若緑だった桜の葉の緑が、日々濃くなっていく季節である。葉が生い茂って暗いほどの並木道を通る時、ちょっと恐いような、わくわくするような気持ちがする。それは緑のせいというより、子ども時代の記憶から来ている。

 アメリカシロヒトリの毛虫。昔、この季節になると、庭の桜の木に大量発生した。それをバケツに拾って、水を入れて、「ケムシシチュー」(映像を想像しないでください)を作るのが、幼稚園から帰った後の私のお気に入りの遊びだった。いつも一緒だったエミちゃんやサトコちゃんは、なぜかそこにおらず(きっと嫌がったんだろう)、一人だけで採集と調理に専念していた。

 何度か、出来立てのシチューを「ほら」と兄に差し出したことがある。そのときの彼の表情は全く憶えていない。今でも彼は、「こいつ、嬉しそうにバケツ一杯のケムシをぐーるぐる掻き回してたんだぜぇ」と、妻や息子たちに語っている。

 

 なんであんなオゾましい行為をしていたのか。私は単に、何かをコツコツと続けること(枝のお箸で地道にケムシを拾うとか)、そして集団で何かするより、一人で好き勝手に振る舞うことが好きだったのだ。

 三つ子の魂百まで。今でも、コツコツと心理学の論文を読んで理論を整理するのが好きだし、チームを率いて大きなことを成し遂げるより、一人で自分の好きなことを自由にやるほうが好きだ。50歳になる前に会社員を辞めたことは、正解だったと思っている。

 

 最近、多くの企業のHPに「パーパス(企業の根源的な存在意義、存在理由)」が掲げられ、さらに「マイ・パーパス(自分が働く意味、在りたい姿、存在価値)」を考える社員研修が増えてる。私自身、若手~中堅社員のキャリアデザイン研修はもちろん、管理職や役員にもマイ・パーパスを考えてもらう研修を実施している。

 「〇〇開発の第一人者になる」とか「◇◇によって世の中を変える」とか、大きなビジョンを描かなきゃ、という思い込みに囚われている人も少なくない。もちろん、文字通り「大志」と言えるようなパーパスは素晴らしいが、マイ・パーパスはそれに限らない。

 

 コーチングの勉強を始めたとき、講義の最初に「人生の目的は何ですか?」という質問に順番に応えた。「たくさんの人を助けるコーチとして活躍する」「沖縄に移住してサーフショップを経営する」「家族と毎年海外旅行行くためにガンガン稼ぐ」といった「Doing」に関わる発言が相次ぐ中、私一人が「毎日を機嫌よく過ごす」という誠にささやかな「Being」の答えしか思い浮かばなかった。

 今の自分を考えると、たしかにそれが起点になっているかもしれない。

 ・機嫌よく過ごすためには、他人に縛られず自由でいられる状態が不可欠なので、独立。

 ・好きでないことをやると機嫌が悪くなるので、仕事の選択は「好き嫌い」が重要な判断軸。

 ・好きなのは整理整頓。整理してすっきりすると自分の機嫌がよくなる。

 ・すっきりさせる対象は、引き出しやPC内のフォルダーから、コーチングによる他人の頭(思考)や心(感情)まで、何でもあり。「すっきりした」と言われると、すごく嬉しい。

 

 大切にしたいことは、人それぞれである。たとえば;

 「自分が面白がる」

 「美しいものと共に居る」

 「家族を幸せにする」

 そして、そういう状態でいられるためには何をするか、を色々考え、さらにそれを抽象化していくと、だんだん「マイ・パーパス」が形になってくる。

 

(アメリカシロヒトリの画像はエグいので、整理整頓された引き出しをUPしました)

  「要らない枕詞」のブログに、Facebook上でたくさんコメントをいただいた。同意はもちろん、別の視点からのコメントも多々あり、大変勉強になりました。ありがとうございました。50代以上からのコメントが多いなぁ、と思いかけて、改めて自分のFB友達のデモグラフィーの偏りに気づいた。

 その同世代の皆様ならご存じと思うが、その昔、ガロの「学生街の喫茶店」という歌が流行った。

 ♪あの頃は 愛だとは 知らないで サヨナラも言わないで別れたよ♪

 「サヨナラ」「コンニチハ」といった挨拶は、他者に対するリスペクトを示す典型的行動である。挨拶できない人は、社会人として失格ですっ、とよく言われる。
 でも、ガロの視点で考えると、私があなたに挨拶しなかったのは、「『私があなたに挨拶しなくてもあなたを十分リスペクトしている(というか、愛してる)』ということをあなたは理解している」と私が(無意識のうちに)思っていたから。
 つまり、わざわざリスペクトの証を示さなくても大丈夫なほど、お互い信頼し合っていた、ということだ。

 こう考えると、「意味のない枕詞」が世の中に反乱する理由も、なんとなくわかる気がする。2つのことが推測される。
 第一に、ネット上で自分の考えを発信したり他の人たちとコミュニケーションする機会が増え、信頼関係のない人たちと接触せざるを得ないため、とりあえず「リスペクト」を示しておかなきゃ、という思考が発達する傾向。ネット上で他者の「リスペクト言葉」を聞く機会も多いので、増長効果が加速化していく。「します」「いたします」「させていただきます」「させていただきたいと思います」…。それが、仕事やプライベートの場面にもはびこり、条件反射的に口をついて出るようになり、「要らない枕詞」と化す。

 第二に、相手との距離感がうまく測れず、どの程度の信頼関係があるかの判断力が鈍っている可能性が挙げられる。
 コロナの影響で人との接触機会が減った分、測定材料が少なくて判断しづらい状況がここ数年続いた。しかも、第一の傾向のおかげで、多くの人が非常に礼儀正しく愛想がよくてホンネが見えないから、その意味でも判断が難しくなる。
 逆に、長ったらしい枕詞どころか「了解」を「り」で済ませる(…と、年上の方にFBで教わった)のは、相手と信頼関係があると確信できている証拠だろう。あるいは、「り」を使うことが、「ボクたち、親しい間柄だよね」という暗黙のメッセージになっているのかもしれない。

 「貴重なご意見ありがとうございます」とか「カイギを始めさせていただきたいと思います」的な言葉遣いのTPOはよく考えてほしい、と書いた。
 別の角度から言うと、そういう枕詞が要らないくらい、お互いに信頼しあえる関係性を作り、ストレートに意見をぶつけ合っても「人格攻撃」と思われないオープンな環境を作ることが、より効率的で生産的な議論を可能にし、組織の力を高めていくことにつながると思う。

 それが「心理的安全性」のある職場環境である。

 でも、「信頼」のモノサシは人それぞれで、いつ、どの枕詞を要らないものにするかは、人によって異なる。
 ガロの恋人が、「サヨナラ」も言わずに去ってゆく後ろ姿を見送りながら、「彼は私を信頼して、気を許している証拠なんだわ」と前向きに捉えてくれるとは限らない。1度でいいから、「キミを愛しているよ」と言葉にしたほうが、確実に恋人に安心感を与えられる。
 ビジネスの世界でも、リーダーが「キミたちを信頼しているよ」「だから要らない枕詞の応酬に時間をかけず、ホンネをぶつけ合おう」と心から伝えることが、大切だと思う。

 取引先の方とのメールのやりとり。イミ不明状態に陥りかけたので、こちらの意図はこうなので、可能であればそちらにはこうしてほしい、とちょっと丁寧なメッセージを送った。少しして電話が入ったので、あの件だな、と思ったが、他の仕事をしていて出られず、30分後にコールバックした。

 「先ほどは電話に出られず、失礼しました」

 「いえ、折り返しありがとうございます」

 この後の相手の言葉に、目が点になった。

 「今、お時間よろしいでしょうか?

 …。ですからぁ、さっきはお時間よろしくなかったから応答せず、今はお時間よろしくなったので電話したんですけどぉ。そう屁理屈コネても時間の無駄なので、シンプルに「はい」というと、「どうもありがとうございます」 このやりとりでタイムロス6秒

 

 突然かかってくる不動産の売り込み電話で「今、お時間よろしいでしょうか?」と訊かれるなら、わかる。ずっとメールをやりとりしていて、電話で話さなきゃいけない状態になったから、電話してるんだよね。

 この質問をするTPOを完全に誤っている。っていうか、質問の意味を理解していない。電話かけたときの「枕詞」と勘違いしているのか。っつーか、電話かけたの、私のほうなんですけど!?

 

 似たようなケースに、会議時に相手の意見に対してコメントや質問をする前の「貴重なご意見ありがとうございました」という「枕詞」がある。特に、反対意見や手厳しい質問をする際は、いきなり直球を投げるよりも、まずやんわりと枕詞を入れましょう、とコミュニケーション研修で伝えている。

 「特に若手メンバーや部下には、意見を述べてくれたこと自体に感謝しましょう。シニアの前で意見を言う勇気をふり絞ってくれたのですから」

 つい先日、学会の勉強会のQ&Aセッションでも頻発したが、相手は見ず知らずの教授だし、週末に時間を使ってくださっていることへの感謝やリスペクトの言葉は、自ずと口をつく。

 が、しかし、既に付き合いがあり、しかも上下関係のないフラットなメンバー同士のブレストなどで、「ありがとうございました」の応酬は時間の無駄ではないか。しかも、本当に有難い意見が出されたときの「ありがとう」と見分けがつかなくなり、かえって妙な忖度にさらに無駄な時間を使うことになりかねないのではないか。

 

 他者に対するリスペクトは、とても大切である。だが、世の中が人に優しくなりすぎて、相手を傷つけないよう、阻喪のないよう、言葉尻を捉えられて攻撃されることのないよう、意味のない「枕詞」が反乱しているように見える。

 辞書を引くと、「枕詞」は「ある種の情緒的な色彩を添えたり、句調を整えたりする」ために用いられるという。

 リスペクトと情緒は、異なる。相手を本当にリスペクトするなら、こちらからかけた電話に「お時間よろしいでしょうか?」と訊くより、明快なメールを書くよう配慮することに時間を使ってほしい。

 

 「枕詞」ではないが、最近よく聞く「それではカイギをハジめさせていただきたいというふうにオモいます」といった長ったらしい発言。「句調」を整えるどころか、字余りもいいとこ。「ではカイギをハジめます」で十分じゃないですか? 31字を11字に縮めたほうが、すっきりしませんか?