私の震災記録(憶) | 化石の日々

化石の日々

オフィス ジオパレオント代表のサイエンスライター 土屋健の公式ブログです。
化石に関する話題,ときどき地球科学,その他雑多な話題を書いていきます。

東日本太平洋沖地震の発生から,1年が経過しました。
今なお,復興途上にあり,被災地の皆様のご苦労を思うと,同じ日本人としてやるせない思いがあります。
一日も早い復興を祈り,自分にできることを探し,進めていきたいと思います。

2011年3月11日。
私は,科学雑誌の記者編集者でした(今は独立しています)。
本誌小連載のデスクも担当していました。
この日からはじまる数日間のできごとを,記憶とtwitterの記録,手帳等をもとにしながら,ここにまとめておきたいと思います。
なお,多分に記憶にもとづいていますので,関係者の方が見られて間違っている,と思われましたら,ご指摘頂けますと幸いです。

3月11日。
この日,朝から,はやぶさ関連の「イトカワの粒子」に関連して,長文のツイートをしていました。
記者発表会に出席したところ,初期分析の「中間発表」に対して,あまりにもな対応のメディアが多く,また,事前の勉強なしで出席しているメディアもいて,それに対する苦言のツイートをあげていました。
昼休みに会社でtwitterをチェックしたところ,反響が大きく,次のようなツイートをしています。

共感をもっていただいた方が多かったようで,ほっと一息です。しかし,あまりネガティブ視点ばかりに目がいくと自分もネガティブな思考に陥ってしまいそうなので,ポジティブに切り替えていきたいと思います。さぁ,出稿だ。テンションあげていくぞー!!」

ちょうどこの日,本誌の出稿日でした。

14:48 次のようなツイートをしています。


「新宿,ゆれてます。これはすごい。」

オフィスは20階にあります。
机の上の資料が倒れたり,私の席に打ち合わせにきていたスタッフが立っていられなくなったり,ゆるやかではあるものの,大きなゆれでした。

twitterをみると,15:08にも「まだゆれがあります」とツイートしています。この間に,最大6mの津波警報のツイートがTLに流れてきたので,リツイートしました。

自宅が心配だったので,すぐに電話をしたところ,一度はつながり,とりあえず妻の無事を確認。
しかし,電話はその後はいっさいつながりませんでした。ただし,Gmailがつながったので,Gmailを使って自宅の妻と情報のやりとりをしていました。

その後,おおきな揺れがくるたびにツイートしています。

地震の被害は気にはなってはいましたが,目下,〆切がせまっていたので,編集部内はその慌ただしさの方が勝っていました。
編集部では,twitterをやっているスタッフがTLを画面の端に表示させつつ,気象庁HPなどで折りをみて情報を収集しながら,記事の最終仕上げに力を注いでいたと記憶しています。

地震情報でこれは,というものがTLに流れてきたら,そのつどリツイートしていました。

19:08

同業のフォロワーの方の,「この状況では集中して校正できない」旨のツイートに「まったく同感です」と反応。

深夜になって仕事が一段落つきそうになったときに電車の運行状況を調べてみると,どうも情報が錯綜していてよくわからなかったと記憶しています。
実際,ビルの外では,いわゆる「帰宅難民」も発生していたようです。

デスクとしての仕事が長引いたのもあって,結局,帰路についたのは,12日の3:26でした。その間に何度もtwitterなどで電車の混雑状況を確認し,結局,いつもの通勤経路は使わずに,動いていて混雑の少ないとされるルートで帰宅しました。

途中,人ごみの整理などで働いている鉄道マンに何人もお会いしました。
本当にありがたかったです。あらためて感謝。

翌 9:57 には,節電に関する最初のツイートを自分で行っています。


「節電が呼びかけられている。無事帰宅できた私たちに何ができるのか。PC,テレビは情報源でもあるので切るわけにはいかない。暖房のスイッチはすべてオフ。家の中を見回し,電源オフが可能なものは,とにかくオフにする。寒いのは厚着でカバーできる。さぁ,我が家の太陽電池よ,はたらいておくれ。」

で,11:10 には,会社から持ち帰った仕事を再開しています。
繰り返しますが,〆切最中だったのです。

17:08に,いわゆる「ヤシマ作戦」のツイートがTLに流れてきたので,賛同の意を示しました。
この作戦は,twitter上でよびかけられた節電プロジェクト。電力消費の大きい夕方に,可能な限りの節電をしようというものでした。
このときは,ヤシマ作戦の広がりをTL上で感じ,民間の力強さを実感したものです。
「できるところからやっていく」。大切なことだと思います。
のちに「節電の夏」などが訪れて,強制的な節電が行われるました。その際に「ピークカットという電力の特性を理解した対策」が,とられなかったのは残念なことです。
単純に「出社時間を早める」とか「残業をなくす」とか。そういう対策がどれだけ役に立ったのかは疑問です。
単純に「○%削減」という,その数字だけが一人歩きしてしまいました。

3月13日の私のツイート


「ドコモのスマートフォンで「緊急地震速報」が受信できない。受信できるアプリをご存知の方,いらっしゃいますか?  ドコモさん,切実な問題なので,早急のご対応をお願いします。いつかできるだろうと待っていたのだけれど,今は必要なとき。アプリ開発できる方,なんとかならないのでしょうか?」

これはいまだに改善できていませんね。
アプリはいくつか出ましたが,性能に差があります。
この1年で,スマートフォンはより一層シェアをのばしました。携帯電話会社の本気の対応を願うばかりです。

こうして震災の第一撃が終わった後,東京のサラリーマンを襲ったのが,交通機関の混乱でした。

3月14日 2:34 の私のツイート


「池袋線が運休とは。参りました。原稿の校正刷りを持って帰ってきているのに。。。JR,東上線がまだ対応をしっかりと発表していないのも困る。停電になると情報収集能力がおちてしまうので,早期の発表,がんばってください!!」

7:38の私のツイート

「西武池袋線,急遽10時20分までの運行を決めている,とのことです→  。「お帰りが困難になる可能性」との注釈付。相当混雑している模様です。会社にメールを入れ,時間差出勤を試みることにしました。」

当時の混乱がわかります。
電力不足への対応に,各電車会社は対応がわかれました。
早々に運休を決めた会社,状況次第で柔軟に変更を決めた会社。
いずれにしろ,車内の混雑も相当なものでした。
普段のダイヤがいかに計算され,いかに多くの人々を効率よく運んでいるのかを実感したのを覚えています。

3月15日11:06 原発をめぐる政府の混乱が表に出てきます。このときの私のツイート。


「管総理:屋内退避のお願い 原発から30km以内。」

一方,都内では食料の買いだめ,ガソリンの不足がはじまりました。
その旨をまたマスコミがあおるように報道するので,より一層,混乱がつづきます。
3月の「買いだめ」「買い占め」騒動は,マスコミにも大きな責任があったと思います。

3月16日。地震発生前から予定していた取材で,札幌へ(日帰り)。
交通機関に混乱なく,無事取材を終えることができました。

この段階で,編集部では地震に関しては特集記事をのせる方向で進んでいました。
すでに第一報は滑り込ませるように入稿済みで,次号では詳報をのせた特集記事を組むというスタンスでした。

一方,編集部は,放射線に関する世間の混乱をみて,放射線をわかりやすく解説した過去の記事を,web上で無料提供を開始しました。

この頃になると,震災詐欺への警戒も出てきます。私も重ねてツイートしています。

3月17日。政府は大規模停電の可能性を急遽発表。会社もその発表をうけて,早期帰宅をよびかけます。各社同じように対応をとったため,混乱が発生しました。
このときの私のツイート。18:48。


大規模停電の可能性がある,それで首都圏の鉄道は大混乱を招いているというのに,今,記者会見を開く必要があるのだろうか。任命式だって同じ。もっと柔軟に。民間の電力が落ち着いた時期にやればいいのじゃないかな,と思います。鉄道大混乱で帰宅を見合わせている身にもなってほしい。」

このとき,私が嫌ったのは,大規模停電によって,すし詰めの電車内や駅に閉じ込められる事でした。
どうせ停電になるのなら会社ですごそうと思って,会社で仕事をつづけました。
広いフロアで,この選択肢を選んだのは私ともう一人だけ。

結局,21時まで待っても大規模停電は発生せず,帰路に。
がらんとした,人気のない電車で帰路につきました。節電のため,暖房が切られていて,やたら寒かったのを覚えています。

3月18日。はじめて「計画停電」に遭遇します。
実際には,以前からはじまっていましたが,出社していたので体験せず,このときがはじめてでした。
23区内は例外,としてはじまった計画停電は,実に不便なものでした。信号機も消えます。郊外では,交差点の事故も発生しました。死者も出たと記憶しています。
「計画」停電なのだから,ボランティアを募るなどして警察が交差点で手差し信号をしてくれないものか,と当時考えたのを記憶しています。

3月19日。このようなツイートしました。


「私のTLに,日常のツイートが少しずつ戻ってきている。良いことだと思います。被災地外にいる私たちにできることは,「節電」「募金」「普通の生活」。断じて「買い占め」ではないはず。経済活動を戻し,復興の後押しを強力に進めることだと思います。」

あわせて,地震発生時からこの間にかけて海外の友人たちから心配するメールを何通ももらいました。

これはその抜粋。


 I hope your friends and family are safe. Our hearts are with you

ありがたい。本当にありがたいです。
このやさしさを私は生涯忘れません。

3月21日。
私は毎日twitterで,地質や古生物のニュースを発信しています。
しかし地震発生後は,重要なツイートの邪魔にならないように,その発信を見合わせていました。この日,自粛していた地質や古生物の通常ニュースの発信を再開しました。

このころ,編集部は本誌の方針の大転換を行っていました。
震災の特集記事を掲載するのではなく,1号まるごと震災特集号にしてしまおう,というのです。
〆切まで1か月をきって,1冊まるごとの特集というのは,過去例がありません。
編集部は総動員態勢となり,ほかの記事を抱えていた者も,ほとんどのスタッフが導入されました。

このときの特集号では,

1.  東日本太平洋沖地震の科学的な詳報
2.  東海,東南海,南海地震の特集
3.  原発の特集

の大きく3パートがつくられ,スタッフが各担当に割り振られました。
私は,「
1.  東日本太平洋沖地震の科学的な詳報」のスタッフを率いる事になり,3人で取材,執筆,編集にあたりました。
もともと予定していた記事の協力者,取材先に延期の連絡を行い,新たに主として地震研究者,津波研究者の方々にアポをとっていきます。
ある研究者に取材したときの一言が印象的で,
「南海トラフばかり警戒していて,こっちは予想していなかった。。。貞観地震とかの記録も知っていたのに,東北沖を警戒しようとはしなかった」
と肩を落とし,うなだれるように話をされました。

3月23日。
ようやくガソリンスタンドの混雑が緩和されるようになりました。
地震の発生から2週間弱。給油のために整理券が配られたり,2時間も待ったりする状況に,終わりが見えてきました。
あわせて,食料の供給も落ち着いてきました。
被災地から離れた関東で,こうした混乱が起きた事は,今後の課題として残ったことだと思います。

4月1日。
通勤電車が通常運転を再開。
新しいスタッフが入社。


約半月間の記録をまとめてみました。
冒頭にも書きましたが,まだ何も終わっていません。
何よりも大事な事は,この震災を「過去のもの」として忘れない事だと思います。