エッゲンベルク城見学ツアーへのぼっち参加 | PACK RATのブログ

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こちらは退職したあるシニアのブログサイトです。はるか昔の想い出話と無責任なひとり言を書き綴っています。

クレア

 

 

クレアの散歩でよく通る小道がある。大通りから外れただけの細い脇道にすぎない。転居してしばらくして、その小道は太閤道と呼ばれていることを知った。

 

1591年、天下統一を成し遂げ太閤と呼ばれるようになった豊臣秀吉は朝鮮出兵を企て、その国内拠点として肥前国松浦郡名護屋(現在の佐賀県唐津市)に名護屋城を築かせた。1592年太閤秀吉は諸国大名に動員を命じ、数十万の兵を出征させた(文禄の役)。

 

太閤道とは、このとき整備された名護屋城へ通じる道、もしくは太閤自身も通った道ということのようだ。

 

  

西に延びる太閤道上にてお座りするクレア:

私「430年前、豊臣秀吉がここを通ったのかもしれないよ!」

クレア「そんなことはどうでもいいから、私にはビスケットが必要だ!」

 

 

 

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エッゲンベルク城の「豊臣期大阪図屏風」

 

グラーツはウィーンの南西約150 kmにあるオーストリア第二の都市で、ルネッサンスをはじめ各様式の遺構が残る建築都市として知られています。1999年にグラーツの旧市街が歴史地区として世界文化遺産に登録され、2010年に郊外のエッゲンベルグ城が拡大登録されました。

 

私は現役のときグラーツを訪れるチャンスが2回あったのですが、いずれも都合が悪くキャンセルをしていました。そこで退職後の一人旅の途中にグラーツ滞在を1日だけ加えることにしました。

 

旧市街の街歩きがお目当てで、エッゲンベルク城はあまり興味がなかったのですが、何故かここに「豊臣期大阪図屏風」というものがあることを知り、ちょっとだけ見てみようかという気になりました。


  

エッゲンベルク城庭園の入り口ゲートで2ユーロ支払って園内に入って行きます。しばらく歩くとお城が見えてきます。

 

このお城は1630年ごろ、ハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝フェルディナンド2世の家臣であったハンス・エッゲンベルク公によって建てられた、正方形の形をした宮殿です。4隅に塔がありますが、それぞれ火、水、風、土といった自然の4大要素を象徴しているそうです。

 

この御仁はカレンダー歴にたいそうご執心だったようで、建物全体にそのこだわりが見られます。例えば、窓の総数は365、門の数12、各階の部屋数31、客間の数24、客間の窓の数は52(1年間の週数)といった按配です。

 

 

上の写真中央の入り口から入っていって城内見学のチケットを買おうとしました。ところが、この施設は個人の勝手な入場は許されず、ガイド付きのツアーに参加しないと内部には入れないルールでした。

 

仕方がないので14時発のツアー参加を申し込み、しばらく園内をぶらついて時間を潰し、5分ぐらい前にツアー出発の場所に戻りました。その頃には10〜20名のツアー参加希望者が集まっていました。

 

時間が来て一人の女性ガイドが現れ、ツアー参加者はぞろぞろとそのガイドのもとへ集まって行きました。私もうしろからついて行ったのですが、どうもそのツアーの言語はドイツ語のようでした。あれっ、と思っていると、どこからかもう一人の40歳代の男性ガイドが現れ、

 

「本日のこの時間の英語ツアーの参加者はあなた一人だけです!」

 

「ッグア〜〜ン!!」

 

学校の授業で、最前列の先生の目の前の席に座らせられたような気持ちでした。

 

以前にも内部見学ツアーへのぼっち参加の経験はありましたが、今回は軽い気持ちで手短かに済ませようと思っていましたので、正直ありがた迷惑な感じでした。参加者が10人もいれば、付かず離れずの距離を保ちながら自由に行動できるのですが、ガイドとの1対1だとかなりの集中力が必要になります。

 

しかしここは開き直って、「歴史はどうせ素人だし、おとぼけ質問を連発してガイドを困らせてやろうぜ!」という気になりました。

 

 

内部連結した7つの貴賓室のうちの一つ:赤い絹のダマスクと白と金箔の装飾が美しいバロックの世界

 

宮殿の教会:正面の絵画はローマのサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の伝説に基づく「雪の聖母」(Our Lady of the Snow)

 

 

ようやくお目当てにしていたジャパニーズ・キャビネットの「豊臣期大阪図屏風」に面会できました。

 

  

八曲の屏風は一枚ずつに解体分離され、中国風絵画と交互に配置されていました。

(左)左側面の手前に❶、(右)左側面に❷と❸、および正面左に❹

 

正面左に❹および右に❺

 

  

(左)正面から右に❺、および右側面左に❻と右に❼

(右)右側面手前に❽

 

以上の詳細はAppendixに示します。

 

 

 

宮殿の改装に伴ってサロンに展示された、グラーツ生まれの画家ヨハン・バプティスト・アントン・ラウナッヒャー(1729-1771)のロココ絵画:宮廷人たちが道化師の演じるエンターテインメントを楽しんでいる様子を描いたものと思われます。

道化師が絵画に頭から突っ込んでいます。コメディーといってもこれは少々やりすぎでは。。。

 

宮殿のハイライトとも言える大広間、名付けて「惑星の間」:壁と天井には、惑星、占星術、数字、エッゲンベルク一族をモデルにした神話をモチーフとしたハンス・アダム・ヴァイセンキルヒャーの絵画が飾られています。

 

 

ぼっちツアーが終了したのが15時過ぎ、1時間強の見学でした。終わってみれば、集中できて楽しかった。ガイドも懇切丁寧に説明してくれましたし、私のおとぼけ質問にも親切に対応していただきました。ただし、写真撮影には集中できませんでした。

 

城を出た後、最寄りの電停に戻ってトラムに飛び乗り、大急ぎでグラーツの旧市街に向かいました。

 

 

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Appendix:豊臣期大阪図屏風

 

オーストリア政府観光局公式サイトより

https://www.austria.info/jp/where-to-go/cities/graz/osaka-folding-screen-in-eggenberg

 

この屏風絵は1610年前後に描かれたものと推測されている。大阪城に加えて、四天王寺、住吉大社、岩清水八幡宮、宇治の平等院などの神社仏閣、淀川に東横堀川、船場や堺の街並みとともに、大阪城下における武士や町人たちの暮らしぶりが活きいきと描かれている。

 

この屏風絵は17世紀半ばに東インド会社によって長崎の出島から輸出されたと考えられている。その後1670年前後に、エッゲンベルクの孫に当たる人が城の宮殿の改装と修飾のために購入したようだ。さらにその後の1750年ごろ八曲の屏風は一枚ごとに解体され、エッゲンベルク城の日本の間に飾られたという。しかし、1774年にエッゲンベルク家が途絶えたため、以降誰に知られることもなく230年近くその場所で眠り続けたらしい。そして2006年の城修復の際に、それが豊臣期の大阪の情景を描いたものであることが判明したそうだ。

 

400年以上前の安土桃山時代の庶民の生活ぶりを描いた貴重な作品が紆余曲折を経て、突然21世紀になってオーストリアから現れてきたとは、何とロマン溢れる話ではないか。屏風絵の解明に当たった関西大学の研究者たちもさぞかし興奮したことだろう。現在、大阪市のフェスティバルホールの緞帳にそのコピーを見ることができるという。