Je suis le père de Chip. -4ページ目

Je suis le père de Chip.

Chip Chihuahua,le chien de ma famille.
Nous l'aimons beaucoup.
Nous voulons vivre avec lui pour toujours.

今日、日本文理は仙台育英に惜敗した。

大井監督にとっての最終戦である。

 

かつて、新潟の高校野球は参加することに意義がある存在でしかなかった。

 

パパが新潟の高校野球が一皮剥けたのを印象づけられたのは、新潟南の関川監督。これで新潟の高校野球は強くなったと思いかけたのだが、あれ以降20年以上も低迷することになる。

 

県内でも強豪と言われる高校はあそことあそこ。しかし、真に全国レベルで戦えるのは日本文理しかなかった。

 

高校野球の宿命として、毎年チーム力が様変わりする。

あの準優勝以降も日本文理が甲子園出場できなかった年もあった。県内で強豪と呼ばれる高校数多あれど、全国レベルで戦える高校は日本文理しかない。日本文理が出場しない年は、ハッキリ言って甲子園には興味を持たなかったというのがパパの本音である。

 

甲子園に出場できるチームと甲子園で勝てるチームは明らかに違う。甲子園に行けたら可能性はあるとの思いからパパが日本文理を応援してきた理由だ。

 

勝負は時の運。

日本文理が負けて甲子園に行けないことだってあるだろう。パパの夏はそこで終わり。ほかの高校には申し訳ないが日本文理が甲子園に行った年がパパにとって長い夏になるのだ。キレイ事は言うまい。それが新潟の高校野球の現実なのだから。

 

上っ面の話をするつもりはない。全国レベルの野球をするのなら新潟県の高校球児たち、指導者には奮起せよとの言葉しかない。

 

今夏、出場校中、最高齢の監督が大井道夫監督である。

2009年夏。今も忘れられない全国制覇を賭けた決勝戦の活躍には目頭を熱くさせられた。伊藤直輝投手はなるほど素晴らしいピッチャーだ。だが、ドラフト1位になるような傑出した存在ではない。

 

ひとりのスター選手に頼ることができるならそれもよかろう。

だが、日本文理をはじめとした新潟の高校野球にそれを期待するのは無理な話。全国的な名門校が皆無な現状で、ひとつひとつ勝ち上がっていくのはチームの安定感しかない。チーム力を上げるのは、そうしたスター選手の存在もあるかも知れないが、やはり監督あっての話なのだと思う。

 

甲子園初戦敗退の長いトンネルに光明を当てた、いや光明を引きずりこんだ大井監督の功績は極めて大である。

 

栃木県出身の名将が新潟の高校野球を変えてくれた。

日本文理高校の選手たちを育て慈しみ、新潟県の高校野球をひとつもふたつも強くしてくれた監督に対して新潟県民として心よりお礼を申し上げたい。

 

新潟県民栄誉賞を大井監督に捧げたい。

そう思うパパなのであった。

 

大井監督。最後まで新潟の高校生をしっかりと育ててくださってありがとうございました。

できるならば、体力と気力の許す限り、勇退後も見守っていただけたなら幸いです。

 

ありがとうございました。

 

ハアー 佐渡へ  佐渡へと草木もなびくヨ

 佐渡は居よいか 住みよいか・・・

 

言わずと知れた「佐渡おけさ」である。

佐渡おけさは、船乗りたちによって佐渡に伝えられた唄が相川の佐渡金山の鉱夫達に広まり「選鉱場節」として唄われたのが由来と聞く。

 

選鉱場といえば、相川にある「北沢浮遊選鉱場跡」。

世界文化遺産登録をめざす「金を中心とする佐渡鉱山の遺産群」にある産業遺産である。

 

今年も「金を中心とする佐渡鉱山の遺産群」の国内推薦が見送られた。

考えてみれば、こうした産業遺産の歴史的価値が毎年毎年上がっていくはずもない。ただ毎年毎年国内推薦を狙ってみたところで結果は見えている。

 

タージ・マハルや万里の長城などの文化遺産は、その景観の美しさや壮大さで群を抜く。その歴史的価値も長い時間をかけて語られてきた。世界史の教科書にも載るなど知名度の高さは圧倒的で、世界文化遺産であることに異を唱える人はいないだろう。

 

「金を中心とする佐渡鉱山の遺産群」には、残念ながらそのような世界的知名度はない。人類の歴史と世界地図の中の普遍性は乏しいというのが厳しい現実だ、

 

だとするなら、遺産群の歴史的価値について極限まで訴求力を研ぎ澄ますしかないということになる。

 

特に、産業遺産は建造物が果たした役割や歴史的価値を整理したうえで、誰もがうなづけるようにより多くの言葉で説明していく必要がある。

 

「石見銀山遺跡とその文化的景観」がどのようにして世界遺産となったのかを調べてみると実に興味深い。

世界遺産登録候補となったものの、顕著な普遍的価値の証明が不十分であることを理由にユネスコの諮問機関であるICOMOSから一度は登録延期勧告を受けた。そこからわが国は外交攻勢や推薦書にある植林や自然との共生を強調することで登録となったとのこと。

 

産業遺産の歴史的価値とは現代の産業にどのような影響を与えたかであり、それは単に佐渡島に限らずわが国の産業の有り様に今も息づいているかどうかを語れるものとして、言葉は悪いが大風呂敷を広げる傍らで根拠を精緻に積み上げていく必要がある。

 

こうなるともはや説明ではなく証明そのもの。

国内推薦を受けてようやくスタートラインに立ったといえるのだが、現状はその一歩も二歩も手前といったところ。こんなところで一喜一憂していたのでは世界遺産登録は程遠い。正念場は国内推薦を受けてからなのだ。政府代表の外交など大いなる援護射撃=要は交渉力というのも何やらキナ臭さを感じるが、それが現実なのだから仕方ない。

 

お祭り騒ぎは世界文化遺産に登録が終わった後にしてとも思うが、ただただ両手を合わせて固唾を呑んで見守るよりも、何も手だてのない庶民としては大いにムードを盛り上げていくしかないのだろうか。

 

佐渡鉱山の長い一年がまた始まった。

 

家も新築したばかりの頃は良いが、

15年近くも経つとあちこちと不具合が起きる。

 

昨年暮れの給湯システムの入れ替えにホッとしたのも束の間、今度は食洗機が故障し入れ替えることになった。

 

我が家の食洗機はシステムキッチンのビルトインタイプ。

さぞかし費用も高額になるのだと怖れはしていたが、ネットで調べてみると食洗機本体だけならば後継機種の最廉価のものは3万4千円と意外に安いものであることに一応は安堵した。

 

だが、問題は設置をしてくれる業者がいるかどうかだ。

関東圏ならば設置費用込みで6~7万円と良心的な価格でやってくれる業者は多いが、当地新潟県は完全に地域外。

 

そうした事情から、多少は値段が高くてもやむなしということで、メーカー紹介の地元の業者に工事見積を依頼したが、何と驚いたことに見積額は中級機種で16万を越えるものであった。

 

工事費と引き取り費用3万5千円はほぼ関東圏並みなのだが、メーカー希望価格15万円の機種でネットと地元業者の本体価格差は10万円を超えるという恐ろしいものだ。値引きは万単位端数を切り捨てなら可能とのこと。誠に良心的(笑)な見積額で怒りさえ覚えた。ヒトの弱みにつけ込んだボッタクリにしか思えない。

 

そんな訳で、意地でもこの業者は使わない。そして、どれだけ安く入れ替えを実現したか。是非とも件の強者に伝えてやろうとパパは心に誓ったのであった。

 

プラズマクラスターとかスチーム洗浄とか、最新機種はいろいろと機能満載だ。だが、そんな機能など無くても我が家の食器はピカピカで何の不都合もない。選んだのは後継の最廉価機種だ。それでも、節水などの機能はこれまで使用してきたものと比べても格段の進歩。

 

ネットで3万4千円の本体を購入。

 

そのほか自分で調達したものはアース線の接続に使う金具(リングスリーブ)4円と絶縁用のビニールテープ65円のみ。

 

あとは故障した本体の処分費用なのだが、食洗機はテレビや冷蔵庫などのように家電リサイクルの対象ではないので、新潟市の粗大ごみ処理券200円を購入しておしまい。

 

締めて3万5千円でお釣りがくる金額でパパの食洗機入れ替え完了。

メーカー紹介での入れ替えなら出張点検費用無料とのことだが、たった5千円くらいサービスしてもらったところでお話しにならないので、これは近々支払うつもりだ。

 

新規設置なら、水道栓の分岐、排水栓や電源・アース線の確保など素人にはなかなかできない工事も必要になるのだが、今回は本体をシステムキッチンから外して給水ホースと排水ホース、電源コンセントとアース線を付け替えるだけ。工具もドライバーとペンチだけと素人工事だ。

 

やはり水回りの作業になるので給水・排水の水漏れには細心の注意を払った。しっかりと試運転をしながら水漏れの有無を確認することが気をつけるべきところ。

 

あとは電源と言っても、コンセントを差し込むだけ。アース線もしっかり接続すればいいだけなので、洗濯機の入れ替え程度のさほど技術を要しないものだ。

 

後継機種での単純な入れ替え作業ということを考えると、工事費3万5千円もどうかと思うほど簡単なものだ。所用時間は入れ替えだけで2時間とはかからない。

 

システムキッチンからの取り外しと取り付けへの不安が一番大きいが、他メーカーへの乗り換えならばともかく、本体サイズも仕様も後継機種ということであれば自分でやってみるというのも選択肢のひとつだと思う。

 

当地新潟では業者の見積金額から、間違いなく頭の数字をひとつ(=10万円)削ることができるはず。

 

日曜日のお昼時、久々にラーメンでも食べようと独り暮らしのグランマを連れ出した。

場所は胎内市。
国道7号線を村上方面に向かい、胎内警察署を過ぎてすぐの交差点を左折する。
ほどなく胎内市役所を右手に見てあとはひたすら道なりに行く。
ラーメン屋なんてホントにあるの?と不安になりかけた頃、道路が大きくカーブを描いたその先右手、田んぼと集落の境目にそのラーメン屋があった。

『めんや麺楽』。

駐車場には多くの車。満席ではあったが5分ほど待っただけで席に案内された。

若い女性がオーダーを取りに来る。
特段丁寧でも雑でもない応対ぶり。ラーメン屋としてはちょうどいい。

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この店のメニュー。
どうやらニラなんばんが看板のようだ。

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グランマはあっさりのラーメンをオーダーした。底まで透けて見える琥珀色のスープが食欲をそそる。

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パパはみそとんこつにしたのだが、ラーメンが出てくる前にトッピングの登場。

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ご飯と一緒でもよさげ(笑)

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キムチは麺のトッピング用に小さめにカットされている。

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店内はほぼ満席なのだが、厨房とホールの連係が良いのだろう、さほどの待たされ感もなく、みそとんこつが出された。

見た目も味も最近流行りのギトギト感はない。

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新潟市内のどこかのみそラーメン屋の極太麺特有のモサモサとした食感もなく、程よくツルツルとした滑らかさはパパ好み。

パンチの効いた濃厚スープが好みの向きにはいささか物足りないかも知れないが、優しいとんこつスープと程よい太さの麺のバランスはとても良いように思える。

ひとつだけ難を言えば、ラーメンを食べているその隣でスパスパとタバコを吸っている爺さんが気になった。

この店は小さな子供を連れた家族連れも多いようだ。パパも喫煙者ではあるが、こういう場所で人目もはばからずタバコを吸うということはあり得ない。客の良心に期待するしかないのだろうか。



今は昔、国鉄なる国有企業あり。

 

破滅的な赤字を計上して天文学的な金額の債務は切り離され、民営化によりJRという私企業に生まれ変わった。

 

今や、この会社の存在意義は私企業そのもの。利益の積み上げしかないようだ。一言でいえば銭の亡者以外の何物でもない。

 

その企業姿勢はJR東日本の「トランスイート四季島」に表れている。

富裕層優遇の過剰サービスで何百万円もするプレミアムチケットを作り出し競争率何十倍で売り出している。

 

そんなプレミアムなサービスも乗客が乗車してようやく始まるのだが、何と発着駅は上野駅とのこと。

 

この列車に乗ろうという人の多くは東京駅の方が便利だろう。

だが、プレミアムをいいことに上野まで来いということらしい。新幹線の拠点は東京駅。「トランスイート四季島」に乗ろうと降り立った乗客は新幹線東京駅から電車で上野まで行くのだろうか。それくらいの料金を要求するなら迎えに来いではないか(笑)

 

面白いことに、読売新聞ではかの列車の乗車駅が上野であることを郷愁を誘うと肯定的にコメントしていたが、何のことはない、新幹線も在来線も拠点化した東京駅では過密なダイヤに対応できないだけの話ではないか。すべてはJR東日本のご都合主義にもっともらしい理由をつけた話。

 

結局のところ、多額の債務から解放されたものの、根っこにある考え方は親方日の丸が親方ゼニ儲けに変わっただけ。日の丸にせよゼニ儲けにせよ、毎日在来線で通勤通学している乗客はそっちのけということだ。国鉄時代とは向いている方向が違うにせよ、どのみちありうべき方向は見ていないのである。

 

こうしたどうでもよい列車にマスコミまでがチヤホヤしてJRのイメージ操作に便乗しているとは情けない。「四季島詐欺」の片棒担ぎなのだよ。

 

四季島なんぞに乗せることよりも、遅れない越後線を実現することがJRの使命なのではないかと思うがどうだろう。

 

越後線の定時運行や安全対策に投入するための資金を四季島で稼ぐとでもいうのなら話は理解できるのだけども、JR東日本のちょっとした管理職でも年収1000万円を軽く超えていると聞くにつけ、何か浮世離れしたもののように思える。

 

公共交通機関の使命は、第一に安全。第二に定時運行。誰にでも等しく同じサービスを提供することであるはずだ。

越後線などの在来線が定時運行できないのは安全対策がなっていないからだ。定時運行のための安全対策を講じてこそ公共交通機関としての価値がある。

 

「トランスイート四季島」の存在は、そういうものをすっ飛ばした先のものだ。カネにならない在来線は安全対策にもカネをかけない。遅れてもやむなしとの姿勢は露骨なほどによくわかる。。

 

私企業としての一般原則は「利潤の追求」。

だが、それ以前に企業として求められるものを実現して初めて利潤の追求ができる権利が与えられることを忘れてはならない。それが「商い」というものの道理だろう。

最近パパは新潟日報の購読をやめた。

理由は簡単である。面白くないからである。

 

日報の政治経済、国際関係のニュースソースは共同通信。

社説は斜め読みでほぼスルー。

日報抄は文章そのものが下手。

そんなものを書き写す「日報抄書き写しノート」というものを150円で販売しているとのことだから笑える。タダでもいらんわい(笑)

 

県内各地の記事は担当支局の取材なのだが、水曜日の朝刊でこないだの日曜日にあったイベントの記事を見てどうしろというのか。

同じ新潟県とはいえ、どこかの関係ない地域の賞味期限切れの記事を出勤前の慌ただしい時間帯にとても読む気にはなれない。地域版ということであれば、三条新聞や柏崎日報の方がよほどパッションがある(笑)

 

新聞の使命が世の中の出来事を速やかにしかも的確に読者に伝えることであるとするならば、日報はその使命を果たしているだろうか?

地方紙という中途半端な存在を隠れ蓑に、共同通信から記事を買い賞味期限切れの地域版でそこそこ儲けているジャーナリズムとはおよそ関係のない存在だ。

 

旬な記事ではなく賞味期限切れの半ば死んだ記事を日報では情報といっているらしい。

Otona+の評判は概ね芳しくない。日報は報道の即時性を捨ててこうした誤った方向に走っているのである。メディアシップなどとはいうが、あれはそもそもが不動産事業であり、本業とは関係のないものだ。

 

まあ、いろいろと書き並べてきたが、日報購読歴数十年の優良購読者を止めるにあたり、これっほっちも躊躇することはなかったことをお伝えしておこう。

 

どこかの金融機関の経営統合についていろいろと論評していたようだが、競争相手の乏しい日報こそ言われてしかるべきことがある。知らぬは本人ばかりなり。報道やジャーナリズムの原点は、自らの軸をしっかりと持って初めて成り立つものだろう。

 

いや、今や報道やジャーナリズムの実態は、自分はさておいてでないとできない芸当なのかも知れない。それではあまりに無責任なのだけどね。

今日は久々の休暇。実家に戻って独り暮らしのグランマの愚痴を聞くことにした。
口うるさいのと人使いが荒いのは天下一品。齢八十になろうというのにボケもせず矍鑠としている母への感謝と日頃の親不孝の罪滅ぼしと思えば、この際それもまた致し方なし。
 
実家にたどり着くなりいきなり「柿をもげ」との指示。お茶を飲む時間さえも与えてくれない。「よしっ!」気を取り直して早速作業開始だ。
 
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ふと見上げると青空が眩しい。たわわに実った柿の収穫だ。
 
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手に置けば空蝉風にとびにけり    高浜虚子
空蝉(うつせみ)とはセミの抜け殻。夏の季語であるが、この時季になるまで雨ニモマケズ風ニモマケズ柿の葉の裏側にしっかりとつかまっていた。
 
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この後、あっという間にカゴ一杯になった。
 
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実家の庭にはゆずの木もある。今年三回忌を終えたグランパの形見の木でもある。これでも今年は身の付き具合は今ひとつ。
 
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定番は柚子ジャムかな。柚子風呂もいいなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現状では原発再稼働は認めない。

何と楽な公約であろうか。

これだったら、同じ公約でパパでも立候補できる。

だって、イヤだと言っていれば何もしなくてもいいんだもん。

 

こんなもんが公約としてまかり通って政治家になれるなら

誰だって政治家になれる。

 

前の知事の泉田君の政治手法は

まさに否定から始まる「とってもお気楽」なものであった。

 

北陸新幹線の開通は通過県である新潟県とて

メリットを享受できる絶好のチャンスであった。

些末なことにチャチャを入れて

相見互いの隣県からもヒンシュクを買うことになった。

 

在来線ならOKで新幹線は乗客が通り過ぎる。

どうしてそんな閉鎖的な思考になるのか理解できかねる。

実際にあるかどうかわからない利益のために

こんなくだらない発想というか被害妄想から

泉田君は新潟・富山県境の関所に居座る

木っ端役人になろうとしていたと言われても仕方あるまい。

 

屁理屈を並べ立てて実質的な政策は何もしていない。

上越新幹線と関越道・北陸道を開通させてから、

時の首長たちは何をしてきたのだろう。

 

あの時は交通網が発達した新潟はどこからも羨ましがられた。

だが、今の新潟には交通が不便な土地との評価しかない。

田中角栄がコンピューター付ブルドーザーで作ったインフラの骨格に

今度は私に任せてくださいと

肉付けをして血を通わせた機能的なインフラ整備をした政治家がいただろうか?

 

必ずしも利益誘導型の政治を是とするものではないが、

泉田県政にあるような閉鎖的利益排除型の政治もあったものではない。

 

田中角栄が失脚して40年。

これを新潟県にとって失われた40年と言わずして何と言う。

昨日遅くまで居酒屋で飲んでいたこともあり今朝は二度寝。
目が覚めたらとっくに昼を過ぎていた。

久々にまったりとした週末。
さぁ、何をして過ごそうか?

しばらくブログへの書き込みをご無沙汰していたこともあって、
今こうしてパソコンに向かって、しばしの間ネタを考えている。

BGMはイタリア映画の主題曲「Cinema Paradiso」。
あの映画が公開されてからもう30年が経とうとしている。
折に触れ幾度となく見た「Nuovo Cinema Paradiso」。
日本では「ニューシネマパラダイス」として知られている。

巨匠エンリオ・モリコーネの哀愁を帯びたメロディーに乗せて
なつかしい映画のシーンが脳裏によみがえる。

心のヒダに染み入るフレーズに目頭を熱くしながら聴いている。

聞けば、北陸地方が梅雨明けしたとのこと。

だが、今日は家にこもって
懐かしい曲を聴きながら過ごすことにした。



パパは決してブログやめた訳ではないからね。
やっぱり変だと思ったから、久々に顔を出してみた(笑)

パパが小学生の頃は、参議院は「良識の府」と教えられた。
子供心にも衆議院との違いは明らかだった。当時は全国区と地方区に分かれて、業界・学会・・・なんて感じで知名度の高い候補者が立候補していた。

今はどうだろう?
節操も無く衆議院と参議院を行き来している候補者がどうにも気に入らない。新潟選挙区で立候補している3人。

野党統一候補と鼻息は荒いが、あんな節操もないゴリ押しで「良識の府」の一員になれるのだろうか甚だ疑問だ。

じゃあ、その対立候補の与党候補者はどうだろう?
衆議院の候補でもいいんじゃないのか。これも「良識の府」の議員としては役不足。当選できればどこでもいいのは、ゴリ押し野党統一候補と志の低さでは大差ない。

それ以外の若干1名は、バックボーンからすれば参議院議員候補としては3人の中で一番ふさわしいかも知れないが、もともと論外の政党である。何も言うまい(笑)

ゴリ押しの様子を眺めていると、野党統一候補は都知事選に立候補する小池百合子と性格的に似ているところがある。

閑話休題。
参議院議員選挙を通常選挙という。
議会制民主主義における二院制の意味は、まずは、下院による暴走のけん制の役割を果たすのが上院の役割にあることは否定しようがない。それぞれが違ったフィルターで選出され、同じ多数決という原則の中でそれぞれが違った役割を果たすことにある。

地元紙新潟日報も阿呆この上ない。
参議院に一票の重みの話を持ち出して、これみよがしに一面に掲載している。

そもそも、参議院議員選挙に一票の重みの話を持ち出したら衆議院と同じになってしまうだろう。だとしたら、二院制なんて必要ない。そうした論調無しで、天下を取ったかのような記事掲載はやめたらどうか。参議院の廃止をまず唱えるべきと考えるがどうだろう。

ちなみに、二院制の米国の上院は、50州各2名選出の合計100名で構成されている。
人口最多のカリフォルニアの人口は3000万人を超える。最少のワイオミング州ではわずか60万人足らずだ。カリフォルニアもワイオミングも等しく2名の議院を選出しているのである。米国の上院における一票の格差の話をしたらとんでもない格差になってしまうのだ(笑)

地方創生という話をするならば、一票の重みだけでの話をしていると確実に大都市中心の政策になってしまう。明らかに地方切り捨てになってしまうのだ。

悪平等という概念があるとするならば、一票の重みばかりを重視した概念を参議院議員選挙にまで持ち込むことは愚の骨頂としかいいようがない。

こうして考えてみると、地方創生の原点は参議院議員選挙にあるような気がしてならないが、今の選挙のありようがそうではないことを考えると、えもいわれぬ虚しさを感じざるを得ないのが今のパパなのである。