がん宣告をされた時、私は39歳でした。
がん宣告は、主人と一緒に受けました。
宣告された時、一瞬血の気が引くような気がしました。
でも、嘘をつかれるのは嫌だったので、「すべて本当のことを教えてください。」と先生に頼みました。
そのせいか、先生は楽観的なことは何一つ言いませんでした。
宣告以前から、もしかすると「がんかもしれない。」と心のどこかで思っていたので、宣告を受けた時は、
本当に、ショックはショックだったのですが、青天の霹靂という感じではありませんでした。
心のどこかで、やっぱりねという感じがありました。
宣告の衝撃の後、すぐ、子どものことが、頭をよぎりました。
子ども2人は9歳と6歳で、まだまだ母親が必要な年齢でした。
子どもたちをどうしようと思いました。
手術をうけるため入院する間、こどもたちの面倒を誰がみてくれるのか、どうしたらいいのだらろうかと
心配でたまりませんでした。
なぜなら、私の母は存命でしたが病気で、とても私の子供の面倒をみることができず、
主人の母は、もう亡くなっていました。
主人は仕事が忙しくて、とても会社を休むわけにはいきませんでした。
頼りになる姉妹もいなくて、どうしたらいいのか本当に途方にくれました・・・。
結局、主人と私の父と主人の弟の男3人が協力して何とか私の入院中1か月を乗り切りました。
昼間は私の父が面倒をみて、朝・夜は主人や主人の弟が面倒をみてくれました。
でも、料理もあまり出来ない3人だったので、できあいのお惣菜やインスタント食品を
食べさせることも多かったようです。
洗濯は週末に主人がまとめてやっていました。
私の住んでいる地域は、小学生は私服で登校していました。
小学校生だった子どもたちに、どんな洋服を着せて学校に行かせればいいのか主人にはわからなかったので、私が入院前に洋服の組み合わせを月曜日から金曜日までの分(=つまり5セット)作り、それを1セットずつポラロイドカメラで写真にとりました。
日曜日の夜、乾いた洗濯物の中から、子どもたちが写真を見て、私が作った組み合わせどおりにセットし、月曜日から1セットずつ、好きなものを着ていくという形をとりました。
本当に苦肉の策でした。
子どもたちの健康も、精神状態も、食生活も心配でしたが、私にはどうすることもできませんでした。
私にできたことは、病院から電話したり、ときどき手紙をだすことだけでした。
手術後動けるようになった後、ほぼ毎日電話をしました。
子どもたちの元気な声を聞くだけで安心しました。
毎日電話することで、子どもたちが私を思い出し、かえって寂しい思いをするのでは!?とも思いましたが、私が子どもたちの声を聞きたくてたまらず、電話をしていました。
点滴をしながら、病院の売店に行き、便箋と封筒を買ったり、お見舞いに来てくれた伯母に便箋と封筒を買ってきてくれるよう頼んだりして、子どもたちに手紙を書きました。
私が入院していた病院にはポストがなかったので、いつも看護師さんに頼んで、投函してもらいました。
主人は子どもたちの面倒をみなければならなかったので、あまり病院には来られませんでした。
主人は、昼休みや仕事の合間に時々顔をみせてくれましたが、しょっちゅう来るわけにはいきませんでした。
とにかく、一日も早く退院して子どもたちのそばに帰りたいとそればかり思っていました。