長い夏
長い夏。
一昨日9/18は多治見は36度を超えたようだ。
多治見といえばひところ熊谷と共に日本一の暑さで全国にその名を轟かせた。
9月後半になっても、秋の気配・・・なんてこれっぽっちもない(笑)
今日初めてコスモスを見た。田舎に住んでいる私なんですけど(笑)
子どもの頃、9月に入ると友達とつるんで鈴虫をとりに行った。
夜、懐中電灯を石垣のすきまに当て、ふぅ~と息をかけると鈴虫が出てくる。
そして虫かごに入れる。エサはナス。
しばらく自宅で鳴いてくれた。
この長い夏に、こんな記憶をよみがえらせるだけで幾分涼んだ。
亜熱帯?に住む今の私の子供の頃の思い出は、遠い幻を見ているようで、この世の記憶とは思えない(笑)。
あの秋は、まるで別世界の出来事のよう(笑)
豊かな四季を体感して、豊かな情緒を育んだ。
兄が上手に吹く草笛の音も耳に残っている。
鈴虫の音、草笛の音も、もう何年聞いていないだろう。
酷暑の夏、家の中でタブレットとにらめっこしている子どもたちが不憫に思えるのだが、彼らは新しい情緒を育むのだろうか?
幸福の科学学園 関西校 内門寮監長が語る『関西校の教育について』
聴くだけで若返ったような気分?
若いっていいなあ。(笑)
Happy Sunday(ハッピーサンデー)】ぎふチャン ラジオ
2024.9.1 放送
ゲスト : 幸福の科学学園 関西校 内門寮監長が語る
『関西校の教育について』
血の政治~青嵐会という物語
血の政治~青嵐会という物語
9月6日、幸福実現党江夏幹事長が、台湾立法院で行った記者会見で、「日本が台湾を一方的に断絶したことは“武士道”からみて間違った行為であった。」と批判し、日本の政党としては初めて「台湾関係法 幸福実現党試案」を発表した。
私は、江夏幹事長の言葉に接して、ちょうど幸福実現党が立党した2009年に発刊された新潮新書「血の政治~青嵐会という物語~」河内孝著を思い出した。
ちょうど本書77pに故南原宏治氏に言及があった。これは象徴的であった。
第二章 青嵐会と三島由紀夫から引用する。
~映画「戦争と人間」シリーズで左翼小説家役を演ずるなど、個性的な演技で知られた南原宏治も勝手連の応援団の一人だった。
武道館での大会の後、3月10日(1974年)に名古屋で開かれた青嵐会集会で、演壇から
「青嵐会は三島に続け!」と絶叫してマスコミの格好のえじきとなった~
これだけの文章であるが、南原さんが青嵐会を応援していたということ。当時、リベラルインテリから見ると青嵐会は、血判、暴れ者、右翼というイメージがつきまとっていた。
しかし、青嵐会の発起人応援団は、小説家、文芸評論家の林房雄(1903 - 1975)、小説家、劇作家の北条誠(1918- 1976)、政治評論家、作家の川内康範(1920- 2008)、経済評論家木内信胤(きうちのぶたね、1899 - 1993)、作曲家黛敏郎(1929- 1997)、俳優南原宏治(1927- 2001)等、二三十人の文化人、著名人が名を連ねていた。
意外にも宮沢喜一氏(1919 - 2007)が、青嵐会の意味を以下のように語っていた。
「あれは出るべき戦後の健全なナショナリズムの発露ですね。」
青嵐会とは、ずばり反田中。田中角栄政権が推進する日中国交正常化に反対し、台湾との断交許すまじ!の激しい運動であった。青嵐会の中心メンバーであった北海のヒグマ、中川一郎衆議院議員(1925- 1983)の妻は、「毎日が震度5みたいな時代」と評した。
当時、台湾断交を青嵐会がどのように言っていたか。
「日華条約破棄(断交)は、前代未聞、敗戦国民(日本)が戦勝国民(中華民国)との条約を一方的に破棄するとは聞いたことがない。」
「(シベリアに日本人捕虜を抑留した)ソ連と違って誰一人抑留しなかった敗戦日本の恩人、蒋介石を切り捨て、共産中国と国交回復するは何事か!」
「田中外交は、義侠心に欠ける。」
これらの批判は、まさしく江夏幹事長が語った「日本が台湾を一方的に断絶したことは“武士道”からみて間違った行為であった。」ということ。ほとんどの関係者が鬼籍となっているが、草葉の陰から随喜の涙を流しておられると確信する。
幸福実現党が、青嵐会の系譜であると言っているのではない。
幸福実現党の今回の「台湾関係法」の起草は、天御祖神(あめのみおやがみ)の武士道精神を体現しているということ。50年前の青嵐会にも、きっと同じ精神が臨んでいたのであろうと思う次第である。特に、若いころ、我々がお世話になった南原宏治氏の喜びはいかばかりかと思う次第である。
最後に、本書から、蒋介石の絶筆を紹介しておきます。
『国家の興亡を以て己の任となし、個人の生死を度外に置く』
著者の河内孝氏(1944―)は慷慨する。
『最近は、個人の興亡をもって己の任とし、国家の生死を度外に置く奴なかりになってしまった。』
いみじくも宮沢喜一氏が、指摘した「あれは出るべき戦後の健全なナショナリズムの発露ですね。」その時代から50年。
今回の幸福実現党の「台湾関係法」起草は、大川隆法総裁の「二度と台湾を見捨てない。いまこそ、日台同盟を。」の理念から発されている。
「これは出るべき天御祖神の武士道精神の発露ですね。」と草葉の陰から宮沢氏が呟いているかどうかは定かでない。(笑)
昨日の投稿でも紹介したが、江夏幹事長が、自由・民主・信仰を守るために、天照信仰という蒙昧主義(Obscurantism)を克服し、日本が天御祖神の武士道精神を強く出さなければならないと指摘した事は、エポックメイキングなことであった。
同時代に生きていることに感謝である。
※黛敏郎氏が日本武道館で開かれた青嵐会の大会で、東京フィルハーモニーを指揮して、シベリウスの交響詩「フィンランディア」が演奏されたことを本書で知り、ちょっぴり嬉しかった。小生は、シベリウスのファンであったから。それと、黛敏郎氏は大川隆法総裁が作詞作曲された「精霊の歌」を高く評価されていたことを南原宏治氏から伺ったことがある。
交響詩「フィンランディア」 作曲 シベリウス
日本と台湾の自由を守り抜く!故南原宏治氏なに想う。
日本と台湾の自由を守り抜く!
街宣を行った。
機械翻訳で不十分ながら英訳の字幕を付けた。
心ある英国人に届けばという願いからである。1世紀半に及ぶ香港の統治者・宗主国として、香港の『自由の陥落』に無力だったように見える英国人に、天御祖神(あめのみおやがみ)の武士道よ届け。
日本もかつて50年間、台湾を統治した。統治した国として、「二度と台湾を見捨てない。」これは天御祖神の武士道精神の発露である。
残念ながら天照信仰の「Ambiguity」からはこの武士道精神は出てこない。幸福実現党江夏正敏幹事長は、この認識を、台湾立法院での記者会見で言及した。エポックメイキングな一瞬であった。
台湾(自由)を守るには、天照信仰から、天御祖神信仰への我が国の「超克」が不可欠なのである。
ほとんどの国民が気付かぬうちに静かに静かにいや、大々的に歴史が動いている。
二度と台湾を見捨てないという意味は、一度、日本は台湾を見捨てたということ。それは1972年の田中角栄政権の一方的な台湾との断交を言う。(日中国交正常化と引き換えに)
大川隆法総裁は、この断交を「武士道精神にもとる行為」と2019年3月、台湾の地で説法された。(愛は憎しみを超えて)
台湾との国交断絶の翌々年、三島事件から4年目の1974年3月10日。
故南原宏治氏は、名古屋で開催された青嵐会集会の演壇の上にいた。
「青嵐会は三島に続け!」と絶叫してマスコミの格好のえじきとなった。
そう南原宏治氏は、黛敏郎氏等と共に、青嵐会の勝手連の応援団の一人だったのである。
ご存知、青嵐会(中川一郎、石原慎太郎、ハマコー等)は親台派、台湾との国交断絶に真っ向反対していたのであった。
ああ、我ら青年時、叱咤激励して頂いた南原宏治氏、9月6日の江夏幹事長の台湾での記者会見をご覧になって何を想う?
天界から随喜の涙を流しておられるだろう。
「50年もして我らの思い、種となって台湾にまかれた。いや、日本人の心にまかれた。」
台湾の自由を守り切るという天御祖神の武士道精神の発露を、英国人にも届けたい。
大川隆法総裁先生は、香港と台湾の自由が消える時、日本の自由も消えると説いておられたのだから。
□幸福実現党岐阜県本部街頭演説
日本と台湾の自由を守り抜き アジアに平和と繁栄を Protecting the Freedom of Japan and Taiwan, Peace and Prosperity in Asia
法友はよきかな。戦友はよきかな。
この前、TさんのSNS上のポストで、
(前略)
懐かしい人の存在は
それだけで
ひとつの愛である
願わくはお互いに
誰かにとっての
懐かしい人で
いられますように
って書いてあるのを読んで、心の琴線に触れた。
昨日、赤坂の党本部で、大きな全国規模の会議があり参加。
すると偶然隣に座った男性が、おそらく三十四年ぶりの再会であったろう徳島のTさんだった。(男性)
ありがたい事に、Tさんは私を認識してくれた。
私は先の戦争で南京に従軍した亡き父が、終生戦友と親交を温めていた姿を見て、子供心に私も「戦友」が欲しいと思った。戦争に参加したいという意味ではないのだが、「戦友」は欲しいと思った。
父と戦友は強い絆で結ばれていた。父が亡くなってからも戦友は遠くから訪れ供養して頂いた。
生死という究極の体験を共有した戦友の絆。
ありがたいことに、戦争を知らない子供たちからまんま大人になった私。幸福の科学の信仰に出会った事により、はからずも子供のころ夢想した「戦友」を全国各地に持てた。
特に、私にとって四国は、私の弱さゆえ、霊的戦場そのものであった。戦場で時を共にした方は、戦友となった。
今日、三十数年ぶりに再会したTさんとは、多くを語らずしてもお互いに共有している絆が確固として存在する。
ああ、法友はよきかな。戦友はよきかな。
懐かしき人とは、まさに戦友である。
父の戦友との交流をまぶしく見ていた小さな私の夢は、知らないうちに実現していた。
ただ、ささやかな夢の実現には、一つの条件があった。
それは、信仰を貫くという事である。まだ道の途上。
われ真理のために戦う! 改めて思った。
昨日の大会に参加して、まるでサンライズ’90の前夜のような胸の高鳴りを感じた。当時二十代後半。この年にしてあの時のような高揚感を味わえたこと、有難きかな。
※父(前列向かって右端)と戦友
父が昭和16年に撮影した南京中山門。この4年前に松井岩根大将が入場した。