あさかぜ1号 博多行
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せっかく復刻するのなら…

JRのオリジナル塗装や地域独自の塗装となった国鉄型車両の国鉄時代の塗装へのリバイバルをはじめ、今やすっかり一つの鉄道イベントとして定着した感のある鉄道車両への過去のカラーの復刻塗装(ラッピング)。
地元を走る西武鉄道でも現在3種類のリバイバルカラー編成が走っていますが、今日からさらに1編成のリバイバルカラーラッピングを施した編成が加わることになりました。
詳細はこちらの記事を。

旧西武鉄道「2色塗り(黄色と茶色)」復刻ラッピング、4/27から運行 | マイナビニュース
https://news.mynavi.jp/article/20240425-2934616/

西武の電車といえば、ステンレス車やアルミ車が大勢を占めるようになった今でも「黄色い電車」のイメージが強いですが、この塗装を1969年に登場した101系が採用するまでは赤(ラズベリーレッド)とベージュのツートンカラーが標準職で、1937~61年にかけて見られた今回ラッピングで再現される黄色と茶色のツートンカラーはさらにその前の標準塗装ということになります。
1971年生まれの私は、この黄色と茶色のツートンカラーの西武電車の現役時代にはもちろん間に合っていませんが、今回の復刻に当たりラッピングのモデルとなったモハ505号(現在は横瀬車両基地で保存)は数回実車を見たことはあり、見えない私でもラッピングのイメージはつかめます。
それにしても、リバイバルカラーブームの中でも戦前から戦後にかけての塗装が再現される例はその後の時代と比べると少なく、もしかすると今回のカラーに懐かしさを感じる人以上に、逆に斬新なカラーに感じる人もいるかもしれません。
また今回2色塗りのラッピングを施される2071編成が運用される池袋線には、すでに戦前のむさしの鉄道(現在の西武池袋線)時代の電車の塗装を再現した茶色のラッピングを施した編成(2069編成)もあるので、戦前記の塗装を再現した2種類のラッピング編成が並ぶという他ではなかなか見られない光景は注目の的になりそうです。
ただ、今回のラッピングが8両編成の両先頭車の先頭部分だけというのはちょっと残念な気がします。
コストの問題なのかもしれませんが、せめて両先頭車一両丸ごと、できれば8両編成の編成丸ごとのラッピングの方が、乗客へのアピールの点からもいいと思いますが…

え?!どうして俺が?

本日のお題:テレビや新聞の取材を受けたこと、ある?

生まれてからずっと、私は新聞や雑誌、テレビに自分が出る(あるいは自分のことが記事になる)なんていうことは自分には無縁の事だと思っていました。
特に芸能人やアナウンサーになるという夢があったわけでもなく、ラジオや雑誌への投稿などで自分の存在をアピールしたいという気持ちもほとんどありませんでした。
でも今から20年近く前、思いがけないきっかけでとある地方紙に私のインタビュー記事が載ることになりました。

このブログでも何回となく書いていますが、私は大学時代から約20年間、千葉市のおもちゃ図書館のボランティアとして障害のある子やその兄弟姉妹とおもちゃを通して交流する活動をしていました。
新聞に私のインタビュー記事が出たというのは、そのおもちゃ図書館のボランティアをしていた当時の話しです。

それは、私がボランティアをするようになって10年少々経った頃のことです。
あるおもちゃ図書館の開館日、いつものように開館場所だった千葉市療育センター(子供からお年寄りまで、障害を持つ人々がスポーツや文化活動などを行う施設)に行くと、当時そのおもちゃ図書館での全体のまとめ役的な存在だったあるボランティアさんから突然声を掛けられました。
その内容は、近日中におもちゃ図書館に千葉県の地元新聞「千葉日報」の記者の方が取材に来られ、その際に私にボランティア活動についてのインタビューをしたいという依頼が来たというのです。
いきなり私にインタビューと言われて少なからず驚きましたが、話はそれだけでは終わりませんでした。
それは、当時千葉日報では、読者からの推薦によって千葉県内で様々な活動に取り組んでいる個人や団体を表彰する賞が設けられており(現在もその賞があるかどうかはわかりませんが)、それに別のボランティアさんが私についての推薦文を応募し、選考の結果私がその年の受賞者の一人に選ばれたというのです。
それを聞いて私は正直、これはドッキリではないかと思ってしまいました。
推薦文を出してくださったボランティアさんによれば、私が大学時代から長い間、埼玉から千葉に通ってほぼ毎回ボランティアとして活動してくれているので推薦させてもらいました、とのことでした。
でも、私としては何か特別な思いで活動に参加していたわけでもなく、単に子供と遊ぶのが好きだからという理由だけで続けていたので、何かの賞に値する活動ができているとも思っておらず、にわかには信じられませんでした。
しかしそれがもし本当なら、照れ臭い気分ではあるけれど非常に光栄なことですし、こうした事で新聞記者の方にインタビューしていただく機会もそうそうあることではないので、取材を受けることになりました。

その翌週か翌々集の開館日、私へのインタビューとおもちゃ図書館の取材が行われました。
当日、千葉日報の記者の方とカメラマンさんの2人が来られ、まずは開館時間前に私へのインタビューが行われました。
私自身のことやボランティアを始めたきっかけ、ボランティアとして活動する中で感じたことなど、確か30分ほどの間にいろいろな質問を受けました。
もちろんインタビューを受けるという経験はほぼ初めてで、その緊張の度合いも受験や就活の時の面接ともまた違ったものがありましたが、記者の方はさすがインタビューの達人というべきか、非常にソフトな物腰で話しやすい雰囲気づくりをしてくださり、とても良い雰囲気の中でインタビューを受けることができました。
その後はおもちゃ図書館の取材に移り、私達ボランティアの活動の様子の写真を撮影したり、私以外のボランティアにも話を聞いたりと、記者さんとカメラマンさんは精力的に取材をされていました。
開館後1時間ほどで取材は終わりましたが、短時間ながら思いがけず新聞記者の方のお仕事の一端に触れることができ、とても有意義な経験ができました。

その数日後、私へのインタビューと取材の模様が千葉日報に掲載され、埼玉の我が家にも掲載紙を送っていただきました。
改めて自分のインタビュー記事を読むとやはりどこか照れ臭い気分になりましたが、私がそれまでボランティアとして活動してきた実績(と言えるほどのものはありませんが)を誰かが見ていてくれて、それが賞の受賞やこの記事につながったのだと思うとやはり素直にうれしかったのを思い出します。
記事が掲載された直後に、千葉市内にある千葉日報の本社で行われた表彰式でいただいた賞状は今も実家の自室に飾られており、その時にいただいた記念品の置時計も実家のリビングに今も飾られています。
時計は電池が切れたまましばらく飾っていましたが、最近電池を入れ替えて再び動くようになり、毎時00分になるとオルゴールの音色がリビングに響いています。
おもちゃ図書館のボランティアから遠ざかってもう10数年経ちますが、あの時の受賞とインタビューは、今もおもちゃ図書館のボランティアとして活動した時代の大切な思い出となっています。

通学中にプチ鉄活動

今回は、高校生時代の高校への通学にまつわる思い出です。

高校生の頃、私は通学には自転車と電車の両方を使っていました。
それは、自宅最寄駅まで自転車で行ってそこから電車で、という形だけでなく、晴れている時には自転車、雨の時などは電車で、というような使い分けをしていました。
自転車では15分ほどで行ける高校までの通学時間が、電車利用だと遠回りのルートになるため、その前後の自転車や徒歩を含めると50分ちょっとかかるのが難点でしたが、それでも電車通学だからこそのお楽しみというものもありました。
それは、電車乗車中に車窓をかすめる車両基地の状況を見ること。
私の通学ルートの途中には、西武の小手指車両基地があります。
西武池袋線の飯能・西武秩父方面行の電車に乗り、小手指駅を発車後すぐに進行方向右手に見えるのがその小手指車両基地です。
車両基地内の車両留置線や車両洗浄線は本線を走る電車内からほぼ全貌を見ることができ、この眺めは私が高校生の頃も今も、ほとんど変わっていないと思います。
現在でこそ、構内に並ぶ西部の車両たちもバラエティー豊かになり、加えて時間帯によっては相互直通運転で西武線内に乗り入れた東京メトロ10000・17000系や東急5050系・横浜高速鉄道Y500系といった車両も入庫している姿も見られるなど、毎日でも見飽きることのないであろう小手指車両基地の構内も、私が高校生だった1987~1990年当時は、構内に並ぶ車両の中で目を引く存在といえば当時の特急車両5000系と秩父線用でライオンズカラーの4000系くらいのもので、あとは当時の池袋線で運用された101系・新101系・3000系ばかりが並んでいました。
そんな中で、電車で通学中にいつもチェックしていたのが、構内の片隅(基地内の一番狭山ヶ丘駅寄りの、一番本線から離れた場所)でした。
片隅といっても、電車内はもちろん車両基地の外周の公道、さらにその公道と西武線との踏切からも窓や柵越し、あるいは直接にばっちり見える場所なので、「構内の一番奥」という感じはあまりありませんが…
なぜ私がその場所をいつも気にしていたかといえば、当時そのあたりで、廃車され、地方私鉄への転出もされず解体される車両たちの解体や、解体前提ではなくても新型車投入で余剰になった旧型車の一時的な留置が行われていることが多かったからで、時にはすでに池袋線の定期列車では見ることができなくなっていた形式の姿が見られることもありました。
私が高校生だった当時、この場所で解体されていたのは、新宿線への新2000系投入で余剰になった701系や、4000系や9000系に機器を提供するための一部車両の廃車が始まっていた101系あたりだった記憶があります。
その他、現在は多くが横瀬駅構内で大切に保管されている大正・昭和初期製造の輸入電気機関車数両も、工事列車等の牽引の任務を1986年に製造された電気機関車E31形に譲ってからしばらくの間、この片隅のスペースに並んで留置されていました。
私は電車で通学となるたびに、その場所に留置された車両たちの動向を見ながら通学していました。時には実際に車両の解体作業を目撃することもあり、これにはさすがに胸を痛めましたし、日を追うごとに形を失っていく車両を目にするのも辛いものがありました。

そうして、電車に乗っている時に目にするだけだった小手指車両基地でしたが、ある時自宅とその周辺の地図を見ていると、自宅から小手指車両基地まで自転車でもそう遠くない距離にあり、しかもそこから高校へもそれほど大規模な寄り道をしなくても向かえることがわかり、以来、自転車通学の日でも時折本来のルートを外れて車両基地ウォッチングの寄り道を楽しんだものでした。

現在では廃車となった車両の解体も小手指では行われなくなり、かつて車両解体や余剰車両の留置が行われていたスペースにも普通に現役車両が入っていたりするようですが、出入りする車両はすっかり変わっても構内の線路配置などが30年あまり前とほとんど変わっていない(と思われる)ので、当時のことを思い出すのはわりと簡単です。
私も10年ちょっと前、久しぶりに車両基地外周の公道から昔を思い出して構内ウォッチングを楽しんだことがあります。
この時は自転車ではなく小手指駅からの徒歩での再訪でしたが、久しぶりに通学中の「プチ鉄活動」を思い出してなかなか感慨深いものがありました。
ちょうどその時構内で見かけた車両の一つが、東京メトロ副都心線と東急東横線の直結による東急との相互直通開始前に訓練のため西武に貸し出され、小手指車両基地に入庫していた東急5050系(4000番台)だったのには、時代の流れを感じてしまいましたが…


 

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