父と娘  -2ページ目

葬儀

助っ人の母の協力のおかげで、いつもより俄かに片付いた我が家。

魂の抜けた肉体となって戻ってきた父。

リビングで白い掛け布みたいなものをかけられ、ドライアイスに挟まれ、穏やかな顔で目を閉じている。


早速葬儀社の人と、プランの相談。

結局、葬儀社の会館を使って葬儀をすることにした。

私が喪主となり、父の兄弟夫妻が全員そろい、通夜、葬儀を終えた。


めまぐるしかった。

今日が何日で何曜日なのかよくわからなかった。


通夜の日の晩は、弟と二人で会館に泊まりこんで父と一緒にいた。

私は二日間何度も何度も父の棺の顔の部分の窓を開いては、父の顔をみた。

葬儀が終わり、火葬され、”肉体”が父の姿がもう二度と見られなくなることが、寂しくてしかたなかった。


結局私は、4日で三度父を失うこととなった。

意識がなくなって一度。

心臓が止まって一度。

肉体が焼かれて一度。


いずれも全く違う形の、それぞれの悲しみを持っていた。



喪主になったことで、出棺の前、棺おけに花を一番に入れることができた。

また、火葬場ではなんと点火ボタンを押すのは喪主の役目だった。

父が焼かれる直前、一人一人が父の顔を見て最後の別れをしたのだが、その時も私はその姿を目に焼きつけつつ泣きじゃくっていたのだが、どんなに泣き叫ぼうが、点火ボタンを押したのが私となれば、もうすでに”肉体をも失ってしまった”と泣くのはなんだかしっくりこない。

その後は、なんとなくふっきれた気持ちでお骨を拾った。

理科室においてあるようながい骨姿になってでてくると思っていたら、ほとんどどこがどこなのかわからない。

火葬ってこんなになるまで焼くものだったのか・・・と、知ってる人は当然知っているようなことを我々兄弟は初めて知ったのだった。

とにかく、喪主をしてよかった。

弟に任すのはなんか頼りないということ以上に、最後の数年、一番側にいた私が父の見送り人の代表として花を供え、点火ボタンを押せたことが嬉しかった。

父との日々の集大成、というと大袈裟すぎるが、肉体的・精神的負荷が大きいほど、それを乗り越えたことへの充実感がある。こんな状況で自己満足的な発想をする自分に恥ずかしさも感じるが、私が乗り越えた山は決して低くはなかったし、悲しんでばかりいたわけではなかった。


通夜の日の晩、妹が「お父さんと話しする。」

と言って、しばらく父の棺が置いてある部屋に一人で行っていた。

妹もまた、家族に特に父に素直になれない人間だが、父が死んでようやく父と二人きりで語りかけることができるという皮肉。

気の利かない葬儀社のスタッフに、二人きりでいる時に何度も、用もないのに部屋にはいってこられたそうだが。

あの葬儀で唯一気に食わないとすれば、葬儀スタッフの人の気の利かない態度だけだ。

彼の存在のせいで、父に申し訳ないと何度も謝った。




そして心臓が止まる

まいった。

泣き虫の私。

片づけをしていて、父のケイタイを見てまた泣いた。

妹と二人で父を見守っている時妹が発見したのだが、父は7月2日の3時11分に妹にメールを送ろうと試みていた。”本文なし”で”未送信”になっていたが、送信メールボックスに残っていた。

夜中、ケイタイをながめながら実験的にさわっていたのだろうか。

私がメールの送り方を私が教えてあげても、父は使い方がよくわからず「あんた、教え方ヘタや。」と言われていたのだった。私の教授法が不満だった父は、”A(妹)に教えてもらうわ。”と言っていたし、妹もそのつもりでいた。

毎日泣き暮らしてるわけではないのだが、ふとしたことで悲しみがこみあげて、ほろりと泣くどころか大声をあげて泣いてしまう。


-7月6日-

私が病院へ戻ると、家族が横になって休めるようにと小さなベッドを部屋に入れてくれていた。

疲れきっていた弟と妹は横になっていた。

父はまだ安定しているようだったが、少し血圧が低くなっていた。13時少し前のことだった。

私は1階の受付にいる友達と少し話をした。

友人は心配そうに経過を訊ねてきたが「まだ大丈夫そうなんや。」と答えた。


病室へ戻り、お菓子をつまんでいると、看護士さんが慌てた様子で病室へ入ってきた。

ついに、心臓が弱まってきたのだ。

それまで、父を囲んでなごやかにしていた私達に緊張が走った。

モニタを確認すると、ついさっきまで安定していた心電図も少しずつ間隔が開いてきていた。

私はモニタから目を離さずに、父の側に座ってぎゅっと手を握った。


それからはあっという間だった。

今まで26時間も粘っていたのが、たった数十分であっけなく・・

あの緑の線の感覚が、みるみる開いていく。

それから医師と数人の看護婦が入ってきた。

私は大声がでそうなのを必死で堪えていた。


「今まで頑張ってこられたんだけどね・・・」と医師が小さな声で言った。

医師は、私達にその台詞を言うのが本当に心苦しそうに

「1時23分、ご臨終です。」

と更に小さな声で言った。


ついに、ついに父は本当に”死んで”しまった。

意識がなくなった時点でもう永遠に父を失っていたのだが、”肉体の死”という形で私は再び父を失った。

2回父を失ったことが、悲しみを分散させたのか、悲しみを増幅させたのか、今でもわからない。


医師、看護士はその後すぐに病室を出て行った。

家族との最後の別れの場を作ってくれたのだ。

私はしばらく泣いていた。弟と妹もやはり悲しまずにはいられなかったようだが、私ほど泣いてはいなかった。

私が泣き止むと、私はすぐに笑って話しはじめた。

「でも、今までよー頑張ったわ。ほんまに。」

私は父の手に自分の手を置き、弟と妹にも手を差し伸べるように言った。

父子4人が初めて手を握りあった。

そして、”今からお葬式やらなんやらで大変やから、あと少し頑張ろう。”と声をかけた。


落ち着いた頃、再び看護士さんたちが入ってきて、父の身体をきれいにしてくれると言う。

着せるものは病院で用意したものでいいか、と聞かれたのでお願いした。

というか、用意しておくべきだったのかな?今となってはもう遅いけど。


私にはまだやるべき大きなことが残っていた。

お葬式だ。

そこからの私は”お姉ちゃん”らしく、長子らしく、冷静に、無事お葬式を終えることに集中しようとした。

悲しむのは後でいい。


葬儀社に電話。

しばらくして、葬儀社が迎えに来た。

今まで使ったことがない、裏の方にあるエレベータで運ばれる父。

裏口に医師、師長さん、数人の看護士が見送りに来てくれていた。

私は最も御礼を伝えたかった医師に頭を下げ、

「先生に診ていただいて、本当に良かったです。ありがとうございます。」

と言った。

本当はもっともっと具体的に御礼を言いたかったが、あの状況ではそれも叶わない。

師長さんは”苦しまなかったんだからいいじゃない。”と言ってくれた。

病院の皆さんには、横柄な態度、院内喫煙をするような非常識な行動をする父に本当に親切にしてくださって本当に感謝している。


葬儀社の車に乗せられて、父は1ヶ月ぶりに自宅へ帰ってきた。

弟と母が到着

少しずつ、事務的な処理が進んできた。

今日は、生命保険のことで連絡があった。たった10日くらいで連絡するなんて、なんかえげつない感じがして気が進まなかったけど、こういうことは早めに終わらせてすっきりしたいのが私の性格だ。

証券を探し出して、受け取り人の名義が子供3人の名前に変更されているのをみて、改めて”お父さん、ありがとう”って心から思った。危なくまた泣いてしまうところだった。


-7月6日-

一晩寝ずに見守っていたが、父の状態は安定していた。

しかし、開いたり閉じたりしていた目が、開きっぱなしになってしまっていた。

目が開いていると、どうしても意識があるように思ってしまう。まぶたを閉じようとしても出来ずにまた開いてしまう。

しばらくして看護士さんが

「ずっと開いてたら失明してしまうから。」

と、濡れたガーゼで目を覆ってくれた。


朝方、私はもう一度仮眠をとろうと試みたが、1時間弱横たわっただけで眠ることができなかった。


弟は、大阪に住む母を途中で拾ってこちらへくるという段取りになっていた。

10時くらいには着きそうだということ。

神奈川から車でぶっ飛ばして帰ってきていた。


私と妹は、弟の到着を待ちわびながら、父の容態が安定しているので、順番に一度家へ帰って、シャワーを浴びたり服を着替えたりしようと決めた。


10時少し前についに弟と母が到着。

弟も夜通しの運転で疲れきっていた。

母は久しぶりの父との対面。

父は母が来てどう思っただろう・・・

「会いたくない」と以前言っていたので、いい気がしなかったかもしれないな。


そしてすぐ、計画通りに私達は順番に家へ帰ることにした。

第一便で、弟の車で私以外が帰宅。

弟と妹は病院へトンボ帰りし、母は自宅待機で、家で行うかもしれない葬儀のために家の掃除。

第二便は、私のみ帰宅。

弟と妹は1時間もしたら戻ってきてくれた。

私もいつ来るともわからないその時のために慌てて一時帰宅した。

血圧は安定していた。

そして、開いたままだった目がいつのまにか閉じることができるようになっていたのだった。

父と私と妹の長い夜

会ったこともない親戚からお香典が届く。

想像もしていなかった”お悔やみ”の効力。

昔から続いているらしいこのやりとりの真意がわからない。


-7月5日夜-

いつまで父の心臓が動いているかわからない。

私達の長い夜。


父は40度の高熱が出ていた。

両脇にでっかいアイスノンを挟まれる。

胸に張っている心電図用のシール?が剥がれるほどのすごい汗。

その汗を拭いながら、それでも冷たい父の手を握った。


そして、喉の奥で何かがたまっているごぼごぼという音が聞こえてくる。

深夜看護士さんを度も呼びつけて申し訳ないと思うほど、30分に一度は吸引をしてもらった。


まだ妹は仮眠をとっていたので、私と父の二人きり。

21時に消灯した病棟は静かで、父が呼吸器に助けられて苦しそうに呼吸する音が際立つようだった。

途中、小さな声で山口百恵の歌を何曲か歌ってあげた。

かつて父が、しつこいくらいに聞いていたから。

歌うのを止めると、また涙がでてくる。

どっから湧いてきた言葉かわからないけど言わずにはいられずに

「ごめんね。ありがとう。」と伝えた。


ただ座って横にいるだけの作業は、父との最後の時間を惜しむようにゆっくりと流れているようで、様々な感情が溢れすぎてまとまらなくて、結局あっという間に時間が過ぎた。


そしてこれは、自分でも驚くべき感情だったのだが、私は物心ついて初めて、父に甘えたいと思ったのだ。父がこんな状態であるにもかかわらず、だ。

それは、幼い子が親に頭をなでて欲しいと渇望する感情と同じだったと思う。

あれだけ嫌っていた父に対して、未だにこんな感情が芽生えるほどの何かがあったのかと驚いた。


22時頃妹が起きてきた。

二人で父を囲み、小さい頃の話しをした。

話題はもっぱら父の傍若無人な態度への批判に集中。

私は妹に、以前この日記にも書いたエビの天ぷら事件のことを話した。妹は言われて思い出したようで、私達はほとんど笑い話にして楽しくもりあがった。

私達は疲れきっていたが、悲壮感や絶望感はなかった。

悲しいけれど、父の心臓が止まるその瞬間まで見守ろうという気持ちで結ばれていた。

妹も当然父を嫌っていた。一番かわいがられ、一番痛めつけられた。

そんなこともあり、もっと冷たい態度に出るかもしれないとも思っていたが、私が何度ももう一度仮眠をとるように勧めても妹はもう絶対に寝ようとはしなかった。

私は1時から3時くらいまで仮眠をとった。


そういえば、叔父が父に対して

「もっと惨めな死に方をしてもおかしくなかった。」

と言っていた。

本当にその通りだ。

遠くにいる親戚で、交流もほとんどなかったが、父の愚かさや情けなさなどはそれなりにわかってくれていたようだ。


私と妹は、疲れきった顔で、笑顔でお父さんの悪口を言いながら朝を迎えた。

急変から20時間近く経っていた。

夜の間父の容態はずっと安定していた上に、朝方になると身体が動くこともなくなり、喉の奥に何かが溜まる事もなくなった。ただ、足は血がいきわたらなくなったのか、少しずつ紫色になってきていたが・・・

弟も間に合いそうだという確信がわいてきた。

夜が来る前

昨日妹が帰って、ついにこの家に一人ぼっちになってしまった。

父が長期入院していたので、今まで何度も経験した状況なのだが、やはりちょっと違う。

今日は二廻り。

今、渦巻きお線香を灯している。

本人もびっくりの急変だったはずだから、しっかりお祈りしてあげないと。



-7月5日 16:00頃-

看護士さんが病室へ来て、父のおむつを替えてくれた。

しばらくすると、叔父が来た。

父の状態、急変した状況などを説明し、私と叔父は病室の外で今後の話をした。

いくら意識がないとはいえ、父の横で葬儀の話しをするのは忍びなかったから。

私には常に冷静な判断が必要だった。

”葬儀は家族だけで行う。”という意思を示すと、”kちゃんが決めたらいい。”と言われた。

また、以前から確認しようと思っていた、”葬儀の際に母が出席してもいいか。”聞いた。

「ぜひ来て欲しい。」と言ってくれたので、後ですぐに母に伝えた。


病室に戻ると叔父は、私と妹に少し外で休んでくるといいと言ってくれたので、二人で病院の屋上に行った。

屋上に行っても、二人とも落ち着かない気分だったが、叔父と父の二人きりの時間も必要だと思い、少しのんびりさせてもらった。

その後叔父は、20時くらいにもう一度来ると言って、予約していたホテルへ一旦向かった。


父は相変わらず目を開けたり閉じたりで、だんだん身体がびくっと動く回数が増えてきた。

また、喉の奥に痰かなにかがたまりやすくなってきて、人工呼吸器の管を通って口に、更に鼻の中に細いチューブを入れられて、痰を吸い上げてもらうという作業が必要だった。

痰がたまってくると、喉の奥がゴボゴボとなっているようで、見守るのもつらい父の状態を一層つらくさせるものだった。


疲れきっていた妹は、私達家族が休んでもいいと許可された隣の空き部屋で、19時くらいから仮眠をとった。


昼から何度も何度も弟に電話をかけたのに、連絡がとれないのがずっと気になっていた。

父危篤の知らせは妹に頼み、会社にかけて弟も了解しているはずなのに、メールをしても返事はないし・・・

家はもう出たのだろうか、途中で何かあったのだろうかと散々心配した結果、妹の話が上手く伝わっていなくて、”危篤”状態だとは認識していなかったらしい。だから、あろうことか終業まできっちり仕事をこなしていた。

妹も気が動転していたのだろう、上手く伝えられなかったのだ。

また、これは後からわかったのだが、私が以前から、”お父さんは、モルヒネの作用でだんだん意識がなくなってきて、だんだん死んでいくと思う。”と二人に連絡していたのが仇になり、今回の”意識がない”といのもその流れの一環だと思ってしまっていたらしい。

私の偏った連絡が、二人に誤った思い込みをさせてしまった。

とりあえず、仕事が終わった弟は、全速力で神奈川から車をとばして帰ってくることになった。

喪服やらなにやらを忘れるな!と言って、父の心臓が動いている間に無事に着くことを祈った。


19時くらいに、病院の事務で働いている私の友人が、泊り込みでお腹がすくだろうと、おにぎりやパンを差し入れてくれた。

その心遣いと、優しくされて心細さが現れて、「ありがとう」が涙で上手に言えなかった。


20時になり、叔父が再び来てくれた。

明日、用事があるので、明日の朝には発たないといけないが、何かあったらすぐに連絡して欲しいということだった。

叔父は、父の次兄に連絡をしてくれた。

私は、父の妹に連絡をした。

祖母は、白内障の入院で連絡がとれなかった。


父をとりまく皆が、父の最期の時を待つこととなった。