最近、「フーチング」なるものを体験してきました
「フーチング」とは、大阪大学工学部工作センター長だった天才発明家 故政木和三先生が考案したもので、磁石の重りを鎖で垂らし、その振り子の動きによって、心の中に念じた質問に答えを出していく…というものだそうで…
↓Oリングテストについて書いた過去ブログ




今回は、さすがにショックでした
フーチの先生は、私のあまりの落ち込みようを見て、「これは絶対ではないので、ただの参考程度に聞いておいた方が…」と、慰めるように仰っていましたが…。
(プーチンさんは、もう死んでいるの!?)
(大好きなプーチンさんに会うためにロシアへ行くというのに…これでは何のためにロシアへ行くのか分からない…)
心の中で号泣しました。
もし、仮に亡くなったのだとしたら…
いつ、どのタイミングで亡くなったのでしょうか…

プーチンさんは、
いつ、どのタイミングで
亡くなったのか?
可能性その1
●大統領選挙前に殺された
プーチンさんは、大統領選挙に出馬して欲しいとオリガルヒ(ロシアの新興財閥)たちに頼まれましたが、頑なに拒否しました。
それが、ある日なぜか突然掌を返したように引き受けたのです。
プーチンさんは、鉄のような意思の持ち主で…
一度こうと決めたら絶対に何があっても信念を曲げず、ご自分の考えを貫き通します。
なので、なぜこうも易々とご自分の考えを覆し、大統領選出馬を受け入れたのか本当に不思議でした
そんな重要なことにも関わらず、その理由について書いた本は、どこにもありません。
私はその時、「ひょっとしたらこの時点でもう殺されていて別人になっているのかもしれない…」と、さえ思ってしまいました。
プーチンさんがあまりに言うことを利かないので、困り果てたオリガルヒがプーチンさんを暗殺し、自分たちに都合よく動く操り人形のクローンをプーチンさんの身代わりに仕立てたのかも !?
でもこの私の説も、ある写真から直ぐに突き崩されました。
↓この写真なのですが…



可能性その2
●大統領の激務に耐えきれず、首相時代に過労死 !?
この写真を見て頂くと一目瞭然なのですが…
2000年~2007年時代(1期,2期)グループと2012年以降(3期~)時代グループでは、全くの別の人のように(私には)見えます。
(頭蓋骨の形が全然違う。前半は面長で後半はまん丸…。)
たった4年を挟んで、人ってこんなに変わるものでしょうか?
ちなみに、2011年のプーチンさんと2012年のプーチンさんも違いすぎる…
たった1年でこんなに変わる?
先ほども書きましたが、「目の黒シミ」がなくなるのが2008年あたりの首相時代なので、「亡くなった」とすれば、恐らくこの頃なのではないかな?と思っています。
ここからかなり、勝手な妄想をズラズラと書かせて頂きますが…
その重要なターニングポイントとなるのが、2007年のドイツで行われた、プーチンさんが初めて米国に対して不満をぶつけたと言われるミュンヘン安全保障会議での演説ではなかったかなと思っていて…
プーチンさんは、ずっと欧米に対して友好姿勢を崩さず、裏切られても裏切られても(NATO不拡大の約束無視、NGOによる内政干渉etc…)忍耐を持って信じ続け、関係を保持しようと努力しておられましたが…
ついに堪忍袋の尾が切れて、怒りもあらわに、グローバリストたちに三行半を叩き付け、不満をぶちまけたと言われているのが、この安全保障会議での喧嘩上等の名演説です。
この時のプーチン大統領…
私にはどうしても「ホンモノ」には見えないのです。

私は、外見もさることながら、演説内容からも、この時のプーチン大統領はホンモノのプーチンさんではないような気がしています。
そもそもプーチン大統領は、意外にも!?とても理性的で慎重派で、知性派の学者肌だといいます。
プーチン大統領は、欧米のグローバリストたちからのロシアへの度重なる理不尽な仕打ちにもじっと耐え、何とか友好的に事を運ぶ手立てを模索していました。
そのやり方は、ロシアの過激な民族主義者の人たちからすると、とても歯がゆく、物足りなく感じるものだったかもしれません…
そんなプーチン大統領が、突如方針を転換させ、強硬で過激な喧嘩上等路線に鞍替えしたのには、何か別の深い訳があったように思えてなりません。
その訳とは…
この3枚の写真を見て頂きたいのてすが…↓





















