1981年のヨーロッパ旅行の思い出(概要) | PACK RATのブログ

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こちらは退職したあるシニアのブログサイトです。はるか昔の想い出話と無責任なひとり言を書き綴っています。

クレア

 

 

朝8時過ぎにクレアとの散歩に出かけると、幼稚園に向かう母親と幼児のペアによく出会う。

 

犬種がわかる子供は、「ゴーデュデン・デトディーバ」、「ゴールド・リリー・ワンちゃん」などと叫ぶ。正解ではないがかわいい。

 

子供は「デカッ!」、「でかい」というが、母親は「大きい」という。

 

一度おかしかったこと:

 

子供「でかい」

母親「大きい」と言いなさい!

子供「でかい」

母親「大きいい」

 

「でかい」と「大きい」、それぞれ交互に数回繰り返した後、ふと、子供が、

 

子供「大きい」

 

すると、

 

母親「でかい」

 

私は、えっ、今何が起こったの?

 

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ロンドン

 

私は、1981年の7月中旬過ぎにアメリカをあとにし、大西洋路線でイギリスに入った。ケンブリッジで用務を終えた後は数日間ロンドンに滞在した。

 

 

この頃のロンドンは10日後にチャールズ皇太子とレディ・ダイアナ・スペンサーとの結婚式を控え、祝賀ムードに包まれていた。

 

スイカを買おうとホテル近くの八百屋に立ち寄った時の、店の主人と客のお婆ちゃんとの会話は今でも忘れられない。

 

店の主人「今日はえらく嬉しそうじゃないか!」

客のお婆ちゃん「え〜嬉しいわよ、だってチャールズが結婚するんだもの!」

 

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プラハ

 

ついで、当時のチェコスロバキアの首都プラハを訪れた。

 

 

当時はまだ共産圏東欧の一国で、プラハは自由の束縛された、くすんだ寂しい街だった。

 

空港内は自動小銃を抱えた兵隊が警備し、物々しい雰囲気だった。

 

この町で偶然知り合った、東ドイツからの女性観光客と半日を過ごした。この女性はかつて東ドイツ代表の水泳選手として東京オリンピック1964に参加したらしかった。「金メダル?」と聞いたら、「その頃は弱かった」との返答。

 

訪問先の方のご好意で「ラテルナ・マギカ」を鑑賞した。感動した。

 

この街の思い出についても近日中に記事にしたい。

 

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パリ

 

ルフトハンザとエール・フランスを乗り継いでプラハからパリに移動した。

 

シャルル・ド・ゴール国際空港のセキュリティは厳しかった。

 

コロナ禍前の海外旅行の脅威はイスラム過激派組織によるテロであった。当時は日本連合赤軍(ジャパン・レッド•アーミー)によるテロ行為がヨーロッパでは強く警戒されていた。また、直接の関係はないが、パリ人肉事件などもあり、日本人は要警戒の対象であったろう。

 

セキュリティーでは、一人の兵隊が銃をかまえて見守る中、壁に手をつき足を広げるよう指示された(まるで犯罪者扱い)。上半身、下半身をまさぐられ、最後に股間を人差し指で弾かれた。

 

ナンシー滞在のほかはパリで過ごした。

 

 

当時は英語はほとんど通用しなかった。現在はかなり改善されていると思う。

 

マックなどでも、アメリカとフランスの微妙な違いに最初は戸惑った。「コーク」と「フレンチフライ」は通用しなかった。「コーラ」と「フライドポテト」と言うべきことがわかった。

 

レストランで、水の注文が面倒だった。

 

「エヴィアン」か、「ヴィッテル」にするのかを選ばなければならなかった。

「大、グラン」、「中、なんだっけ?」、「小、プチ」を指定せねばならなかった。

「ガズー」か「ノンガズー」(炭酸入りかなしか)をいつも聞かれた。

 

最近のブラッスリーでは黙っていてもお水の入ったボトルを持ってきてくれません?逆にどんなお水か少々気になりますが。。。

 

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帰路の飛行機

 

このころ北極周りで欧米旅行された方々は、アラスカのアンカレッジに給油のため立ち寄られた思い出をお持ちと思う。

 

ヨーロッパ線では、これは当時旧ソ連の上空を飛行機が飛べなかったためと聞いたことがある。のちにこれは改善された。

 

私の日本への帰路はJALだったので、この飛行機は旧ソ連時代のモスクワに着陸した。

 

私はPack_Ratなので、この機会に空港のトイレに直行し、ゴワゴワした薄茶のトイレットペーパーを掻き出しお土産に持ち帰った。

 

当時はトイレットペーパーの紙質で、その国の生活レベルがわかると言われていました。