「要らない枕詞」のブログに、Facebook上でたくさんコメントをいただいた。同意はもちろん、別の視点からのコメントも多々あり、大変勉強になりました。ありがとうございました。50代以上からのコメントが多いなぁ、と思いかけて、改めて自分のFB友達のデモグラフィーの偏りに気づいた。

 その同世代の皆様ならご存じと思うが、その昔、ガロの「学生街の喫茶店」という歌が流行った。

 ♪あの頃は 愛だとは 知らないで サヨナラも言わないで別れたよ♪

 「サヨナラ」「コンニチハ」といった挨拶は、他者に対するリスペクトを示す典型的行動である。挨拶できない人は、社会人として失格ですっ、とよく言われる。
 でも、ガロの視点で考えると、私があなたに挨拶しなかったのは、「『私があなたに挨拶しなくてもあなたを十分リスペクトしている(というか、愛してる)』ということをあなたは理解している」と私が(無意識のうちに)思っていたから。
 つまり、わざわざリスペクトの証を示さなくても大丈夫なほど、お互い信頼し合っていた、ということだ。

 こう考えると、「意味のない枕詞」が世の中に反乱する理由も、なんとなくわかる気がする。2つのことが推測される。
 第一に、ネット上で自分の考えを発信したり他の人たちとコミュニケーションする機会が増え、信頼関係のない人たちと接触せざるを得ないため、とりあえず「リスペクト」を示しておかなきゃ、という思考が発達する傾向。ネット上で他者の「リスペクト言葉」を聞く機会も多いので、増長効果が加速化していく。「します」「いたします」「させていただきます」「させていただきたいと思います」…。それが、仕事やプライベートの場面にもはびこり、条件反射的に口をついて出るようになり、「要らない枕詞」と化す。

 第二に、相手との距離感がうまく測れず、どの程度の信頼関係があるかの判断力が鈍っている可能性が挙げられる。
 コロナの影響で人との接触機会が減った分、測定材料が少なくて判断しづらい状況がここ数年続いた。しかも、第一の傾向のおかげで、多くの人が非常に礼儀正しく愛想がよくてホンネが見えないから、その意味でも判断が難しくなる。
 逆に、長ったらしい枕詞どころか「了解」を「り」で済ませる(…と、年上の方にFBで教わった)のは、相手と信頼関係があると確信できている証拠だろう。あるいは、「り」を使うことが、「ボクたち、親しい間柄だよね」という暗黙のメッセージになっているのかもしれない。

 「貴重なご意見ありがとうございます」とか「カイギを始めさせていただきたいと思います」的な言葉遣いのTPOはよく考えてほしい、と書いた。
 別の角度から言うと、そういう枕詞が要らないくらい、お互いに信頼しあえる関係性を作り、ストレートに意見をぶつけ合っても「人格攻撃」と思われないオープンな環境を作ることが、より効率的で生産的な議論を可能にし、組織の力を高めていくことにつながると思う。

 それが「心理的安全性」のある職場環境である。

 でも、「信頼」のモノサシは人それぞれで、いつ、どの枕詞を要らないものにするかは、人によって異なる。
 ガロの恋人が、「サヨナラ」も言わずに去ってゆく後ろ姿を見送りながら、「彼は私を信頼して、気を許している証拠なんだわ」と前向きに捉えてくれるとは限らない。1度でいいから、「キミを愛しているよ」と言葉にしたほうが、確実に恋人に安心感を与えられる。
 ビジネスの世界でも、リーダーが「キミたちを信頼しているよ」「だから要らない枕詞の応酬に時間をかけず、ホンネをぶつけ合おう」と心から伝えることが、大切だと思う。