9月8日(日)のさわやかウォーキングに参加したことを記事にします。7-8月の間はさわやかウォーキングが開催されていないこともありますが、このところの出不精にサボり癖が重なって、ウォーキングのイベントに参加したのは6月1日(土)の浜松市内でのさわやかウォーキング以来3ヶ月ぶりとなってしまいました。それこそ、退職をしてから「歩くことに目覚めた」友人にいざなわれての参加でした。
今回のウォーキングは天浜線気賀(きが)駅がスタート。私は遠鉄線助信(すけのぶ)駅付近の住民、そして上述した友人は焼津市民で、JR掛川駅から天浜線経由で西鹿島駅で合流→気賀駅到着の予定でした。しかしながら、乗換案内アプリで調べてみると、遠鉄助信駅からJR浜松駅まで出てから遠鉄バスで気賀駅前まで乗るのが早くて安いことが発覚。…ということで、私は気賀駅までバスで向かい、気賀駅前で焼津の友人が到着するのを待つことになりました。…って、上の画、またしてもうっかりショット、レンズの蓋(シャッター)が完全に開かない状態での撮影。毎度毎度気をつけないとだけれど…んもぅ、デジカメ買い替えようかしら。
気賀駅の前ではいつものオレンジのジャージのお兄さん・お姉さんに加え、天浜線の駅長さんか車掌さん、関連会社の社員さんら大勢の方が出迎えてくださり、なかなかの人混みでした。
9月上旬にして、真夏並みのカンカン照り!。台風15号の影響を気にしていたので、予想以上に天候に恵まれ過ぎました(^_^;)。
焼津の相方と合流し、さて、スタートです!。
↑↑↑↑↑コース図はこんな感じ。天浜線気賀駅(=スタート)→細江神社→浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館→井伊共保出生の井戸→龍潭寺→井伊谷宮→井伊谷城跡(城山公園)→実相寺→天浜線金指駅(=ゴール)。コース距離=約8km、所要時間=約2時間、コース題目は「~城跡コース~国指定名勝、龍潭寺庭園と井伊谷の地めぐり」です。JR東海と天竜浜名湖鉄道とが共催のイベントですが、マップが天浜線の作成であるため、天浜線の方が主体でした。
気賀駅を出て約10分、400mほどで細江神社に着きました。
姫街道は国道362号線沿い、何度も車で通りすぎたことのあるところですが、参拝するのは初めてでした。
参道があり、立派な鳥居もあって、境内も奥行きが広い!。今まで気づかなかったのが失礼なくらいでした。
ここの御神木がスゴい!。上の画だと1本の樹のようですが、2本の巨木が根元からくっついたようにそそり立っています。「夫婦楠」といって幼木の時代から2つの幹が寄り添うように成長し、約500年の間、細江の町を見守ってきたのです。
拝殿の前にて。今年(2019)はどこの神社に行っても「令和」を祝う旗が掲げられています、当たり前のことですが。細江神社の由緒は…、
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ご祭神は素盞嗚尊(スサノオノミコト)、奇稲田姫尊(クシナダヒメノミコト)。嘉祥3年(850)に浜名郡新居町(現:湖西市)に鎮座、浜名湖入口の守護神として厚く信仰されていたが、明応7年(1498)8月15日の大地震で、大津波により神殿・建築物がことごとく流没。奇跡的にご神体は伊目(都田川河口の南側の地区)に漂着し、里人に祀られた。その12年後に再び地震による大津波により、ご神体が気賀の赤池に漂着。現今の地に社殿を建てて、以来気賀の総鎮守として崇められるようになる。
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…云々。度々の大津波に襲われても、安全な地に漂着し、地震に負けない尊い神様なのです。
御朱印をいただくために社務所の前で待ちぼうけしたのだけれど、なるほど「地震災難消除」のお守りやお札がたくさん売られていたわけです。
次に、細江神社の境内のすぐ隣にある「浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」に立ち寄りました。
ウォーキングのイベント参加などで、こういった歴史資料館を何度か訪れることはありましたが、これだけ長い名称の施設に入るのは初めてです。
こちらが「浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」のパンフレットです。銅鐸がメイン展示品であるのはあからさまです。気賀は中世の頃から港町でした。獲った魚を入れる魚籠(びく)など、漁師が使用する道具などが数多く展示されていました。
でっかい銅鐸がお寺の鐘のように吊り下げられていて、実際叩いて鳴らすことができました、カーーン!。隣に映るほぼ等身大の人体像と比べると、いかにこの銅鐸が大きいのかがわかるでしょう。
2階の展示室の真ん中にドッカと横たわる銅鐸がこの資料館のメイン展示品のようでした。この気賀の地がある都田川流域は全国有数の銅鐸出土地であることを初めて知りました。
長さ1mくらいはある巨大な青銅鐸で、この地域にある「滝峯才四郎谷遺跡(たきみねさいしろうやいせき)」で1990年に発掘されたものです。気賀の地が安土桃山時代に港町でにぎわう、はるか前の弥生時代から村を治める豪族が生活していた証なのです。
資料館を出て、龍譚寺界隈に向かうまでしばらくの間は、井伊谷川右岸沿いをひたすら歩きました。一旦は国道362号に出て清水橋にて姫街道とお別れ、県道320号線(引佐舘山寺線)を上流方向へ進みました。途中、引佐町の標識がありました。そう、浜松市北区はかつての引佐郡(いなさぐん)=引佐町・細江町・三ヶ日町にあたり、浜松市内では天竜区の次に面積が広いのです。市域面積の上だけでは「ビッグな浜松!」、広くなりすぎなんだよ!。
上の画は、その細江町と引佐町との境にある観光用の看板です。つまり、龍譚寺などがある井伊谷の里は旧:引佐町にあるわけです。ここまでの道中、公園やコンビニなどこれといった休憩スポットがなく、たまたま路側帯が広くなっているこの看板の近くで大勢のウォーキング参加者が腰をおろして休まれていました。
「浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」を出て約2.6km、40分ほど歩き、ようやく井伊共保出生の井戸に着きました。
徳川四天王=井伊家はじまりの地です。かの井伊直弼もこの地を訪れ、歌を詠まれました。
『わきいづる 岩井の水の そこ清み
くもりなき世の 影ぞ見えつつ』
自らが桜田門で斬られるのを予見していたのでしょうか…、独裁者といわれつつも不穏な当時の政治を嘆いていたように感じます。
一昨年(2017)の大河ドラマ「おんな城主 直虎」が放映されていた頃と比べると、野草がそこらに生えたままだったり、井戸の水が少し濁っていたり…、「にわか景気」だったことを否めません。
井伊共保出生の井戸から200mほどで龍譚寺に着きました。最寄りの鉄道駅が天浜線の気賀駅ですが、3.3kmも離れているのです。なので、大概の参拝客は気賀駅からバスかタクシーを利用されます。
2017年9月以来、ほぼ2年ぶりの参拝になりました。
そんなわけで、今回の記事では龍譚寺と井伊谷宮についてはザックリ書いていくことにします。
庫裡が拝観の入口になっています。1815年の建造物で、県指定文化財です。だいぶん画が斜めってしまった…(;´∀`)。
本堂にあるでっかい仏像、釈迦牟尼仏で遠州最大の大仏です。所どころに見られる傷跡は明治時代の仏教排斥運動によるものです。
本堂の前に広がる庭園=補陀落(ふだらく)の庭、白砂が浜名湖の形を表現しています。…それにしてもカラッカラの秋空の下、緑と白が眩しい!。
うぐいす張りの廊下の角にある一刀彫りの龍、左甚五郎の作と伝えられています。龍は水神様をあらわすここ井の国(水の国)の守り神、ふと大河ドラマ「おんな城主 直虎」で井戸を囲んで「竜神様が…」と主要キャストが語らい合っていたワンシーンがよみがえりました。
本堂の隣りにある稲荷堂、夢が叶うといわれる「正夢稲荷」です。もしも一億円が当たる夢をみたら真っ先に参拝させていただきます。
そして、いちばんのお目当て、小堀遠州作の庭園です。守護石、仁王石、礼拝石などを位置し、禅の境地で仏様の世界を拝むといったふうです。
庭についての案内放送は1話5分ほどで、観ていて心が落ち着くのはもちろんだけど、どっぷりウォーキングの疲れを癒す場になっていました。
書院から庭園を撮った画。遠近感が強調されて先ほどと違う世界観です。西方浄土のご先祖様にご挨拶、といったていです。なお、書院の手前の廊下に寺の収蔵品の多くを特別展示してくれていました。撮影禁止でしたが、国指定重要文化財の「宋版錦繍萬花谷(そうはんきんしゅうばんかこく)」など、井伊家ゆかりの菩提寺として拝領の品々はまばゆいものでした。
井伊家の墓所の画。正面の左が直盛公、右が共保公の墓です。直虎の墓は左側の列の奥から2つめ、その手前が直親の墓で、生涯直虎が胸に秘めた実らぬ恋がここでは結ばれているのです。
龍潭寺の境内のすぐ隣が井伊谷宮です。後醍醐天皇の第4皇子・宗良親王(むねながしんのう)を祀る神社です。
宗良親王は和歌に秀でて長寿だったことから「学徳成就」「除災開運」に特にご利益が高いといわれています。
このウォーキングで細江神社、龍潭寺、この井伊谷宮で御朱印をいただきました。このところの「御朱印ブーム」があって、どこの寺社でも受付をしてから御朱印をいただくまでに順番待ちでした。
天皇系の神社ということもあって、伊勢神宮や熱田神宮に似たような造形です。後ずさりしながら何度もお辞儀をしました。
井伊谷宮を出て北方を眺める画。左側に写る山が井伊谷城跡の城山で、すなわち登山になります。
神宮寺橋にて井伊谷川の支流の神宮寺川を渡る画。少し大きめの羊雲が流れる秋空の下の川のせせらぎ、…あたかも涼しげに写していますが身体はカンカン照りでした。
この時点で11:25くらい、少し早めの昼食をとることにしました。ちょうどいい具合にお蕎麦屋さんが!。
「そば処和(かず)」、地元の人気店のようでした。なじみ客よりもウォーキング参加者が多く入店していたようで、運良く満席になる手前で着席することができました。
ジャーン!!、冷やしおろし天蕎麦。冷たい蕎麦は喉ごしが良くツルツルといただけました、ありがたや。このお店がコース折り返し地点手前で、滋養で体力回復といったところです。
井伊谷宮を出てから約1.2km,、城山公園の入口に着きました。この先、想像を超えるハードな山道が待ち構えていたのです。
画では伝わりにくいのですが、急勾配の坂道を歩くハメになり、登り始めてからわずか100mくらいで早くも「足にキマシタ」。
ホント、怠けていた体にはかなりキツかったです。それでも階段や舗装で整備されているのがありがたかったです。
城跡に着くまでにはベンチのある休憩処が2ヶ所ありました。もう、皆さん、這う這うの体です。
もはや「ウォーキング」ではなく「クライミング」でした。この画で城跡まで150mくらい、あともう少し、頑張れ!。
ふっっっ、約16分ほど山登りして井伊谷城跡に着きました。昔の人の足腰の強さにはただただ尊敬するばかりです。
井伊谷城(いいのやじょう)は井伊家発祥の城です。徳川四天王のひとりである井伊直政の父=井伊直親らが城主をつとめました。直親が今川氏真に殺されたのちは、直虎が井伊氏の当主となり城を治めたことは大河ドラマで視たとおりです。
本丸のあった広場のすぐ上が城山の頂上で、三角点の石杭がありました。だいぶ登ったつもりだけれど、これで標高114.9mなのです。
井伊谷城跡からのパノラマの画。正面に三方原台地が広がります。
パノラマを拡大して撮影した画。中央に写る杭のように出っ張った建物がJR浜松駅近くにあるアクトタワー(浜松市でいちばん背の高い建物)です。
龍潭寺や井伊谷宮がある井伊の谷筋から気賀の街を望む画。少しだけ奥浜名湖が見えました。直虎も同じ角度で井伊の里を見守ったのでしょう。
城山を下りて遠州信用金庫の広告がある電信柱を写した画。下りは10分ほどで済みましたが、またしても足に堪えました。ふだんは10kmくらい歩くのは平気だったのだけれど、このところの運動不足の怠けっぷりを思い知らされました。
この時点で持参していたペットボトルのお茶がなくなってしまい、喉カラカラの状態に陥りました。しばらく歩いて国道257号線に出て「井伊谷上」交差点近くで見かけた自動販売機にまっしぐらでした。
少し国道257号線を南下し「井伊谷」交差点にて東へ左折、スズキ精密工場沿いの道を進み井伊谷川を渡り、エヌイー引佐工場のある角で南へ右折、しばらくして再び山道に入り、実相寺のある台地を目指しました。ここでの坂道も自動車が通る一般道とはいえ勾配があり、このウォーキングコースにして最後の難関でした。…これといった画がなくて文字が続いてしまいましたね。
こちらのパンフレットは引佐・細江・三ヶ日の甘味処を網羅した「奥浜名湖スイーツ特集」で気賀名物の「みそまん」をはじめ和洋のお菓子がてんこもりに載っていて、まさに「きゃあ」です。問い合わせ先の奥浜名湖商工会のリンクはこちらです→奥浜名湖商工会。
さっき自戒で決意表明っぽいことを書いておきながら、やっぱり誘惑にまどろむ軟弱オッサンなのでした…、以上、記事終わり。