耳が聞こえづらいのだ、ベートーベンは難聴だったと言われるが音楽の能力と共に引き継いでしまったのだろう。
そして神経質になり、周囲の評価がいつも気になるようになった。自分にいつも完璧を求めてしまうので大きなコンサートの前などは、体を壊すほどに練習しなくてはならなかった。
米藤はもともと大らかなトラック運転手。小さいことなど気にしない性格だったが、人が変わったようになった米藤を見て離れて行く者も増えてしまった。
「音楽家ってやっぱり大変なんだな。トラックで荷物を運ぶ時なんかは事故を起こさず、荷物さえ無事に配達してれば取りあえず何も言われないもんな」米藤はしみじみ思った、コンサートが忙しいので長年勤めていた運送会社には休職願いを出していたのだ。
静かな満月の夜、また夢にベートーベンが現れた。
「ピアノが弾けるようになって良かったかな?」ベートーベンは前に見た夢と同じように、ピアノの前に座って米藤に尋ねた。
「うーん、確かにピアノを上手く弾けるっていうのは気持ちいいね。聞いてる人も褒めてくれる。でもやっぱり、すぐに飽きられちゃうんだね」
ベートーベンはうなずいた。
「聴衆というのは強欲なものでな。一度感動を覚えるともう一度、若しくはそれ以上の感動を求めてくる。我々音楽家は常にその期待に応え続けないとならない」
「因果な宿命ってやつだ」米藤は宙を見つめながら呟いた。
「どうだ?今後も私の代わりとなって聴衆の前でピアノを弾く気はあるか?」ベートーベンは米藤の目を真っ直ぐ見据えて尋ねた。
米藤は少し考えたが、最後ははっきりと答えを言った。
「いや、よしときますわ。もう十分。やっぱり俺は、トラックの運転手で居る方が性に合ってるんだろうね」
ベートーベンは米藤を見て、ほんの少しだけ笑ったように見えた。寂しい笑顔だった。
翌日、米藤は市役所に行って名前を丸山に戻した。ピアノは弾けなくなったが、難聴も治った。
職場に復帰し、名前を戻したことを親しい人間には伝えたが相変わらず「米藤」とか「ベートーベン」と呼ばれた。もともと顔が似ているだけなのだし、あだ名のようなものなので米藤も気にせず仕事をした。
馴染みのスナックにマリも戻ってきた。復帰祝いをしようと常連の客が集まり、マリは米藤の隣に座った。
「丸山さんごめんなさい、私が変なこと言ったばかりに改名させちゃって」マリは心底申し訳なさそうな顔をしている。
「かまわねえよ、俺が自分で改名したいと思ったんだ。しばらくの間だけど、音楽家気分も味わえたしな」米藤はそう言ってウイスキーの水割りをあおった。
「でもテレビで見たけど、ピアノ弾いてる丸山さんとってもカッコ良かった。本物のベートーベンみたいだったし」マリはそう言って、丸山の膝に手を置いた。
「うーん、マリちゃんがそう言うならまたピアノ教室に行こうかなあ。でも、ちゃんと聞かせられるまで何年かかるかわからないよ」
「大丈夫、わたし気が長いのが取り柄だから。丸山さんが上手くなるまで何年でも待ってるわ」
マリが微笑みながらそう言った時、米藤にカラオケの順番が回ってきた。
「聴衆のみなさんを楽しませるのもけっこうだが、取りあえず今の俺は自分を楽しませたい。さあ、古臭い演歌だけど聞いてくれよ!」
歓声が沸き起こり、小さな街の楽しい夜が幕を開けた。