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 次なる粘りの矛先は、「分析やり直し」である。
 修論研究では、SPSSとAMOSというツールによる共分散構造分析を行った。さんざんっぱら苦労して、仮説検証に相応しい、かつ適合度のよいモデルを見つけて結果を導きだしたのだが、実はこの分析方法は、最新鋭だったわけではない。私のモデルでは、マルチレベル分析を使うのが主流になりつつあるのだ。でも「修論なんで、ま、とりあえずこの分析方法でいいでしょ」と言われていた。
 逆に言えば、投稿論文では、マルチレベル分析しましょうね、ということである。というわけで、HADという新たなツールを使ってイチから分析やり直しというシビれるプロセスに踏み出した。

 詳細は割愛するが、このプロセスでも、B先生はスゴかった。適合度の改善や、統制変数の使い方など、例によって「ま、この程度でいっか」と妥協したくなるこちらの気持ちをことごとく覆し、より適切な結果の追究に、しつこいくらい余念がない。ようやく確定した結果に対する解釈も、あちこちの角度から検証してみて、論理的破綻がないかをしつこくチェックする。

 ねばねばねばねば。ぐるぐるぐる。

 このプロセスの中で、自分が「わからない」まま「わかったふり」をしていたことが、わかった。
 修論を書き終わったあと、心からの爽快感が味わえなかった一因に、なんとなく、なんかちゃんとわかってない気がする、という思いがあった。何がわかってないのかもわからないが、根本的なところが腑に落ちないまま、とりあえずうのみにしてる感じ。高校の物理の授業で、原理はともかく公式だけ丸暗記して、とにかく正解を導き出すのが得意だった。あのときの「うのみ」感に通ずるものがある。お勉強ができる子の、悪いクセである。
 「祭りの後」になって、先行研究をもう一度あれこれひっくり返してみて、ようやく「あ、そういうことか」という納得感を(少しだけ)得ることができた。
 その観点で言えば、粘った甲斐があったとも言える。やり直してよかった。

 ちなみに、卒業後の無料個別ゼミの恩恵を受けている私ともう二人の仲間は、B先生のことを「神様」と呼んでいる。ちなみにそのうちの一人は、修論のラストスパートで私を救ってくれたA君である(なので、私はひそかに「ガブリエル様」と呼んでいる)。みんなそれぞれ「神様」から「え、さらにそこまでやるんですか」的な粘りの作業を言い渡され、データ結果についてEnlighteningなアドバイスをいただき、ひたすら高みを目指している。
 それぞれ個別ゼミを受けた日は、「今日、神様の啓示がありました」とLINEで報告しあう。「神様、有難い」「頭の回転がハンパない」「モチベーション上がりっぱなし」と、神様賛美は止まるところを知らない。

 やっぱり学者は、あのくらいの粘りがないと、一つ道を究められないんだろうな、「ま、いっか」っていう効率(=手抜き)スキルばかり発達させちゃったビジネスパーソンとはちがうよな、と思いかけて、そうでもないことに気づく。
 私が尊敬している何人かのビジネスパーソンは、やっぱりハンパない粘りの持ち主である。もうこれ以上ムリです~、と音を上げる部下に対して、「あと1回やってみろ」とハッパをかける。失敗しても、何度も何度もしつこく繰り返す。夜も寝ないで課題解決策を捻りだす。常にさらなる高みを目指してたゆまぬ努力を続ける。
 アカデミアの世界も、ビジネスの世界も、同じなんだ。優秀な人は、粘り強い。


 なぜあんなに粘れるんだろう。
 その理由は、それが「好き」だから。

 

 B先生は研究が心底好きで、あのビジネスパーソンはあのビジネスを愛しているのだ。以前、「三度のメシより仕事が好き」と言い切った起業家を前に、心の中で「あり得ない」と悪態ついたことがある。あの頃、私は自分の仕事が、あんまり好きじゃなかったのだ。好きでなければ、粘り強く取り組むことも、しつこく繰り返すことも、苦痛でしかない。
 そんな私が、このたびの分析やり直しプロセスの中では、夜寝ようとして、ふとアイデアを思いついて、やおらPCを立ち上げ直して分析ソフトを走らせた。初見の論文にすごく面白い結果が出ていて、うわ、お宝♡と小躍りしてしまった。
 B先生の足元にはとても及ばないけれど(何しろ相手は神様だ)、また、研究プロセス全部丸ごとじゃないけれど、私も私なりに研究プロセスの中で「好き」と思えるものがある。


 好きなことを「仕事」にする。 仕事の中に「好き」を見つける。

 好きなことなら、粘れる。 粘り強くやれば、成功する。

 

 粘り強さを発揮し、自らを成功へと導く鍵が、ここにあることを改めて確認したのは、修論の貴重な副産物だ。