田城を攻めたのは、定忠の強い要請に依るものと言われています。
板葺き屋根も金属板の現代建材。 貸座敷としても借りれるみたいですから、建築用途が純粋に“城”ではないんですね。
大手の棟門も立派ですが、不明門になっています。
大手虎口の石垣と石段もコンクリート造りの残念仕様(^^;
天正3年の長篠の戦いでは定忠は、未だ武田に懐疑的な叔父の定直と家老の今泉を留守居とし、城所道寿のみ伴って参陣します。
設楽ヶ原の戦いでは山県昌景隊に加わって戦いますが、想定外の苦戦を強いられます。
昼を過ぎた頃、武田勝頼本陣に呼び戻された定忠に、勝頼は信濃撤退の道案内を命じました。
勝手知ったる自領内のこと、定忠と勝頼、そして十数名の従者は日暮れには居城の田峯城に到着します。
『これでやっと休息して貰える』と一安心の定忠でしたが、城門は固く閉ざされて応答がありません。
それどころか、武装した守兵が集まって来て、勝頼達を捕縛する動きさえ見せています。
物見櫓は麓が見えないから、実際はもっと高い井楼だったはず…
物見櫓から見る下流(南)方面 勝頼はこの谷間を逃げて来た訳ですが…
東側に続く山並み この地域はカルデラで、遠くの峰は外輪山だそうです(説明版より) これは知らなかった(*_*)
家臣の裏切りと勝頼に顔向け出来ない事態に呆然とし激怒した定忠でしたが、まずは勝頼を無事に逃がす事が先決です。
30km北にある支城の武節城に案内し、夜半には到着して一泊し、翌日には信濃に逃がす事に成功しました。
そのまま武田領の信濃に残った定忠は、下条氏の配下に加わっていましたが、裏切った家臣達への怨嗟を日増しに募らせて行きます。
翌天正4年の夏、密かに武節城に戻った定忠は、兵を集めて復讐の機会を窺がっていました。
一方の田峯城はと言うと、定直が当主となり、家康にひたすら詫びる事でなんとか廃絶は免れました。
定直にすれば、武田の負け方と織田・徳川の勢いを勘案したとき、手塩にかけた甥:定忠よりも、家や家臣を守る為のやむを得ない選択だったのでしょう。
そのうち、定忠が自害した…という風説も聴こえて来て、田峯の寺には遺髪が届いたりした(定忠の工作でしたが)ので、次代に向けての気持ちの切り替えをしていたものと思われます。
浪合で勝頼を見送った定忠は、裏切り者の征伐を約し赦しを請うたそうです
物見櫓の横にあった石仏類 唯一の遺物ですね
本丸はじめ主要な部分は木柵が巡らされていますが、これって人にも獣にも有効なんかな? 見学に来た子供達はどう思うでしょうか?
やがて盆が来て、城内の兵にも休暇が与えられて手薄になった7月14日の未明、定忠、城所道寿が率いる一軍が田峯城を襲います。
寝込みを襲われた城側は大した抵抗も出来ず、定直はじめ城内に居た老若男女96名が無差別に撫で斬りにされ、首を刎ねられました。
捕縛された家老の今泉道善は城から見える丘に生き埋めにされ、首を鋸引きするという常軌を逸した刑に処せられましたが、さらに主立った死者の首は作手街道の辻に晒されたと言います。
定忠は武田氏に入れ込み、奉公したいという気持ちが強かった様ですが、それを台無しにした家臣。 恩義のある叔父ではありますが、“父の仇”という思いの方が上回ったのでしょうかね?
いやはや何のために一族が団結し、何を守るために敢えて長い戦いに臨んだのか…戦国の世だけでは済まされない狂気です。
今泉道善は定忠の教育係で、幼少期から長く付き合った読み書き軍学までの師匠だったのですが…
城から1㎞北西、20名の首が作手街道脇のこの地に晒されたといいます
正気の沙汰ではない蛮行を悲しんだ住民は、首を手厚く葬り、地蔵を建てて供養しました。
現在も『首塚』として保護され、供養は続けられてる様です。
本懐を遂げた定忠主従は、また信濃に戻って武田氏に奉公しますが、天正10年(1582)に織田信長が武田征伐を開始すると、潔く武田氏に殉ずるでもなく、家康の元に帰参の申し入れをしたそうです。
もちろん、家康が許す筈も無く、逆に牧野康成に隠れ家を襲わせ、誅殺しました。
主の居なくなった田峯城と菅沼の遺領は、家康の命で定直の子:定利に与えられましたが、翌年、定利が信濃知久平城に移ると廃城になりました。
次は奥平氏の居城を訪ねます


























